いとしのオールドローズ どうしてその日、その人に声を掛けたのか。
まだ夜が明けきらないうちに目が覚めた。
普段からカムイは規則正しい生活を送っているおかげか寝起きは良い方だが、それにしても今日は早すぎる。二度寝でもすれば良いのだろうが、一度目が覚めてしまうと横になったところで眠ることが出来ないのは自分でも面倒な性質だと思っている。寝ようと努力するだけ無駄なので、諦めてベッドから起き上がると顔を洗い、いつもの作業着に着替えた。
(どうするかな)
と、部屋の真ん中に立ち尽くす。隼人から借りている本は全て読んでしまったし、こんな早朝から端末を眺める気にもならない。ブラインドの隙間から外を除くと、陽が出て少しは明るくなってきたようだ。
(あそこへ行ってみようか)
これだけ早ければ、まだ行ったことのない敷地の裏手にあるあの変わった建物を見に行けるのではないだろうか。ここに来たばかりの頃、隼人に研究所内を案内してもらった時に遠くから見たことがあるだけだが、それは研究所と直接は繋がっていないようだった。隼人からも「あれはこことは関係ない」と一言言われただけで、それ以上の説明はなかった。早乙女研究所で暮らし始めてもう十年ほどになるが、施設も敷地もあまりにも広く地下深く、カムイの成長と共に立ち入り制限が解除された場所もあったが、それでも一度も足を踏み入れたことのない場所もまだそれなりに多かった。
外に出るのはランニングをするためであったり、ただ外の空気を吸ったり少し考えごとをしたくて特にあてどなく歩き回っている時もある。今日は後者だ。カムイはメインエントランスから外へ出ると、目標と定めた方向へと歩き出した。
広大な山の中のどこまでが早乙女研究所の敷地となるのか正確に聞いたことはないのでわからなかったが、道が舗装されているところと、雑草が刈られているところまでは大丈夫なのだろうと思っている。研究所の敷地からは出ないようにと昔から言い含められていたし、特に出る気もない。外の世界に興味はあるが、自分の姿がどこに居ても異端視されるということは地底に居た時から正しく理解していたので。
だからこそ、隼人も特にカムイの行動に制限を付けなかったのだろう。隼人にはそういうところがあった。信頼されているということもあるだろうが、試されているとも思う。そうなるとカムイとしては意地でも期待ともつかぬそれを裏切りたくないし、道理のわからない子供だと思われたくもなかった。
「お前は、少し意固地なところがあるな」
「神指令の説明が足りないからです」
前に訓練についてどうしても納得のいかない説明を受けた時に、隼人に食い下がったことがある。
無駄な説明をしたがらないのは自分も同じだが、隼人は誰に対しても同じ立ち位置で話すため、言葉が足りなさ過ぎて隊員たちに主旨が伝わっていないことがある。そんな時に隼人に物申せるのはカムイやごく一部の限られた隊員だけだったので、次第にカムイを主として説明や指示を出す機会が増えていった。
カムイの外見や年齢、特殊な立場から最初は反発され聞いてもらえないことも多かったが、上司の意図を的確に伝えているということがわかると徐々に隊員たちに受け入れられるようになっていった。
既に研究所内でカムイに力で敵うものはいなかったし、自身も含め人の命がかかっている時に張って良い意地などない。その認識は速やかに隊員たちに共有されたようで、それをきっかけとして、隼人や敷島博士以外の人間とも多少ではあるが話しをするようになっていった。
それはカムイに役割を与えたかったからかもしれないし、単に話すのが面倒だったのかもしれない。
神隼人は人を見る。
試す価値がなければ、上手に立ち回ることができなればそこまでのものとして捨て置かれたろう。
そんなことを考えていたら、今日のミーティングでも訓練のメニューについての意見を話すように言われていたことを思い出し、歩を進めながら思考を整理する。
舗装されていない土の感触が好きで、わざわざ道を外れたところを歩く。目標としていた場所まではあと少しだろう。その建物の全体を見たことはなかったが、硝子と骨組みとで出来ているようで、大きくはないがドーム状の大きな天窓があるようだった。それに光が反射して、比較的遠くからでも位置を教えてくれる。天気の良い日は遠くからでもその反射光が目に入ったので、ずっと気になっていた。
(これは、温室……?)
