恋は盲目 注ぐは劇薬/恋とはどんなものかしら神代類にとって、"恋"とは壁を隔てた先にある感情だった。
ショーへの熱意を『恋にも似た感情』だと表すことも出来たかもしれないが、そのような想いを誰かに向けられるかと言えば、類はNOと言わざるを得なかった。
理由は単純明快。恋自体に興味がないのである。そもそも中学時代に進んで孤独を選んだことからも、誰かに特別な感情を向けることなど類は考えられなかったのだ。
かつてワンダーランズ×ショウタイムで恋愛を題材にしたショーを行った時、ユニット内で恋に関する話をしたことがあった。
えむは「恋ってほわほわして楽しそうだよね!」と嬉々として言い、寧々は「そういうのはまだわからないけど……悪くはなさそうだよね」とおずおず告げていた。そして司はといえば、「それはそうだろう!恋とは人間が抱く最も素晴らしい感情だからな!」などと胸を張って言っていたのである。
司が恋を肯定的に捉えていたことに、当時の類は少し意外性を感じていた。とはいえ、彼から『妹と時々そういった話をしていた』と聞けば、その肯定が彼の楽しい思い出に紐づいたものだと気づけたのだが。
さて、そのような話の中で当然ながら類にも話は振られる。予測していた類は少し考える素振りを見せた後に「……まぁ、恋をすれば確かに楽しいのかもしれないね。そういった記述をする作品は沢山あるから」と曖昧な回答をしたのだ。
「む、類は恋に興味はないのか?」
「そうだね。今の僕はショーに全力で取り組みたいから、恋にうつつを抜かす暇はないかな」
実にストイックな回答を前に、司は「おお…」と声を漏らす。
「あとは、誰かに恋心を抱く感覚がよくわからない…ということもあるかな。そういった経験をしたこともないしね」
「そうなの?類くんは幼稚園の先生とか好きになったことなーい?」
「フフ、初恋の鉄板だね。そういったことも特になかったかな」
「まぁ、オレも正直そういった経験はないが……恋をした暁には、きっと心が舞い上がるほどの多幸感を得られる筈だぞ!咲希の読んでいた少女漫画を始め、古今東西の物語がそう告げているからな!」
「ソース元がフィクションって……せめて実体験を元にしてよ」
そんなこんなで気づけば"恋"によって盛大に脱線していた打ち合わせは、『ミクも混ぜて混ぜて~!』とスマホから飛び出してきた少女によって、更なる混迷の道へと突き進んでいったのである。
そういったこともあり、当時の類は"恋"にこれといった感情を持ってはいなかった。
それどころか、これから先も自分にとっては無縁の感情であり、誰かと添い遂げるようなことは起こらないと、何処か確信めいた想いを抱いていたほどだ。
それが、今から一か月前のこと
「……はぁ」
教室の自席で頬杖をつき、類は熱い溜息を一つ吐く。
授業中にそれを気にする者は誰もおらず、類の微かな異変に気付けるものなど居る筈もなかった。
その視線は数学を語る教師に欠片も向けられず、近くの窓の外へと向けられる。
眼下では隣のクラスが体育の授業を行っており、校庭全てを使ってサッカーを行っていた。その中でもボールを奪い、見事にシュートを決めてみせた"金色"を見つけてしまえば、類は自分の心臓がぎゅうと締め付けられるのを感じていた。
「ナイス天馬!!」
彼――司のクラスメイトが歓声を上げ、一気に彼を取り囲む。皆の中心で太陽のような笑みを浮かべる司は、一か月前と変わらない笑顔である筈だ。
それなのに、類は変わらぬ司を前に、何故か胸が締め付けられるような苦しさを覚えていた。その発作は今日だけでなく、ここ数日絶えず類に襲い掛かっている。そしてその理由を、類は既に掴んでいた。
――恋
あろうことか、神代類は恋をしてしまっていた。
それも、同じ学友で仲間である天馬司に……である。
この感情に気づいたのは一週間前――まさに青天の霹靂と言っても良いほど、類はある日突然司への恋心を自覚してしまった。
彼に恋した理由は多岐に渡るため割愛するが、類は全く予期していなかった"恋"の感情を得てしまった訳である。
そうして、恋は恐ろしい病となって類を蝕み始めた。
何故か司の一挙一動が以前より数倍も輝いて見え、彼を見るだけで心臓が軋みを上げるようになった。司がショーで高難易度の演出を完璧に決めた日など、類は思わず心臓に手を当て呻いてしまったほどだ。その後えむたちにとても心配されてしまったのは、今でも申し訳ないと思っている。
兎にも角にも、類はこの一週間恋による病に振り回され続けていた。
あれだけ恋愛に興味はないと豪語しながら僅か一か月足らずでこの体たらく……そして相手が同じ男で仲間ともなれば、類の初恋はある意味運が悪い部類だったと言えただろう。
その恋が叶う可能性は低く、それでいて呪いのように類を蝕み続ける。
そのような恐ろしい感情を得たことで、ここ数日の類はすっかり弱ってしまった―――
などと言うことは欠片もなかった。
(フフ、司くんは今日も格好良いねえ……)
授業を右から左に聞き流しながら、真鍮の瞳は想い人へ熱い視線を向けている。その心中は春のようにぽわぽわふわふわとしており、もしこの場に寧々がいれば『類が気持ち悪い顔してる……』とドン引くこと間違いなしだっただろう。
――そう。神代類は初めての恋を歓迎していた。
それどころか、恋がもたらす数々の感情を心から楽しみ、その幸福感に浮かれてすらいたのだ。
叶わない恋?心苦しめる病?
