明けの情景朝靄がガルグ=マク修道院をうっすりと覆う、静かな朝だった。ユーリスは夜明けの薄暗さに乗じて外から秘密の出入り口を抜けてアビスへと帰り着き、もう朝食の支度が始まっているであろう食堂へと向かっていた。七面倒くさいことに今朝の食事当番なのだ。そんなもの、本当に煩わしいならアビスに隠れてバックレて仕舞えばいいものを、仕事終わりにも関わらず律儀に制服に着替えてやってくるところが彼らしいと言える。ふあ、とあくびを噛み殺し、冬の冷たい空気で肺を満たす。今朝も冷え込んでいる。厚い外套の前を掻き合わせ、足を急がせた。
昨夜の取引は妥当だった。これでまた、貧困に喘ぐ人を目の前から一人か二人、減らすことができるだろう。そのおかげで今日の授業中は居眠りをしてしまうだろうが勘弁願いたい。ユーリスはほとんど表情の動かない担任教師の顔を思い浮かべる。そういえば彼は最近髪の色が変わってしまったのだった。若草のような、そう、ちょうどあんな風に朝靄に溶け込むような色だ―――
(……って、マジで先生……!?)
ふと目を向けた先に見慣れたマント姿の担任教師を見つけ、ユーリスはぎょっとして足を止めた。食堂へ向かう途中の釣り池で、早朝にも関わらずベレトが釣り糸を垂らしていたのだ。
「おや、おはようユーリス」
気付かれた。声を掛けられるまで、ユーリスは本当にそこにベレトがいるのか己の眼が信じられなかった。それほど今日の朝靄は濃い。
「……おはよ。いやマジで早いな、先生」
「早い……そうか、そうだな。きみは食事当番で?」
ユーリスが頷くと、ベレトは足元の桶を指さした。
「ちょうどよかった。少ないが、何匹か釣れている。持って行ってくれ」
「こんなに朝早かったら、魚も寝てるんじゃねえの」
「……そうかもしれない」
釣果はいまいちのようだった。しかも、二匹の猫がその少ない獲物を狙ってか、ベレトの周りをうろついている。ユーリスは躊躇ったが、仕方なく近づいた。
「にゃ~!」
「こら、まったく……分かった、一匹だけだぞ」
ユーリスが自分たちの獲物を回収しようとしていることを察してか、猫たちは抗議するかのような鋭い鳴き声を上げた。釣り竿を上げると、ベレトは仕方がなさそうにしゃがみ込んでナイフを取り出す。小さな魚を一匹掴んで、地面で捌いてやろうというつもりらしい。頭を刺して息の根を止めようとしているその手つきは傭兵としてはいい線をいっているのかもしれないが、ユーリスから見ると『危なっかしくて雑』な部類にしか思えない。
「あー先生、俺がやってやろうか?」
「いいのか?」
少し困ったような顔でユーリスを見上げるベレトの足に、猫が頭突きを食らわしている。二匹がそうしてほとんど同時に体を擦りつけるので、ベレトはますます手元が怪しい。ユーリスは溜息を一つ吐いて、ベレトのナイフを受け取った。
(猫になんて、雑魚でも投げてやっときゃいいのによ)
にゃああ、とうるさく鳴く猫たちを両手で押さえるように撫でながら、ベレトはユーリスの手元を見守った。その場に片膝を突いて、ユーリスは迷いなくトータテスローチを片手で押さえ、ナイフで手早く止めを刺した。ざっと鱗をとり、池で適当に洗って、頭と内臓を取る。待てよ、猫って魚の頭も食うのか? よく分からなかったので端に寄せ、さっさと三枚におろして骨を取ってやった。
「鮮やかだな」
「まーな」
もっと褒めてくれてもいいんだぜ。ニヤッとして、ぶつ切りにした魚を猫の前に投げてやると、飢えた獣たちはすぐににゃごにゃご鳴きながらがっつき始めた。
「ありがとう、ユーリス」
「おう。……」
ユーリスはナイフを置いて池の水で手を洗うと、むずむずし始めた鼻を擦る。ベレトが猫を撫でるので毛が飛ぶのだ。まさか鼻水を垂らした顔を見せる羽目にはなりたくない。顔を上げ、ユーリスはちょっと得意げにベレトを見た。
猫を見るベレトの表情は、じわじわ昇ってきた朝日に照らされて、少し微笑んでいる。優しい目で、魚を食べる猫たちを見守っている。しかしその頬はいつもより白っぽく、唇も冷え切っている。ユーリスはやっと気が付いた。この担任教師が、毛布も外套も身に付けずに池のほとりで恐らく数時間、こうして一人で釣りに耽っていたであろうことに。
「……先生、」
「うん?」
ユーリスを見るその顔は、いつもと変りない彼そのものだった。眠たげにも、憂鬱そうにも見えない。そこがベレトの厄介なところだった。いくら体調が悪そうでも、体の動きが鈍っていようとも、彼はまるで死期を悟らせない獣のように表情を変えない。心の中に不安が広がっていようとも、果てのない思考の暗闇に一人で迷い込んでいようとも、きっと彼は無意識に隠し通すだろう。それがユーリスには心配の種だし、同時に悔しい。初めて出会った時は深入りするつもりなんてなかったのに、今ではつい、ベレトのことをもっと分かってやりたいと思ってしまう。親が死んで、仇を討って、体が変化してまだ日は浅い。その間に、彼は何人に真実を語ったのだろう……いや、むしろ彼は自分の本心を、誰かに話すことができているのだろうか……?
「……まだ、朝食には早いだろ。朝の鐘も鳴ってねえし……俺、あんたのために旨いもん作るからさ、少し寝て来いよ」
「そうか……そうだな、そうしよう」
立ち上がって猫の毛を払うベレトは、やはりどこか上の空のように見える。ユーリスは自分の外套を脱ぎ、ベレトに着せてやった。
「いいのか?」
「おう、俺様の温もり付き。感謝しろよ?」
「ああ。……温かい」
ベレトは目を閉じて外套に残るユーリスの体温を味わうと、ふわりと笑った。太陽が高く昇り始めているからだろうか。朝靄が消え、冬の澄んだ空気の中で見たベレトの顔がやけに眩しくて、ユーリスは自分の心臓がドキドキと騒ぎだすのを感じた。
魚の入った籠を受け取り、ユーリスは釣り竿を片手に自室へ戻っていく彼の背を見送る。いつかみたいにふらついて倒れでもしたら大変だ。寮室の方へとベレトが消えた頃、油断していたユーリスの足に猫が頭を擦りつけた。
「にゃあ~ん」
「……ヘックシ! ッあー、おいよせ、近づくんじゃねえ……」
慌てて足を上げて避けながら、ユーリスは急いで食堂への階段を駆け上る。遅刻した分はこの魚で手を打ってもらえるだろうか。慌ただしく去っていくユーリスの背を、猫たちの非難めいた鳴き声が追いかける。冷たい風が池をわずかに波立たせると、ちゃぽんとひとつ、魚が緩慢に跳ねる音が響いた。