近くで見るそれは半円に近い変わった形をしてはいたが、ほぼ硝子張りの温室のようだった。研究所を背にした場所だけは壁になっており、有事の際は背面から防護壁が出てカバーされる仕組みのようだった。
あまり大きなものではなく、居住スペースの一室より少し広いくらいだろう。その代わり丸天井になっているため高さはそれなりにある。
壁面の内側にはびっしりと蔓棚が置いてあり、それに張り巡らされるように伸びた緑で中はよく見えない。隙間からところどころ見える赤いものは花でも咲いているのだろうか。
(なんでこんなものが)
ゲッター線の調査の一環で土壌への影響を確認しているとかで、敷地内に畑があることは知っている。中にあるのは植物のようだから、これもそのためのものなのだろうか。中に入ってみたくなり入口はどこだろうと反対側へ回ってみると、人影が目に入った。
(……誰だ)
男が一人、壁沿いの植え込みの前に蹲っている。こんな時間にこんなところで? ここにそう簡単に不審者は入れないはずだが、早乙女研究所所定のものとは違う、元はカーキ色だったと思われる色褪せたツナギを着たやけにひょろりと細長い背中はここの職員とは思えなかった。
その人は座り込んだまま片手で小さなトカゲを掴み、陽にかざすようにしてしげしげと眺めていた。
トカゲは足をバタつかせ逃げ出そうとしているが、上手い具合に掴まれているらしく骨の目立つ筋張った大きな手の中でもがいている。
「そのトカゲ、殺すのか?」
「いや? 別に殺さないかん理由もないし、このまま離すさ」
突然背後から声を掛けたのに特に驚いた様子もなく。その人は尻尾が珍しい模様をしていたからな、と言いながら地面に手を近づけると、トカゲはするりとその手から逃れ、茂みの中へと消えていった。
それを目で追いながらふと視線に気づいて顔を上げると、その人はしげしげとカムイを眺めていた。
一瞬頭に血が上るが、カムイが嫌いな物珍しそうな目ではなく、何かを思い出そうと確認するためだと気付いて何とか抑え込んだ。それを知ってか知らずか、その人はカムイに話しかけてくる。
「あんた、昔神隼人が連れてきた子だろ?」
「そうだ」
カムイのことは研究所の人間なら誰でも知っているので、今更そんな質問を受けるとは思わなかった。本当にここの人間なのかと警戒するが、糸のように細い目からは今ひとつ感情が読み取れない。年齢は隼人よりも上だろう。敷島博士の方に近そうだ。だとしたら昨日今日ここに来たわけでもないだろうが、この研究所の関係者の顔は全て覚えたと思っていたのにこれまでに見た記憶がない。
「あんたは……」
「あれに乗るのか?」
カムイが問おうとするのと全く同じタイミングで質問をされる。この場所で言うあれとは、ゲッターロボのことだろう。まだ確定した訳ではないし是と頷いて良いものか迷うが、カムイの逡巡を気に留める様子もなく、男はそのまま言葉を続ける。
「だいたいな、一号機は気が短い馬鹿、二号機はスカした馬鹿、三号機は大飯ぐらいの馬鹿と相場が決まってる。お前さん何号機だ」
(まだ決まってはいない)
が、多分キリクだろう。キリク……二号機になるはずだと答えると、じゃあ神隼人みたいなスカした馬鹿になるんだ、と笑った。
「神さんはスカしてない」
カムイはスカしてるというのがどういった意味か正確にはわかっていなかったが、からかっているような響きなのは伝わってきたので思わず反論する。しかし特にそれが響いた風でもなく、
「今はそうなのか? まぁ、偉くなったもんな。昔はここの薔薇を勝手に切ってお嬢さんに渡そうとして、抜け駆けだとかであとの馬鹿二人と殴り合いをしとったもんだが」
カムイは隼人がそんな子供のような喧嘩をしているところが想像出来なくて首を傾げてしまうが、「せっかくここまで来たんなら中も見てけ。今が見頃だ」と声を掛けられ、着いてくるか確認することなく歩き出した背中を追って、中へと入った。
「ここは……」
温室の中は陽が集まるためか暖かく、一面緑の壁の合間合間に、濃淡様々な赤やピンク、乳白色の花が散っている。まろい柔らかそうな花弁が、作り物ではない繊細さで幾重にも重なり合っていた。