いずれも類にとっては些細なことであった。
それもその筈。この先に訪れる未来が失恋だったとしても、それを凌駕するほどに"恋"という感情は麻薬の如き幸福感を類にもたらしていたのだ。
世のオペラなら、今頃ヒロインが自身の悲恋を嘆く歌を歌っている頃だろうが、類は逆に我が身に訪れた春を高らかに演出したいほどであった。
これが所謂"片思い"というものであり、司が自分に恋をすることなどないと類は知っていた。だがそれと同時に、この想いさえ明かさなければ、司は自分から離れることもないという確信を得てもいた。
この先道が違えることがあれど、ワンダーランズ×ショウタイムとして短くない時を過ごした仲間となれば、大人になっても交流は続けられるだろう。それを思えば、自分の恋が叶わないことなど些細なことだったのだ。
類が抱いた恋は、幸せな感情を彼にもたらした。
司をどうにかしたい欲などは一切存在せず、ただただ輝ける星に恋焦がれる……欲塗れの錬金術師とは真逆の清らかな感情を前に、類は絶えない幸福を感じていた。
(……幸せだなぁ)
今の類は、さながら夢見る少女のようだった。
心を締め付けるような苦しみも、言葉に明かせない深い想いも、その全てが春風となってこの心を舞い上げる。
いつかこの恋が叶わず死んでいくその日まで、類はこの綺麗な感情を噛み締め、独りで溺れていくつもりだった。
「すまない、類」
――その筈だったのに。
今、目の前で起きていることを、類の頭は理解することができなかった。
正確にはキャパシティオーバーをしており、類はただただ唖然とした表情でその光景を見つめることしかできなかったのだ。
ぽたり、と零れ落ちた水は目の前の彼――司が零したものであり、その頬には絶えず水が流れ続けている。
あの司が泣いていることも、その表情が深い絶望に濡れていることも、今の類には理解できないことだった。
いくら天才と言われようとも、それまで普通に接していた仲間がいきなり泣き出す様を見れば思考が停止するのも当然だ。ましてや昼の屋上で、類からすればちょっとした気遣いを向けただけだったのに。
……それなのに、目の前の星は絶望に濡れた顔で俯き続けていた。
「司くん…?」
泣いている顔すら愛おしい…などと思うぽわぽわした心は吹き飛んでいた。
困惑したまま彼に問いかければ、司は地面を見つめたままボロボロと涙を零し続ける。
「すまない、類。オレがこんな感情を抱かなければ、お前にとって掛け替えのない仲間であれた筈なのに……」
話が見えない。戸惑いを深める類を他所に、司は勝手に言葉を紡いでいく。
「本当はわかっていた。お前がオレと同じ想いを抱いてくれる筈がないと。だからオレだけが耐えれば、全てが丸く収まる筈だった」
「だが、オレは自分を押さえることができなかった!ただ想うだけでは飽き足らず、オレはお前に……あのような欲望すら向けて……」
わなわなと震える両手がその顔を覆い尽くす。さながら罪人の懺悔のように、司は自らの口より『類への欲望』をひたすら吐き出していく。
それを聞いている内に、類も次第に事の全貌を把握していくことができた。
そうだ。司が抱いているだろう感情を己は知っている。
だが、それは本当に同じ感情なのか?己が今まで感じていたのは、空に舞い上がるかの如き幸福感だった筈だ。
なのに目の前の彼は、まるで絶望に身を焼き尽くしたように堕ちてしまっている。
そんなことは有り得ない。有り得てはならないのだ。
何故なら――
「……知らなかったんだ。"恋"がこんなにも醜く汚いものだったなど」
