昔話をしようかかつては兄弟全員で使っていた寝台も、次男と三男が自分の部屋を持ったため、今は末弟と長兄だけが横になっている。あんなに窮屈に感じていたのに広くなったものだ。ハデスは弟たちの成長ぶりに、一柱感慨に耽っていた。
もう遅いしそろそろ自分も床につくか。隣ですやすや眠る末弟を起こさないよう注意を払いながら、横になったその時、ごく小さな音がドアの方から聞こえた。こんな時間にノックとは珍しい。アダマスだろうか、それとも…起き上がる前に控えめにドアが開かれ、ノックの主がひょっこり顔を見せた。
「どうした、こんな夜更けに。眠れないのか?」
三男ポセイドンが自室で一柱で寝始めてから今日で一週間。アダマスはもっと遅い年齢での独立であったが、このポセイドンは兄たちの想定より早めに寝所を出たがった。神は群れぬ、もう添い寝は不要だと主張して。
注意深くドアを閉め、兄の元へ近寄ってくる。先週まで自分が寝ていたあたりにちょこんと腰掛けると、
「今夜はうまく入眠出来なくて」
ぽつりと呟いた。
「……寝る前の…キス、してください」
意外な要求だった。自我がはっきりする頃から、あまり周囲に甘えない子だと判断していた。いくら眠れないからと言って添い寝していた頃の習慣をまた欲するなんて。
けれどそんな風にお願いされて嬉しくない訳が無い。月明かりが照らす卵のような柔肌に手を添え、以前のように額にキスをした。
「そこじゃなくて…」
ここに。こてんと小首を傾げ、小さな指は額や頬ではなく、唇を指していた。一体そんな知識はどこで得たのか。明朝問いただそう、今は寝かせることが先決。
「そこにするのはもう少し大きくなってからにしよう…もう眠れるな?」
ポセイドンは不満そうに唇を尖らせる可愛らしさを覗かせたが、無理矢理に自分を納得させたのか、わかりました、と渋々呟き、寝室を出て行く。弟の寝室の前までついて行ってやりたい気持ちをぐっと堪え、暗がりの中寂しげにドアを閉める様を見守った。
ハデスにいさまのばか
ドアを閉め切る直前に、小さいが確かにそこに生まれた声は、誰にも返されることなく闇に溶けていった。
「…なんてこともあったな?」
夜深く。もう子どもならとうに健やかに眠る時間だ。兄と弟は、今夜も同じ寝台に沈んで眠気に呼ばれるのを待っていた。
「いつの話をしている…余はもう寝るぞ」
取り付く島なく背を向けるポセイドンに対し、ハデスはどこか楽しそうに笑った。
「おや、もう強請ってはくれんのか。幼い時分はあんなにしたがっていたのにな?」
「さっきまで散々吸っただろう、どの口が…っ」
背後から焦ったいくらいに柔らかく抱き寄せられて、言葉は喉に引っ込んだ。ついさっきまで寝台が悲鳴を上げるほどだったのに。
「顔を見せてくれ。寝る前には挨拶を。…教えた筈だな?」
こういうときのハデスはなかなかに譲らない。仕方ない、この兄にそんな風に躾けられたのだから。兄の腕の中で体を反転させ、髪をかき上げてやる。顕になった傷一つない白い額に、静かに唇を落とした。
「これで満足か、お兄様」
「ああ、よくできました。弟よ」
おやすみなさい、良い夢を。