「本物の花、見たことあるか? ここの奴らは全部薔薇っつって片づけちまうが、ここのはオールドローズだ。綺麗なもんだろ。早乙女の奥さんが、大事になさってたんだ」
「そんな前から?」
カムイは早乙女博士のことは話しで聞いたことしかない。知ってるのだとしたら相当前から居るのだろう。
「あいつらすぐここで戦うもんだから何回も駄目にしちまったけど、株分けしたのを別のとこにも植えとるし、大抵根っこぐらいは残ってたからな。何度もやり直したもんさ」
カムイに向けてそう話しながら、視線は薔薇の蔓を慎重に見定めており、時折手にもった鋏で慎重に剪定している。
「早乙女の奴、全然世話しやがらないもんだから、俺がする羽目になっちまった」
まぁおかげでこんな年になっても仕事があんのはありがたいけどな、とカムイからの返事がないことを気にすることなく、一人で話し続けている。
「ここの薔薇を渡すと想いが伝わるとかガキ臭ぇこと言い出す馬鹿がいたもんだから、昔っから勝手に入ってきて持ってく奴が後を断たん」
「どんだけ人が入れ替わっても、なんでかそれだけはきっちり後の奴に伝わってんだよなぁ。敷島にトラップ頼んだこともあるけどよ、あいつ加減ってもんを知らねぇから、やりすぎて肝心の花まで駄目にしちまう」と聞くと、その様子が容易に想像出来てしまう。
ひとしきり話したら気が済んだのか鋏でぱちん、と薔薇を切り落とし、腰が痛えなぁと言いながらカムイにそれを差し出した。
「持ってけ」
鮮やかな乳白色の薔薇を手渡されて、カムイは困惑する。
「これは、どうすれば」
手に持ったそれを持て余したようにじっと見るカムイに、その人は呆れたように言った。
「飾るんだよ、綺麗だろ? ほんとにここの連中は余裕ってもんがなくっていけねぇな」
「枯れるまで自分の部屋に置いて眺めてもいいし、誰か言いたいことがある人に渡してもいい」
「誰か?」
確かに自画自賛する通りこの花は美しいから、自分の部屋に飾っても良いかもしれないと思う。
誰か、と言ってもカムイの極端に少ない人間関係で、渡せそうな人は一人しかいなかったので。
「こいつはうんと綺麗に育ったからな。誰が貰っても悪い気はしないだろうさ」
「渡せる人が居るうちに、渡しとけ」
(渡したい人)
貰った薔薇を手に温室を出て、来た道を戻りなが考える。綺麗だとは思うから、先ほどまで考えていたように自分の部屋に飾っても良い。でもきっと、彼が言いたかったことはそういうことではないのだろう。
(そういえば、ハン博士に少し似ていた気がする)
外見的なことではなく、雰囲気や接し方が。だから自然と話すことが出来たのだろうか。
そんなことを考えながら部屋へ戻るとほぼいつもの起床時間になっていて、カムイはとりあえず、とあまり使っていない方のコップに水を入れそこへ花を挿した。
「これはお前か?」
カムイ、と呼びかける隼人が手に持っているのは、朝あの人から貰った薔薇だ。直接渡すのはさすがに気恥ずかしくて、かと言って私室に勝手に入るわけにもいかないので、隼人の居ない時間を見計らって執務室に置いてきてしまった。しかし、今日に限ってそこへ行く用事が出来てしまう。中へ入り花を見た時のカムイの反応で、隼人は誰がそれを置いていったのか気付いたようだった。
「温室の薔薇か? よく取ってこれたな。しかし勝手に手折っては駄目だろう」
隼人は薔薇の出自にすぐに気付いたようだった。
「貰いました。伝えたいことがある人にあげなさいと」
「あのクソジジ……、じいさんがか?」
隼人は少し驚いたような顔をした。思わず口から出てしまったらしい言葉を言い直すが、どのみちあまり良い表現にはならない。 俺の時は有無を言わさず剪定鋏で斬りつけてきやがったのに……とぶつぶつ言っているから、あの人が言ったことは本当だったのだ。そんなことがあったのだと、少し笑ってしまう。
「楽しそうだな」
そんなカムイの顔を見て、何か余計なことを聞いたらしいと察した隼人は少し渋い顔をした。
「しかし、私に渡さなくても。お前の部屋にでも飾っておけばいいだろう」
そう言って、手に取った薔薇をカムイの方へと差し出す。
「余計なことでしたか?」
「余計というわけではないが……」
珍しく、歯切れが悪い。
この薔薇は、恐らく隼人にとって意味のあるものだ。だからこそ受け取り難いのだろうけれど、だからこそ渡したい。
