おわりと始まり所用で出掛ける兄の脚にとてとてと転がるようにしがみ付く。
「いってらっしゃい…はやくかえってきて…」
健気にも門まで見送りに来る幼い彼の頭を撫で、必ず帰るから良い子で待っているんだぞ、と伝えると、花が咲くようにふわりと笑って手を振ってくれた。
そんな事があった。確かにあったのだ。この頃のお前の笑顔は、余だけが知っている。例えお前自身が成長し、記憶に残す価値も無いと忘れても、余だけは覚えているから、この先も、ずっと。
はてどうして天井を見ているんだったか。静謐な白亜の城は隅々まで手入れが行き届いているのがよくわかる。例え平素はこのように凝視されることが無くともだ。
ハデスが自身の身を振り返ると、冷たい床に背と手を任せ、持参した荷物は周囲に散り散りばらばらになっていた。最後に尻餅をついたのはどのくらい昔だったか。きっともう思い出せないくらい、ずっとずっと過去のことだ。
目の前でひとり赤くなったり青くなったりしている彼が、まだ生まれてもいなかった頃かも知れない。
「あ…」
ゆっくりと上半身を起こすと、ポセイドンと目があった。なるほど、咄嗟に後頭部を庇ってくれたお陰で、余は廊下の床に完全に沈むことは無かった訳だ。
「すまない…急に、その、」
ポセイドンが言葉を紡ぐほど、その貌はみるみる朱く色づいていく。
「加減が、わからず…怪我は無いか?」
思い出した。
久しぶりに顔を出すにあたり、驚かせようと予定より前倒しで天界に到着して、弟の居城に赴いた。勝手知ったる身内の城だ、ハデスは客間まで案内しようとする侍女に持ち場に戻るよう促し、一柱で廊下を歩いていたところ、たまたまポセイドンに出会した。兄が口を開く前に勢いよく抱きつかれて、そして現在に至る。
「ハデス…?頭を打ったのか?」
予想外の事態に驚きのあまり何も発しないハデスに焦ったのか、しきりに声を掛け意識レベルを確認してくる。
そうか、きっとわざとでないとはいえ、余は弟に倒されたのか。そう思い至ると、笑いが込み上げて来た。
言葉らしい言葉を話さず愉快そうに突然笑い出した兄に、いよいよポセイドンは狼狽した。
「…っ医者を」
「待て待て、この通り元気ッだ、ははっ…!」
「本当か…?」
じとっとした目で見詰められる。心外だ、全く信用されていないな。
「本当だとも…それよりどうした。熱烈な歓迎ではないか。そんなにこの兄が恋しかったか?」
笑って乱れた息を整えつつ、揶揄う目的で問うてやる。
「連絡を寄越さないからだろう…事前に知っていればもっとちゃんと…」
促しても問いに対する正確な答えは出なかったが、それ以上にその表情は雄弁だ。恋しくなかった訳ではない。他の弟たちに比べて少し口数の少ない彼にしてみれば、その回答で充分に満たされた。
「そうだったな、伝えなかった余が悪かった」
「謝らせたかったのではない…」
その健在を確かめるように、ポセイドンは兄を抱き締めた。二柱とも相変わらず冷たく硬い床に座り込んだままで、体は僅かずつ冷えてきている。だか久方ぶりに感じる兄弟の体温さえあれば、そんな事は微塵も気にならなかった。
「さて…立てるか?」
暫く兄を堪能した後、ポセイドンはゆっくり立ち上がり、結果的に突き飛ばす形になってしまったハデスへ手を差し伸べた。素直にその手を取ったハデスもまたその場で立ち上がり、周りを見渡す。短期滞在なので荷物は比較的少なく、拾い集めるのも簡単だった。ポセイドンは散った書類を束ねるのを手伝い、程なくして廊下は綺麗に片付いた。特段、清掃係を呼ぶ必要も無さそうだ。
落ち着いたところで、改めて弟へ向き合う。
(大きくなったな)
背丈は自分と殆ど変わらない。
(あの頃は余の腰くらいまでの身の丈だったのに)
兄の帰りを玄関で切望していた幼い弟たちも、やがては成長してそれぞれの道を征き、見送りのタイミングすらお互いに合わなくなった。それはとても喜ばしいことではある。だが、同時に一抹の寂しさもあるのだ。例え弟たちの努力が身を結んだ末のことであったとしても、見守ってきた側としての気持ちが捨て切れない。
(勝手なものだな)
弟たちは立派で在ろうと必死だったのに。大きくならないで欲しい、ずっとか弱く小さいままであって欲しいなどと。才能が目覚め、天界で頭角を現すほど、矛盾した気持ちは日に日に募っていった。
「どうした…?ぅわ…っ、何を…!」
脇に手を差し入れ、そのまま上方向へ。急に視界の高さが変わったことに慌てたポセイドンが、ハデスの肩を掴んだ。
「昔お前とこうして遊んでいた頃を思い出してな。懐かしくてつい。覚えていないか」
「…遊んでもらったようで悪いが…」
子どもの頃からあまり気持ちが顔に出ない弟ではあったが、この遊びは気に入っていたようで、よくせがまれたものだ。だが今はと言うと、照れ隠しなのか本当に記憶に無いのか判断が付きにくい表情。これもいつものことだ。
「……そろそろ降ろして欲しい…」
ちらちら周囲を気にしている。イメージがあるから当然の反応だ。
「そうか。説明ついでに肩車にでも移行しようかと思っていたのだが」
悪戯っぽく笑う兄にやめてくれ…と溢す弟。彼の足の先から地面までの距離は、こうして遊んでいた子どもの頃に比べて遥かに狭くなった。
ゆっくり床に下ろして、かつてはいつもやっていたように頭を撫でた。
そう言えば、まだ言っていなかったな。
「ただいま、ポセイドン」
「お帰り…ハデス兄様」
あの日も、花笑みに触れたような幸福を、確かに感じたのだ。
今から対峙する者を蹴散らしたとて、お前はもうひと欠片だって帰って来ないのに。
歓声が聞こえる。
入口から漏れ出た光を反射し、三叉槍が輝く。
願わくばこの三叉槍と共に、この扉を再び潜ることが出来ますよう。
「…往くか」
この命より守りたい誇りがここにあった。
あの日のようにお前は笑って許してくれるだろうか。
こんな風にしか生きられないこの兄を。
(いってらっしゃい、はやくかえってきて)
あの頃のお前の笑顔は、もう余だけしか覚えていない。なら、記憶の中のお前を守るのは余の務めであろう?
この世界に残った、唯一の兄なのだから。