刺々しい冥府には咲かんだろうし今日くらいは花でも見ていけ。その言葉とともに贈られた色とりどりの薔薇。花を活けるのは不慣れだがせっかく弟から贈られたのだから、と埃を被った花瓶を引っ張り出し、悪戦苦闘ののち全て片付け終えたのがつい先ほど。
ハデスはソファに腰掛け、中指の先端に付いた小さな刺し傷を見詰めていた。
(そう言えば棘があったな)
花どころか久しく植物さえ視界に入らない生活だったのが祟った。この余がたかだか花を扱うだけで負傷するとは。大怪我でも無し、放っておいてもいずれ治るであろう。とは言ってもよく使う指であるが故に、何かに触れる度刺したときの感触を思い出して僅かながら不快である。さてどうしたものか、と掌と手の甲を交互に返しながら指を見ていると、今度は爪が気になってきた。少し長いしそろそろ切っても良い気がする。整えるか。
ちょうどポセイドンが用事を終え戻ったので声を掛ける。
「お帰り。悪いが爪切りを借りたい」
「ただいま…構わんが…ああ、自分で活けたのか。誰か呼ぼうかと思っていたが…」
「丁寧な生活とやらから縁遠い身でな。このザマだ、随分散らかしてしまった」
ポセイドンがゴミ箱の中の茎や葉の残骸を、続いて中指をいじる兄の姿を見た。
「よほど手を焼いたんだな…すまない」
「謝らなくて良い。折角の贈り物なんだから…それに、」
「生命に嫌われるのは慣れているからな」
冥界の王に座する以上、良くあることだと、受け入れねばならないことだと。そう思って生きてきた。この爪が伸びるのも、草木が葉や枝を広げるのも、一緒だ。生きているから。手折ったり、鋏を入れようとしたりすれば、刺されもするだろう。ならば、せめて大切なものくらいは一つの傷も付けないまま愛しみたい。
己にとっては当然の事実を口にしたまでだが、彼にとってはそうではなかったらしい。彼は生命の源、海を統べる者。対し己は生命にある種の終焉を与える身。生き物への在り方がまるで違うのだから。子どもの頃から永く一緒に居ても、進む道が分かれると、こんな些細な違いすら生まれてしまう。
少し、寂しい。
「そんな顔をするな」
それはどちらの口から出た言葉だったか。ポセイドンは徐にハデスの手を掴み、音を立てて中指を吸った。血が止まった傷口から、ポセイドンの唾液が入り込んでくる。
「う、…っ」
痛みと、それと違う刺激に息が乱される。水音とごく小さな呻き声が部屋を満たす。
「は…っ、どうだ、痛むか」
漸く指を解放したポセイドンが控えめに、しかし芯を持った声で問う。
「忘れされてやる、そんな傷」
見透かされているな。他の者の機微に聡い子に育った。そう悟ると、愛しさが溢れて堪らない。首に腕を回し、耳元で囁く。
「楽しみにしている…余の可愛い弟…」
返事は無い。その替わりに首筋に擦り寄られ、くすぐったくて思わず声を漏らした。
「そうだ…ずっと笑っていろ、ハデス」
冥府の王に笑っていろ、とは。
愛弟のエゴに縛られるのも悪くはない。