隣は私じゃ駄目だから※キャプションを必読です
※読みましたね?
※ではどうぞ
身投げをしたところで消えられるでもあるまいに。
崖に立ち下方を覗く海神へ、小次郎は思わず声を掛けた。背中越し故表情はわからないが、きっと思い詰めた顔をしている。そんなことが伺える背中だったからだ。
こちらを振り返った彼はいつもと変わらずどこか気怠げな顔をしている、そうであってくれ———祈るような小次郎の願いを、海神の目元にある水の粒はそれを裏切るかのように光った。なぜ彼が(おそらくは)泣いているか見当も付かず固まっていると、海神は重々しく口を開いた。
「…たまに、いっそ海そのものにでも成りたいときがある」
「そりゃあまた、どうしてだい」
「海は平等だ、生を育むときも。死を与えるときも。どんな者に対しても…例えば余を除いて」
参った。唯ならぬ気配を感じ堪らず話し掛けたものの、何か哲学的な話題を振られているのだろうか。よりによって、彼が、自分に。このままでは文字通り太刀打ち出来ない、そう考えていたところに、追い討ちが如くこう続けられた。
「お前たちの童話に、あるだろう…想いが実らず泡になって消える人魚の話が」
知らない。小次郎は生を受けてから死後のまさに今まで、この神と比肩する程に書を嗜み知識を付けた経験が無い。さて何と応えようか。黙っている小次郎を見て、やはりと言わんばかりにため息を吐きながら、くだらぬことを言った、忘れろと呟き、小次郎の脇を通り過ぎようとした。
その手を掴む。
「すまんな、学が無えもんで」
「童話だろ?教えてはくれんか……お前さん自身の言葉で」
一方海神は己のミスに居心地を悪くしていた。よくよく思い返すとかの童話は此奴があの島で沈んでから人の時の数え方にして二世紀後に世に出た物だ。しかも海で隔てられた異国の地で。例え名前すら耳にしたことが無かったとしても致し方無し。ぼうっと一柱海を見ていたとき此奴の気配すら感知出来ず声をかけられ、まとまらない思考のまま話を始めた己の責である。隣をちらと見ると、急かしはしないがこちらが何か話すのを待っている様子。人に、しかも此奴にこれ以上見られてはたまったものではない。涙も涸れかけてきたところで、観念して話してやることにした。
「まず人魚の概念は知っているか」
「魚…河童とか水辺の生き物かい?それなら…」
当たらずとも遠からず、と言ったところか。
「上半身が人、下半身が魚の尾側の生き物をイメージしろ…その者が、この童話は若い女だが…人に恋慕の情を抱いてな…最終的に想いが報われずに泡沫になって消える、という話だ」
「…なんで報われなかったんだ?」
掻い摘んでストーリーを聞いた小次郎がぽつりと漏らす。
「…相手の幸せと自分の生命を天秤に掛けた結果だな」
「そうか…」
短く呟きそれっきり何も言わなくなってしまった。波の立てる音だけが鼓膜を心地よく揺らす時間が暫く続き、漸く、思慮を含んだ声でこう問うた。
「自分が幸せになれないとわかって死にたかったのかね、……その、なんだ、人魚とやらは」
「…………さあな」
「お前さんならどうしたんだ」
直接的な問いを突きつけられ、海神は言葉に詰まる。己が始めた物語であるにも関わらず、どうしようもなく不安で落ち着かなくて、不愉快だった。何とか言葉を続けようとしている己自身が。
なぜ、たかが人間相手に。
「…余は」
きっと欠壊するとわかっていたのに。
「死ぬことも泡になって消えることも諦め切ることも出来なかった」
声を出したらもう止められないとわかっていたのに。
「統べる対象ではなく、いっそ己が海ならば、誰も彼も等しくいられた。全ての生命が等価であって、特別な者など生まれるはずが無かった」
小次郎が目の前の海から視線を隣に移すと、海神は再び落涙していた。
(泣いてても綺麗な生き物っているもんなんだな)
嫌がられるだろうか。
距離を詰め、怖ず怖ずと反対側の肩に手を回し己の方に体を凭れ掛からせると、涙の流れも傾き小次郎の着物に染み込んでいった。
それが契機になったのか。普段より大きく見開いた目から止処無く雫が流れていく。端正な顔がくしゃりと歪み、口から生まれ出でるは支離滅裂な言葉の欠片。小次郎は波音に掻き消されかねないほど小さく頼りなく不明瞭なそれらを、真摯に、丁寧に拾い集めた。「あにうえ」と幼子のように泣く彼の肩を抱きながら。
ずっと一緒にいられると思っていたのに。
「そこ」は余の居場所だったのに。
余にはお前しかいないのに。
あにうえが余の全てだったのに。
どうして。
どうして?
おいていかないで
勝手な想像をした。
あの兄さんなら、大事な弟にいの一番に報告するだろうな。このおなごと一緒になるのだと。
その時あんたはそんな気持ち、噯にも出さずに祝福したんだろう。
海に成って仕舞いたいと願うほど、死ぬほど苦しくて辛かったろうに。
死と愛情を天秤に掛ける選択肢すら与えられず、それでも想った相手の幸福を永遠に見届けなければいけない。いつまでも続く地獄のような生に涙を流して耐える彼は、自壊を選べた人魚の姫とやらよりずっとずっと哀しくて気高くて痛ましくて、美しいのではないだろうか。
この神は、周囲が考えているより取っ付き難くも、恐ろしくもなく、ただ少し、独りで秘めてしまうのが上手なだけかも知れない。己が見た深淵は、やはりまだ表層でしかないのかも知れない。肩の上でさめざめと涙を零す彼を見て、そんなことを思った。
(万が一、いつか、もう耐えられないとお前さんが言うならば)
(罵倒も誹りも全部吾が受けるから)
その時は、また殺してやるからな。海の神様。
Side P
「正直に言えば兄弟愛も恋情もちゃんとはわからねえんだけどな」
勝手に頭を撫でるんじゃない。不敬者。
そこに触れて良いのは兄上だけだ。
兄上だけだった筈なのに。
「誰も見ても聞いてもねえからさ」
文句の一つも言いたいのに、巧く動かない口から出るのは意味を成さない湿っぽい音ばかり。まるで溺れているかのように。
「恥ずかしくも後ろめたく思うこともないから」
お前を愛している、と囁かれ同じように頭を撫でられたことを思い出す。そしてあの「愛している」と己のそれは違うことを知った。あの手はもう彼女のものだ。きっと余を撫でることはもう無いのだろう。
「ひとりでよく頑張ったな、神様」
どうしてお前は兄上ではないのだ。小次郎。