はじめてのにがみ誰にでも背伸びしたい年頃はあるものだ。この神ですら例外でなく。
ハデスは所謂コーヒー党である。だが、普段と違う味を楽しみたいときに、気分さえのれば別の飲み物を用意することもある。その日選んだのは紅茶だ。戸棚からポットを取り出し、湯を沸かし始めたところで、本を抱えた幼い弟が近寄ってきた。
「…茶を淹れているのか」
「ああ。今から飲もうと思ってな…どうした?そろそろ寝る時間だろう?」
膝を折り目線を合わせてやるが、両手で抱えた本で顔の半分が隠れたポセイドンが、ちらちらとテーブルの上に視線をやっていてなかなか目が合わない。
「…余も飲む」
「お前もか?しかしだな…」
普段ポセイドンが就寝前に口にしているのは白湯やホットミルクだ。よく眠れるように、と昔からそれらばかり飲ませてきており、当のポセイドンが今まで不満を訴えたことも無いため、何の疑問も無く続けている習慣であった。
「紅茶を飲むとすっきり眠れなくなるかも知れないのだぞ。明日眠たくて辛くなったらどうするんだ。だから、」
なるべく落ち着いた声で、優しく説く。
「それでも飲みたい。今からなら2客分くらい淹れられるのだろう?」
しかし兄の心、弟知らず。もしくはわざと無視しているのかも知れないが。たまに、ごくたまに、ポセイドンは兄の言うことを聞かない。何らか意地を張っているのか、今夜は紅茶以外で口を潤す気はなさそうだ。
「…眠れなくなっても知らないぞ」
「完璧な神たるもの紅茶くらい飲める」
「わかったわかった…お前の分も淹れるから座って待っていなさい」
ふたり分のストレートティーと、念の為砂糖やミルクも携え、ソファへ戻る。兄が近付いて来る気配に、ポセイドンは読んでいた本を閉じ、カップを慎重に受け取った。自分のマグカップをじっと見つめたのち、その視線はハデスの持つティーカップへ。
「…?どうした?」
「…次は余もそっちで飲む」
そっち。そっちとはティーカップのことか。初めて飲むものだから食器は普段通りの方が落ち着くかと思ったが、お気に召さなかったらしい。よく見ると少し頬を膨らませている。
「次は気をつけよう。それより飲まんのか?冷めてしまうぞ」
はっとした顔をして、カップを持ち上げ恐る恐るといった具合に、ちろと舐めたようだ。その顔は無表情であった。否、僅か一瞬顰めかけたが、兄の視線を感じて慌ててポーカーフェイスを装った、と言った方がより正確だ。
つまり、幼い弟の口に合わない。
「…熱かったか?」
不味いのか、とは聞かない。聞けばきっと気を遣わせるだろうし、何より自分で飲みたがった物が飲めないと認めさせることは、彼のプライドを傷付けるだろうから。
「…問題無い。飲める」
短い返答の後に、ポセイドンはカップの紅茶を一気に呷ると、再び本を持ってぴょんとソファから降りた。
「ごちそうさま。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。良い夢を」
脇目も振らず部屋を出て行くポセイドンを見送り、ハデスは自分の分の茶に口を付けた。使われなかった砂糖やミルクを眺めながら。
「焦って大きくなろうとせずとも良いのに」
どのくらいの時間が経っただろうか。
さっき閉められた扉が細く開けられ、ひょこっとポセイドンが顔を出した。
「寝付けないか?」
少しの間ののち、その問いにこくりと小さく頷いたのを見て、ハデスは内心愉快に思いながら、先ほど弟がやって見せたように自分のカップに残った茶を一気に呷って立ち上がる。
「あ、…邪魔するつもりは」
「気にするな。寝辛くなるのをわかっていて与えたのは余だからな。今晩は責任を取って一緒に寝ようではないか」
「……はい」
頬にほんのり赤みが差しているのは、見なかったことにしておいてあげよう。ポセイドンの寝室へ、二柱並んで歩く。
さて、どうやって寝かしつけようか。ハデスはひっそりと思案する。もし寝付けなかったらたまには一晩中一緒に居てやっても良いかも知れん。
(兄弟離れ出来ていないのは余の方だな)
持参した茶がカップの中で形作る紅い湖面をぼんやり見ながら、ハデスは目の前に座る弟の幼い頃を思い出していた。
以前彼に薔薇を貰ったため、お返しにと茶葉を持って居城を訪ねた。今は客間のソファで、ポセイドンが早速淹れてくれた紅茶に舌鼓を打っている。
「うん…やはり自分で用意するより美味い」
「おべっかを…お前が淹れた方が美味いだろうに」
彼なりの賞賛の言葉に、マグカップを両手で握りしめつつ顰めていた顔が浮かびハデスは小さく笑った。カップの中の紅い湖面が波打つ。
「……………?」
「何でも無い…ああそうだ、この茶葉、ミルクティーにもおすすめなんだと」
怪訝な顔をされたので話題を逸らす。
「蜂蜜にしっかり漬け込んだ果物とマリーゴールドの花弁の香りが織りなす調和…だったか」
ポセイドンはパッケージに記された謳い文句を読み上げる。確かに、しっかり蒸らした茶葉からは甘くフルーティな香りが立ち昇っていた。続いて、ポセイドンの視線が中央に控えめに印刷された茶葉の名前をなぞり、そこに込められた意味を察して押し黙る。
「素直にミルクも砂糖も使えるくらい大人になったお前に良いかと思って」
「……話が見えんのだが」
「小さいお前に紅茶を初めて与えたときだよ。余の後ろをよくついて回っていたのが終わって、周りの成神と同じ物を欲しがっていた時期があってな」
「ああ、あの頃か…僅かだが覚えている」
カップを傾けるポセイドンに、さも何も気にしていない風に問う。
「あの時、本当は自分ひとりで寝られたんだろう?」
紅茶のせいで寝付けないなど、虚偽の申告であると。
さあ、この愛弟はどう返してくるか。
「茶のせいで眠れないなどと言った覚えは無い」
僅かだが覚えている、などと。随分と念入りに否定してくるではないか。ふいと目を逸らして頬を小さく膨らます弟に、ハデスの肩は震えた。
「おい、溢れるぞ…」
「そんな勿体無いことはせん…っ、お前が折角用意してくれた物を」
「買ってきたのはお前だろ…それよりも、」
改めて、茶葉のパッケージを兄弟揃って見遣る。
「…作ったのか、わざわざ」
「まさか。下界で買った物だ…美味いだろ?」
「………そうだな」
目を逸らしたままもにょもにょと歯切れ悪く答える弟に、ハデスは今度こそ我慢せず笑い声をあげた。
銀に輝く茶葉の缶には遠い異国の言葉でこう言葉が添えられている。
『ポセイドン———真心をいつまでも側において』