夏の名残の梔子を 三年目にもなると、なんとなく気づくことがある。
まだ暑さが残るこの季節、水上がふと遠くを見ることがある。暦の上でやってきた秋と引き換えに、遠くなっていく空と夏を追いかけるみたいに。口元だけにかすかな、そこか哀切をともなった笑みのようなものを浮かべて。
それは普段は決して――生駒とふたりきりの時であっても――見せることのない表情だった。
「なんでやろな」
「なんでだろうな」
「……弓場ちゃん、もうちょっと親身になってくれてもええんちゃう?」
生駒は甘えるように同輩を上目遣いで見る。机に突っ伏してるから当然だが、もっとも立ったところでも身長差はあるのでどのみちやや見上げることになるのだが。
「講義が終わったってェーのに、教室も出ねェでおめェーの話を聞いてるだけ優しいと思うが?」
「せやなー、すんまへん」
「謝るようなことでもねェがな。秋には人はちっとばっかおセンチになるたァ言うが、おめェーんとこのアレはそういうタイプには見えねェがな」
「おん。せやから余計に気になるねん」
「ランク戦がオフシーズンになったから……っていうタイプでもねェよな。気が抜けて、とか」
「せやったら年三回はそないなることになるねんけど……あ」
「どうした、何か思い当たる節があったか?」
わざとゆっくりとレジェメをファイルに留めていた手を止めて、弓場は生駒を見やる。
「せや。今年の春にもあないな顔しとったことあったかも。俺の卒業式の日の時や」
高校を卒業する日、隊長の卒業を祝う為に集まることになっていた三門一高の校庭で、生駒が見つけた水上はひとり先着していた。鼻から唇へと意外と綺麗な稜線を描く横顔が、携帯電話でも見ていたのか、手元に落としていた視線をふと空へと向けたその様子になんとなしに神妙な気持になったことを思い出した。
だがそれは、後から来た隠岐や細井や、そしてやはり一緒に高校生活を終える嵐山たちに呼びかけられ振り返った生駒の視線が、再び彼へと戻した時にはもうすでに拭われてしまっていて、いつもの、たとえ恋人にであろうが内心を簡単には伺わせない手ごわい笑顔だった。
『イコさんおめでとさんです』
『おおきに』
そして、そんな、当たり前のやりとり。
だから、すぐに忘れてしまったのだ。
「もしかしたら去年の春もそうやったんかな?」
「春先はランク戦もある上に、進学進級と慌ただしいからつい見逃しちまってるかもしれねェーかもな。……おめェの誕生日もあるしな」
「誕生日はな、あいつが野菜トッピングし放題のカレー作ってくれてん」
「そらァ良かったな。旨かったか」
「当然やん。ちょっち俺が普段食うとるんよりは辛口やったけど、あいつが作ってくれた思うたらそんなん百万点ばらサロメちゃんやで」
「なんだそれは」
「弓場ちゃんVTuberとか見いひんの?」
「おめェーは好きそうだな」
おん、と生駒は屈託なく頷くが、元々の話題を思い出し、再び表情をくもらせた。
「うーん、どないしょ弓場ちゃん」
ルーズリーフのはじを齧りながらそんなことをぼやく生駒に、ウサギか、と呆れながら生駒は鼻をつまむ。
「どないしょもなにもあいつから何も言ってこねェうちはほっとくしかねェーだろ」
「だって気になるやん。なんかな」
「ん?」
「なんかどっか行ってしまいそうな、こころここにあらずいいうか――まるで大阪に帰ってしまうんちゃうやろかなんて気ぃになってもうて」
それは、水上が高校三年という、人生のひとつの関が迫っていることもある。三門に残るか、新たな場所で人生の目標に向かった航路を選ぶか。それは半年の後に、大学進学というかたちで九州という遠地へと可愛い部下を送り出すことになる弓場にも理解できなくもない感情だった。
「あいつな、進路教えてくれへんねん。いやそもそも聞いてないねんけど」
「聞けばいいじゃねェーか」
「せやけど、ぶっちゃけ三門大にはもったいないくらいの成績やん。弓場ちゃんの前で言うのもなんやけど」
「俺はそこまで出来は良かねェーよ」
「謙遜やん。でも弓場ちゃんは生まれ育った三門を愛してとるからここでやってく言うんは分かる。けど水上はなあ。そないなところもコミでなんか思うところがあるなら言うてくれてもええねんけど」
「だったら」
「……」
「てめェの片腕だろう。何を遠慮することがある」
「どないに」
「先行きに悩みごとでもあんなら俺に言え、とか」
けれど、実は「外」の大学に行こう思うてますねん、とか言われたりしたら。
止める権利は生駒にはない。たとえ、隊長と部下以外の関係がそこに横たわっても、吾は吾、彼は彼だ。理性はそう理解している。
だが、それを大事な片腕をためらわず手放せる弓場に言うのはさすがの生駒とて忸怩たるもはあって。
だから。
「気のせいですよってあしらわれたら恥ずかしいやん。イコさん恋する男の子やから……って弓場ちゃんなんで無言で行ってまうん。せめてツッコンで!」