――恐れと悲しみ混じりにそう吐き出した君こそが、かつて僕に『恋は最も素晴らしい感情だ』と、そう教えてくれたのだから。
この時、ようやく類は"それ"に気づいた。
己の救えないほどの鈍感さと、彼の愛おしすぎるほどの弱さに。
――そして、全てが手遅れになるその前に、恋の病に蝕まれた哀れな星を、彼は強く抱き締めたのだ。
【恋は盲目 注ぐは劇薬】
***
天馬司にとって、"恋"とは空想上にある美しい感情だった。
今でこそショーが最優先であり、そういった浮かれた想いを抱くなど考えられなかったが、いずれ自分がそういった感情を得ることに抵抗感はなく、それどころか密かな憧れすらあるほどだった。
普段の司を知る者が聞けば意外そうに思うだろうが、幼少期から多くの物語――それも妹を笑顔にするための明るいお話――に触れてきたことにより、本人も知らない内に"キラキラとした恋"への憧れが積み重なっていたのである。
「ねえお兄ちゃん。恋ってどんなものなのかな?」
「ん? "フィガロの結婚"か?」
「ふぃが……違うよ~!」
普通に聞いただけだもん!とむくれる妹を宥め、司は苦笑を浮かべる。
咲希が退院してすぐの頃、"クラスメイトから貸してもらった"という少女漫画を手に、咲希は少女らしい質問を兄に投げかけたのだ。
「お兄ちゃんってショーのために色んな物語とか見てきたでしょ?だから"恋"がどういう感じなのかも知ってるのかなーって思って!」
「ぬー……言っておくが、オレは今まで恋などしたことはないぞ? 今も昔もスターになるために邁進してきたからな! それに物語を読んだとしても、実際に経験してみないと細かいことはわからないだろう」
「むむむ、それは確かにそうだけど……」
兄の最もな言葉に、咲希も難しい顔で納得してみせる。とはいえ、それだけでは無責任だろうと司は言葉を続けた。
「だが、大体はその漫画に描かれていることと同じ筈だ。想い人を見ると胸が締め付けられるが、その分これ以上ない幸福感に包まれるだろう。それこそ天に上ってしまいそうなほどにな!」
「やっぱりそうだよね!良いな~、アタシも恋に憧れちゃうかも!」
「……咲希に恋人が出来たら、お兄ちゃんは盛大に祝ってやるからな」
何やら神妙な顔でそう告げる司に、咲希が「大袈裟だよ~!」と笑ったことで、その時の話は終わりを告げた。
兎にも角にも、天馬司は"恋"に悪い感情を抱いてはいなかった。
少なくともショーに取り組んでいる今では有り得ないだろうが、いずれ大人になった時、自分の心が浮き上がるような恋をもたらす人に出会えるかもしれない。そんな美しい"初恋"の夢物語を、少年は純粋無垢に信じ切っていたのである。
それが、今から数か月も前のこと
「っは…!」
誰もいない空き教室で、司は独り座り込んでいた。まるで全力疾走したかのように息は途切れ、痛いほどに握り締めた胸は激しい鼓動を響かせている。
確かに此処に来るまで走ってきたが、この激しい胸の痛みは決してそれが原因ではない。
――つい数分前、司は"恋"という感情を唐突に理解した。してしまった。
それだけならまだ良かった。少し思っていた感覚とは違うが、それでも望んでいた"恋"を知れたのだから。
だが……その相手が、今までずっと大切な仲間だと思っていた神代類であったと気づいた瞬間、司が抱いていた幻想は完全に崩壊した。
正直なところ、司は自分がもし恋を抱くことがあるなら、その時は心の赴くままに成就を目指すつもりだった。
加えて世のオペラやドラマで描かれるように、泥沼の如き深い感情など自分には関係ないとすら思っていたのだ。
それがどうだ?
