きみだけだよ2はあ、と大きな溜息が大司教の執務室に虚しく響く。ベレトが羽ペンを置くと、セテスは怒ったような仕草で出来上がった書類を机上で揃える。実際、怒っているのだ。
「何か言うことはあるかね」
「……いや、何もない」
はああ、と今度はセテスがとびきり大きな溜息を吐く。それでももう何も言わずに部屋を出て行ってくれたのはありがたい。午前中いっぱい執務をサボッたせいで、昼食の席で彼に捕まった時はガミガミ叱られながら食事する羽目になったのだ。
ベレトは朝から昼まで、このガルク=マク大修道院を走り回った。しかし、街にも、庭園にも、士官学校にも、おまけにアビスにもユーリスの姿はなかった。狼の牙たちはベレトの問いに首を横に振り、商人たちも首を傾げた。大聖堂にも彼の姿はなく、司祭たちはベレトの姿を見て「今日はどうされたのです?」と訝し気に声をかけてきた。適当にお茶を濁してその場を後にしたが、やはり『大司教』という立場は少々息苦しい。
ベレトは椅子に腰かけたまま両腕をぐっと伸ばす。サボッた分、倍の量の書類に目を通し、サインをしたり返事を書いたりしていたせいで体はくたくただ。こんな様で今夜ユーリスとゆっくり話すことができるだろうか―――
「あの、大司教さま」
控えめな声がして、ベレトは戸口に目を向ける。一人の少年が、見張りの兵に連れられてベレトの方を見ていた。
「お手紙を持ってきました」
「ユーリスから? 珍しいな」
少年は、アビスに住み着いている孤児の一人だった。ガルグ=マク大修道院の内部に、戦争で親を亡くした子供たちを養う仮の施設を造りたい、と提案したのはユーリスだ。必要なくなった兵舎を少し改装したその場所には、この少年をはじめとした数多くの子どもたちが暮らしている。もっとも、彼はアビスの雰囲気が性に合っていて落ち着くらしく、もっぱらそちらに出入りをしているせいで、よくユーリスにこうして使いっ走りにされている。ベレトは手紙を受け取ると、少年の手に菓子を乗せてやった。
手紙からは、ユーリスの香水の匂いがした。鼻先に当ててスン、と嗅いでみる。それだけで、彼の体温が手に蘇るかのようだ。
(ユーリス、はやく会いたい)
方々からやってくる仕事関係の書類は勘弁願いたいが、ユーリスからもらう手紙は好きだ。手紙には、彼の口紅の跡がついていた。そこに自分の唇をそっと寄せてから丁寧に折りたたまれていた紙を開き、ベレトはユーリスの繊細な文字を目で追った。
「……えっ」
同じ場所を二度、三度と読み返した。書いてある内容は変わらない。
「ユーリス……?」
手紙には、少々焦ったような文字でこう記してあった。
『悪いが数日、留守にする。』
ベレトは不意に、窓の外が真っ暗く、星も輝いて見えないことに気が付いた。空は厚い雲に覆われて、どこに浮かんでいるのかもわからない月だけは、うすぼんやりと地上を照らしているらしかった。
「はー、まいったまいった……」
突然大修道院を離れることになってから八日後。ユーリスは馬車を降りると深いため息を吐いた。部下たちが復興を進めている故郷の街で小競り合いがあったのだ。争いの種火は小さくとも、血気盛んな若者たちがぶつかり合えば当然ケガ人が出る。つまらねえことで薬を使われる羽目になるくらいなら、と頭領自らがことを納めに行ったわけだが、それは殊更上手くいった。やはり『自分たちを見守り、面倒を見てくれようとする人間』の存在というものは大きいのだろう。それはかつてのユーリス自身にも言えたことだ。いや、今でもそうだな、と鼻の頭を指先でちょっと擦って、ユーリスはガルグ=マク大修道院の中をゆっくりと歩き出す。
「おっ……」
一度アビスに戻って、部下たちの様子を確認しようと思っていたのだが、ちょうど庭園にベレトの姿を見つけてしまった。ユーリスは自分の体を見回して、さっと髪を整える。草臥れた姿を見せるのは少々躊躇われたが、かつてはお互い血濡れで戦い抜いた仲だ。伴侶に声をかけてから部下の元にいくのも、物の順番としては間違っていない。それにきっと、自分に会いたかったはずだ。ろくに挨拶もできずに出かけてしまったのだから……ユーリスはせめて、と外套の砂を払うと、コホンと喉を整えてからベレトに声をかけた。