あなたに、この花を。
「何も私でなくても良いだろう」
「いけませんか」
「聞いただろう? この薔薇を渡すのは」
そう言いながらまた花を返そうとしてくるので、その手をサッとかわして正面から見上げる。
まだ少し、あと少しだけ背が届かない。見上げることしか出来ない。力も、考えもこの人には及ばない。
カムイが本気だと言ったところで、子供の戯れ言とか気の迷いと言って逃げるズルい人だ。
だけど、
「あなたにしか渡せない」
真っ直ぐに目を見て言えば逸らすことも出来ない、不器用な人だ。
なのに口先だけは回るから。結局その後も少しの間隼人と押し問答になったが一向に埒が明かず、カムイは花を投げつけられる前にと隙を見て部屋を飛び出し、訓練に参加すべくそのまま走り去った。
翌日、どうなったろうかと訓練の前に執務室をちらりと覗いたら花はなかった。さすがに捨てたり人にあげたりはしないだろうから、部屋へ持って帰ったのだろう。
その後もカムイは折を見ては温室へと足を運んだ。彼は居たり居なかったりだったが、居なければそこで少し時間を過ごして帰ったし、居れば話しをしたり、薔薇の世話の手伝いをした。というかさせられた。
「自然に育つ野の花もいいが、こうやって手を掛けた花も掛けた分だけ綺麗に咲く」
「そういうもんですか」
「そういうもんさ」
花だって動物だって、なんだってそうだろ。そう言って深い皺の刻まれた手で、そっと柔らかな花弁をなぞった。
「最近あの人を温室で見かけませんが、ご存じですか」
定例のミーティング後、部屋から出る時にそういえば、と同じく部屋を出るところだった隼人に問い掛ける。訓練の合間や最初の日と同じように早朝に行ってみても温室には居ることはなかったし、ここのところ花が手入れされている様子もない。少しずつ荒れていく温室を見ていられなくて、見よう見まねで教わったことを思い出しながら世話をしてみるが、あまり上手くはいかなかった。
一応研究所の関係者ではあるようなので、隼人なら知っているだろうかと聞いてみる。
「あぁ、降りてもらった」
ここの冬は年寄には堪えるからな、とカムイの方を向くこともなく、歩きながら淡々とそう言われる。
(……嘘だ)
そう思ったが隼人にそれ以上時間を取らせるわけにもいかず、その場では聞くことを諦めた。
夜になり、仕事が終わったであろう頃を見計らって隼人の部屋を訪れる。
「どうした」
ドアを開けると椅子に座ったまま振り返る隼人はまだ白衣を羽織ったままで、自室にまで置いてある端末のモニターを眺めていた。しかし机の上に置かれたグラスには琥珀色の液体が注がれており、仕事ではない別のことを考えているようだった。
「邪魔をして申し訳ありません」
「いや、構わない」
カムイは形ばかり謝ってみるが、隼人からの返事はわかっていたので許可が下りるのとほぼ同じタイミングで部屋の中へと入る。その姿を確認すると隼人は椅子から立ち上がり、グラスを手にソファへと移動した。カムイもいつも通りその隣へと座る。隼人は軽く息を吐きソファに背を預けグラスを傾けると、カランと氷が当たる音がした。
「あの人は、何処へ行ったんでしょうか」
隼人と居る時に訪れる馴染んだ沈黙の後、昼間と同じ質問を繰り返す。
「言ったろう、山を降りたんだ。もうここへは戻ってこない」
やはりカムイの方を向くことなく、隼人はそう答えた。俯いた横顔に浮かぶその色を、これまでに何度も見てきた。ここのところ疲労の色が濃く見えるのは常に忙しい人だからと思っていたが、それだけではない。
(あぁ……)
その憂いの色で、カムイにも何があったのかわかってしまった。
隼人がまた一つ息を吐きグラスを回すと、溶けかかった氷が小さく音を立てた。
昔から小うるさいじいさんだった。あいつらと訓練をサボって涼しいところで昼寝していたら、ちゃんと地球守らんかい! と言ってバケツで水をぶっ掛けてきた。俺だけが一人戻ってきた時、お前さんはいつも貧乏籤引くな、そういう顔をしとる! とけたけた笑っていた。そしてそのあと、残ってくれてありがとうな、と言って思いきり背中を叩いてきた。