今、己の中で荒れ狂っているのは、紛れもなく神代類への恋心だ。
それは空想で語られる美しき想いなどではない。今すぐにでも全てを手に入れ独占したいと叫ぶ、醜き獣の姿をしていた。
心臓はまるで絞殺されかねないほどに締め上げられ、その苦しさは耐え難い苦痛をもたらした。
――痛い、苦しい、耐えられない。
「"恋"とは、もっとうつくしいものではなかったのか」
呆然と吐露する天馬司にとって不幸だったのは、恋をした相手が神代類であったことだ。
これから先も良き仲間で良き友として、綺麗な関係を続けていく筈だった彼を、己はあろうことか好きになってしまった。
その恋が叶う可能性は低く、加えて類が『恋を望んでいない』ことを知っているともなれば、己に巣食う恋は更なる激痛をもたらした。
――その初恋は、まさに劇薬だった
神代類を想う心は常に現実と板挟みになり、司の心身を容赦なく削り上げた。
持ち前の演技力で全てを欺き、そのまま恋心捨てようとしても、初めての想いは強烈な力で持って司を蝕み続ける。
それでも司はまだ信じ続けていた。
己が失恋することによって、それがいつか美しい思い出の一つとなる日が来ることを。
そのために類が己に恋を抱く訳がないと思い、何度も恋心を捨てようと努力した。
か細い蜘蛛の糸を手放さないよう、司は恐ろしい恋という怪物から逃げ続けていたのだ。
だが、司は知らなかった。
恋という名の怪物が、抑えれば抑えるほど牙を剥く恐ろしい生き物であるということを。
『……司くん』
甘やかに己の名を呼び、現実では決して向けない愛しさに満ち溢れた表情を浮かべる類。
そのまま唇を交わせ、身体に触れ、そして、そして……
「……あ」
朝の陽ざしの中、直前まで見ていた淫靡な夢の内容を自覚した瞬間、司の中でぷつりと何かが切れた。
――その日の司は、さながら亡霊のようだった。
クラスメイトや知人の前では明るく振舞っても、ふとした瞬間にその表情が虚無になる。それに気づける人間など殆ど存在しなかった。そして逆に言えば、それに気づける人間は僅かに存在した。
「司くん。もしかして体調でも悪いのかい?」
昼休み。類と司はいつも通り屋上で昼食を取っていた。
今朝の出来事を前にしても尚、司は自身の心より日常を保つことを優先していた。だからこそ、仲間の変化に聡い類とよりにもよって二人きりになる失態を犯してしまったのだ。
案の定、類は司の異変を感じ取ってこちらを伺ってきた。それを前に、司は"普通"を取り繕った顔を向ける。
「いや、オレは至って健康だぞ」
「そうかな?いつもの君ならもっと元気よく答えるものだと思ったのだけど」
冷静に、それでいて真剣な顔でそう言われてしまえば、司は顔を俯かせることしかできなかった。
従来なら元気で明るい天馬司であれた筈なのに、恋という劇薬によってその心身はすっかり弱り果ててしまっていた。
それに追い打ちをかけるように、司は今朝恐ろしい夢を見てしまった。
こうして今も自分を気にかけてくれる類を踏み躙るような、汚らわしき泥の夢……言い換えれば『司の恋心が見せた欲望の夢』は、司の心に致命打を与えるには十分すぎたのだ。
「司くん。君が僕を気にかけてくれたように、僕だって君の助けになりたいんだよ」
「――だから気負わず、存分に"仲間の"僕に頼ってくれ」
その言葉は、傷ついた心を救い上げる良薬である筈だった。
だが、類が告げた"仲間"という単語が途方もない断絶のように思えた、その瞬間――司の中で、全てが音を立てて崩れ落ちたのだ。
「すまない、類」
溢れ出る涙と、隠せなくなった絶望がこの顔を覆い尽くす。
あれほどまでに憧れていた恋心が、己の全てを蝕み、壊していった。
――ねえお兄ちゃん。恋ってどんなものなのかな?
純粋無垢な妹の問いに、今ならばきっと答えられる。
恋とは途方もなく恐ろしい劇毒だ。
常に心を蝕み、思考を侵食し、心身を弱らせていく。
そうして、大切な仲間への想いを浅ましき欲で塗り潰し、全てを終わらせようとする終焉の獣――それが恋の正体だった。
こんな感情、知りたくなどなかった。
お前にとってのスターとして、いつまでも輝いていたかったのに。
「……知らなかったんだ。"恋"がこんなにも醜く汚いものだったなど」
【恋とはどんなものかしら】
――願うならば、毒が回り切るその前に、お前の手でオレを終わらせてほしい。
――全てを曝け出した醜いオレに、どうかトドメの一撃を
***
類にとっての初恋は、きっと司にとっても同じ初恋だった。
だからこそ、彼らは知らなかったのだ。
互いが抱いた恋の色は一色ではなく、それは時として薬にも毒にもなるということを。
互いに通じ合っていたのに危うく壊れかけた想いは、浮かれだっていた天才によって寸でのところで救われる。
そうして、ようやく正気に戻った類の口から、砂糖よりも甘ったるい愛の言葉が囁かれる。それが良薬となって病に蝕まれた司の心を癒す……どころか羞恥で悶えさせるまで、あと少し。