わざとふざけてそう言うと、戦いの場でなければむしろ端整なおもざしの弓場は眉間にしわを寄せると、無言で立ち上がり。
「弓場ちゃん?」
「聞いてられっか。それは犬も食わねェーやつじゃねェか。とっとと水上ンとこに行って、おめェーのことが気にかかって、恨みわびほさぬ袖だにあるものをとでも吟じてかき口説いてやりやがれってんだ。バカらしい」
「弓場ちゃん、なんか風流な例えするやん」
「一般教養、古文取ってンだよ」
弓場はぶっきらぼうに、だがどこか苦笑をしのばせてそう告げると今度こそ容赦なく生駒を置き去りにして教室を後にした。
結局は半分くらいは惚気ではあるのだ。あくまでも半分だが。
(朽ちる名があるわけちゃうねんけどな)
空調の効いた校舎を出ると九月とかいえまだ残る暑気が体を包み、たちまち汗がにじむ首筋に少しでも涼を与えようとシャツの襟を引っ張る生駒の耳に、夏の盛りは過ぎたが今更のように短い生を謳歌するようセミの鳴き声を捉える。中庭に植えられたケヤキにでもいるのだろう。アブラゼミの名前の由来になった揚げ物の音のようなジージーという音に、生駒は少しばかりの空腹を覚える。休講によって空いた次のコマまでの時間を早めの晩飯で潰すか、と食堂棟がある学生ホールへと向かう。
すると、エントランスに大学ではまずまず珍しい、学生服姿のグループが目に入る。
新設された三門大でも存在する、古式ゆかしき応援団かと思ったが、それは半年前まで自分も袖を通していた学ランだった。
そしてその中にはひょろりとしたなりの、目立つ赤毛がひとり。
「おーい」
「あ、イコさん」
と幅も厚みも高さも一際存在感がある学生が一番に生駒を認めて、会釈をする。北添だ。他にも穂刈や村上、そしてセーラー服姿の今や人見や国近の姿もあった。そして、水上も。
「じぶんら、どうしてこないなところにおるん?」
「『こないなところ』に通うかどうか検討するからに決まってるでしょ」と水上は呆れたように我が隊長へと応じた。
「え?」
「みんなでオープンキャンパスに来たんですよ。今から帰るところです」
水上を補うような村上の言葉に、ああ、と生駒は腑に落ちた。
「そうか。ボーダー組は八月はスケジュール取りづらいから、俺も去年はこの時期やったな。一年もすれば忘れてまうもんやな。けど、王子と、カゲと当真は?」
加賀美は三門ではない美大を進路に選んだというのは生駒も同じオペレーターの月見からも聞いていた。月見の高校の星輪系列の女子大ではなく三門大を選んだことから、相談されることがあったらしい。
「王子隊は任務で、カゲと当真はどうせここにしか押し込めてもらえないんだから、見学してもしなくても一緒だからいい、言うてました」
「自由やなあ」と狙撃手一位の男と、元A級部隊の隊長である少年たちの、実に彼ららしい言い分に生駒は笑いを誘われた。
そして、防衛隊員であり受験生でもある彼ら彼女らがそれぞれ帰宅の途についた後、残されたのは生駒隊の隊長と射手のふたり。
「じぶん、三門大に受験ける気やってん?」
「そりゃボーダー続けんなら、ここが一番でしょ。神田みたいに三門大にはない学部で学びたいとか立派な目的があるわけちゃうし」
「良かったぁ〜〜〜〜」
何をわかりきってることをとばかりの水上に、生駒は巨大な安堵の息を吐く。
「どうないしたんです。俺の進路そないに心配しとってくれてたんですか」
「まあ、いや、その、うん、ええとやな」
どう思うところを紡いだらいいのか、生駒は言葉を選びあぐねていると、水上は生駒の手を取って握った。
「みずかみ?」
「イコさん、ここ数日何か言いたそうやったでしょ。それと関係あります?」
「お見通しかい」
そりゃもう、と恋人で片腕で部下で下級生の男は目を細めた。
「関係あるような、ないような」
「イコさん、汗びっしょりですわ」
「まだ暑いもんしゃあないやん」
指摘されて、額にびっしりと汗が浮いていることに気づく。気温のせいだけではなく。
「あっちに較べると、三門は幾らかマシですけどまだまだ秋って感じちゃいますよね」
水上の言葉にうなずきながら、生駒は腕をあげて半袖のシャツで汗を拭う。
片手はつないだままで。
「うわ、べしょべしょ。ほさぬ袖だにあるものをやん」
「……マリオにでも借りて競技カルタの漫画でも読んだんですか」
「いや、それは弓場ちゃんがな」
「弓場さんが少女漫画を……?」
「いやちゃうちゃう。一般教養で古文をな」
「ああ、後拾遺和歌集」
さすが成績優秀者らしく呟いた水上だったが、改めて生駒をじっと見つめた。
「大学生のイコさん、はじめて見ましたわ」
「こっちこそ、大学で水上の学生服姿なんて見るとは思うてへんかったわ」
ちょっとだけ見つめ合って、ふたりはくすりと笑った。