年寄だから、体も弱ってここでの戦闘やこの異常気象には耐えられそうになかったから、俺より先に死んじまっても仕方ないだろう。なるべくしてなっただけのことだ。それでも、あの時代を知る人間がまた一人いなくなった。どれだけ、この先もどれだけ失うのかもう考えたくもない。
「神さん」
俯く隼人の髪にそろそろと指を伸ばす。眼を閉じて、眠っているのだろうか? 一房手に取ると、音を立てることなくさらりと指の間を流れた。それ以上距離は詰めない。ほんの少し、彼の一部を手に取るだけだ。
「お前は昔からそうしていたな」
起きていたらしく、そう言って隼人はグラスをテーブルに置くと、ソファに深く身体を預ける。普段カムイに酔っている姿など見せることはなかったけれど、いつになく色付いた頬が酔いの深さを示していた。
「なんででしょう。自分でもわかりませんが」
好きだったので、と聞こえないくらいの小さな声で呟く。
幼い頃、この髪を触らせてもらうのが好きだった。隼人にもたれかかり髪を握ったまま眠ってしまったことが何度もあったが、引っ張られて痛かったろうにそのまま眠らせておいてくれた。その時の延長上なのか、今も隼人はぴくりと反応はするがカムイの好きなようにさせてくれている。
いつからか隼人に触れてみたいと思うようになったが、小さかった時のように手を繋ぐのもおかしいように思えて、代わりのようにその髪に触れる。
濡羽色だったそれは年を追うごとに変化し今ではすっかり色が抜けたけれど、この背に流れる髪が、
(好きだ)
「カムイ? どうした」
大切なものを扱うように、恭しく手に取った髪にそっと口付ける。気付いているのかいないのか、ぼそりと低い声で隼人が問い掛けてくるがすっかり酔いが回ったのか、その眼は閉じられたままだった。
「なんでありません。もう休んでください」
このままここで眠ったら風邪を引くだろう。隼人の肩に手を回し立たせようとするが、体重を掛けられそのまま後ろへと倒れこんでしまう。
「神さん?」
隼人とあの人の間のことを、カムイは知らない。ただ二号機乗りは長生きしちまうから沢山働かせられる。覚悟しとけ、と言われたことから、ずっとここで起こったことを見てきた人だったのだろう。
少し酒臭いと思いながら、ずしりと重い身体を支えその背に手を回し軽く叩く。昔自分がそうしてもらって安心出来たように。
隼人は眠ってはいないだろう。背に腕を回したまま、音をたてぬよう息を殺していると心臓の鼓動が響くのがわかる。カムイのいつになく速い心音も、伝わってしまっているのだろうか。
大丈夫です。あなたは酔ってそのまま眠ってしまったので、俺は何も見ていません。だからどうか、もうしばらくそのままで大丈夫です。
「カムイ、お前は」
いい子だな。
掠れた声で言うこの人を、俺は、俺だけは決して置いていかないと。
きっと約束することは出来ない。
(……すみません)
初めてこの人に、心から謝る。
「あの温室、俺が引き継いでも良いでしょうか」
翌日、執務室へ向かう途中の廊下で会った隼人は少し寝不足気味の顔をしていたが、それはそれでいつものことなのでカムイもいつも通りのトーンで声を掛ける。
「お前が?」
カムイが訓練や戦闘に関すること以外で何かしたいと言い出すことはほとんどないので、隼人は興味深そうな顔をしていたが、「他に人もいないから構わん」とすぐに許可をくれた。
「鍵は事務室で管理しているはずだから、そっちで聞いてくれ」
「はい」
聞きかじっただけの知識で、あの人ほどきちんと世話は出来ないだろう。枯れてしまうかもしれない。花も咲かないかもしれない。それでも朽ちていくのをただ見ていたくはなかった。
「咲いたら、またお渡しします」
「いや……、まぁ」
それはいい、と辟易とした様子で隼人は言う。
「それより、花が咲いたら教えてくれ」
あの形になってから一度も中に入ったことがないから見てみたい、と言われる。
「はい、是非」
せいぜい頑張るんだな、と去り際に軽く肩を叩かれればカムイとて意地でも咲かせてみせようと決意する。
またあの温室でオールドローズが咲いたら。
今度は一輪ではなく、束にして渡してやろう。
間違いなくうんざりした表情を浮かべるだろう隼人の顔を思い浮かべ、カムイは新しく追加になる日課に合わせた起床時間を考えながら格納庫へと向かった。