「あんな、じぶん、この時期になると、その考え込んでるっていうか、こう言って合ってるか分からんけど心ここにあらずに見える時があんねん」
「……」
「だからな、その、心配なんて言うたら大きなお世話言うか、おまえを侮ってる思われるのも嫌やし、気になっとったけど聞けへんかってん。おかしいやろ。イコさんともあろう者が」
「おかしうないですよ。イコさんは優しいなあ」
水上の生駒の手を握る手がほんの少しだけ強くなる。
「いらん心配させてもうたみたいですね」
すんません、と頭を下げた。
「謝らんとき。俺が勝手に気ぃ回してうだうだしとっただけやし。けど、もしなんかあるんやったら俺が聞いてええことか?」
イコさんに話したらあかんことなんてあらしまへん、と水上はこつん、と額を生駒の額にくっつけた。
「たいしたことちゃいますよ。この時期に俺、辞めたんですよ」
「辞めた? もしかして、コレか?」
生駒は人差し指の上に重ねた中指との間に何かをはさんで置く仕草をしてみせた。
へえ、と水上は頷き、「三段リーグって分かります?」と続けた。
「じいさまから聞いたことがあるからなんとなくは」
将棋棋士の養成機関である奨励会の、そのプロへの最後の関門。
「俺はそこまではいけへんかってですけど」
少しだけ皮肉そうに唇が歪む。
「あれ、年に二回あるんです。四月から九月までと、十月から三月までと。そんで、その下の二段以下も同じように半年の間争います。二週間に一度の日曜に、二~三局指します」
「大変やな」
「将棋が好きな連中しかおらんからそんなんは平気ですよ。イコさんかてそうでしょう?」
あんた、時間があれば道場で刀振ってるし、と水上は優しい顔で囁く。
「鈍ったらじいさまに叱られるし、おまえたちにも迷惑かけるしな」
でもそれだけではなく、生まれた時から傍にあった剣の道はもう生駒にとっては呼吸をするのと同じくらいに人生の中に刻まれていく。
だとしたら、幼い頃から生駒の刀のように、握ってきた駒を手放してしまった水上はいまどんな時間を過ごしてるのだろう。
「……四月から九月の期に辞める奴多いんですよ。特に小六とか中三とか高三だと。受験に間に合うから」
なるほど、と生駒は内心だけで頷く。水上の言葉を遮らないように。
「俺もその口です。あかんな、と思うたんです。ここで、こうして、三段にあがれたとしても四段に、プロになるまで、なれなかったとしたら追い出される二十六歳まで十年以上もロープに首をかけられたような気持で指していくのに耐えられへんと、見切りました。才能ではなく、情熱、を」
水上はちょっとだけ俯く。表情を隠すみたいに。でも少しだけ水上より背丈が高くない生駒からは丸見えとまでは言わなくても伺うことはできた。
笑ってるような泣いてるような、これも、生駒が見たことのない水上の表情だった。
「どうしてもこの時期になると思い出してまうんです、そん時のことを。アホですね。自分で選んだことなのに」
「アホちゃうわ。そんなん当然やろ。おまえにとってはでかい出来事やん」
おおきに、と水上は顔をあげて生駒を見つめた。
「最後に相手してもろたんは、よう世話になったにいさんでした。そん人も、俺が辞めた翌年には年齢規定で退会してしまいました。でも、そん人アマでも指し続けて、ある公式棋戦の決勝トーナメントベスト4まで勝ち残って、もう一度プロになれる資格をもろたんですよ」
「それってもしかして凄いことちゃう?」
「ええ。規定が出来てからやっと六人目です」
「おー、マジか。で、どないしたん。その人、プロ棋士になれたん?」
だが生駒の予想を翻すように、水上は静かに首を横に振った。
「試験受けへんかったんです」
「なんで!」
「プロにならんでも将棋に関わっていくことはできる、って。そういう生き方もあってええんだって、記事の中のあん人は言ってるみたいでした」
水上が口にする「あん人」には生駒には知ることの出来ない、十五の少年の彼の時間が重なっていて、少しだけ胸を疼かせた。
「……やっと俺の中であの蒸し暑い時間が終わってくれました。だから、イコさんと、秋を楽しめる気がしてきました」
「そっか」
「そおです」
「せやったら今度紅葉狩りでもしよか」
「ええですねえ」
「……なあ、水上」
「なんですか」
「そん人が羨ましいわ。三年経ってもそんな風におまえに思うてもらえて」
生駒がそう言うと、水上は少しだけ目を見開いた。
「嫉妬ですか」
「おん、暑苦しいか」
「ええんちゃいます? これから涼しくなるんですから」
途切れていたセミの声が再びにぎやかに大合唱をキャンパスに響かせる。
「また三年一緒に通えますねえ」
合格しないという将来はないのか、水上がそんなことを呟く。
せやな、と生駒は返し、これからあと何回彼と季節を越えていくんやろななんてことを夏の名残の中、とりあえず茶でもしばくために学生ホールへと向かった。