「おーい、ベレト……」
シスターとなにやら会話していたベレトは、呼びかけに反応してこちらに顔を向けた。ひらり、手を振ってやると、驚いたような顔をしてユーリスの顔を凝視する。なんだよ、幽霊でも見ちまったかのように。ユーリスが顔を顰める間に、ベレトはずんずんこちらに近付いて来る。
「よう。なんだよ、俺に会いたかったの、か……?」
「ユーリス……!」
軽口を叩こうとしたユーリスは、ベレトに両手を取られてぽかんと口を開けた。思いつめたような顔のベレトが一瞬ぐっと口元を引き結び、突然ユーリスの目の前に片膝をついて跪いたのだ。
「お、おい? 待て待て、どうしたんだよ」
大司教が地面に跪くなんて。ユーリスは慌てて手を引こうとするのだが、ベレトはユーリスの両手を大切なものを捧げ持つかのように握り締めて離さない。おまけにユーリスの指先に小さく口付けを落とすと、片頬をそこへすり寄せて、呻くように呟いた。
「本当にすまなかった……きみが戻ってくれて、嬉しい」
「……はあ?」
状況が呑み込めず、ユーリスはただ戸惑ってベレトのことを見下ろしていた。日の高いうちに戻れたことが裏目に出て、周りには何人もの兵や信徒の姿がある。ユーリス様が戻られたんだな、よかった……大司教猊下はどうなさったのかしら、……何かあったの……?
これ以上見物人が集まる前にどうにかベレトを立ち上がらせると、ユーリスはそそくさとアビスへの秘密通路へ彼を押し込んだ。
「つまり、あんたは俺が怒って出て行ったと思ってたわけか」
「違ったのか」
狼の隠れ家に連れてこられたベレトは、疲れた様子で椅子に腰かけたユーリスを見る。数日ぶりに顔を見られて本当に嬉しい、と思う気持ちと、数日ぶりに会うと自分の伴侶はやはり格別に素晴らしく思えるな、という気持ちで目をキラキラさせている彼を眺めて、ユーリスは溜息を一つ。
「見当外れもいいとこだ。俺はちょっと部下たちのいざこざを納めて来ただけで……」
「怒ってはいなかったということか」
「……ン、まあ……あんたが言ってる件については、そうだな」
「そうか、本当によかった」
心底ほっとした様子のベレトに、ユーリスは少しおかしくなる。
(今更、あんたが女を抱いたことがあるくらいで動揺するかよ)
正直に言おう。多少は動揺したのだ。
どこかぼんやりしていて、自分のような悪党にすぐ騙されてしまいそうな顔をしている教師だと思っていた。それがどうしたことか、案外勘が鋭くて、戦場の指揮も的確だった。人を殺すことに慣れきっているらしいのに、自分をはじめとした生徒たちには慈愛に満ちた視線をくれる。教会や俗世の何もかもから浮いたような存在。それがベレトの印象だった。だから無論、女を抱いた経験などないと思っていたのだ。
(俺だって綺麗な体じゃない。むしろ……)
「ユーリス……?」
「なんでもねえ……」
ベレトの口から女に触れたことがある、抱いた経験があると聞いた時は、驚きこそすれ「まあ、そのくらいは当然か」と思ったはずだった。生まれてこのかた傭兵団と一緒に生活していた男が、そういう経験なしに戦い続けられるはずがないと思ったからだ。女は癒しだ。柔らかくて温かな体は、戦闘で傷ついた体と昂った心を優しく包み込んでくれる。しかしベレトが誰かを腕に抱き、その肌にうっとりと顔を埋める想像をしたとき、ユーリスは堪らない気持ちになった。腹の底から湧き出た、怒りにも似た感情の正体は。
「やっぱり怒っているのか?」
「怒ってねえよ」
「ユーリス」
不安そうなベレトの顔に覗き込まれて、ユーリスは片手で自分の額をぐっと抑えた。それは、その時自分が感じた感情は、……紛れもなく、嫉妬だった。
「怒るわけ、ねえだろ……俺にそんな資格があるかよ」
「あるだろう、きみは俺の伴侶なのだから」
蝋燭の灯りの中でも、ユーリスが顔を紅潮させているのが分かる。
「本当に、怒ってねえ……あんたが過去に誰を抱いていようが、今は俺だけのものなんだから……」
「そうか……そうだな。俺は、きみのものだ」
嬉しそうに頷くベレトの顔。ユーリスはゆったりとした椅子に腰かけたまま、頬を染めて数日ぶりの彼を存分に眺める。
「だが、夜にベッドを抜け出していたのはどういうわけなんだ?」
「あれは、そのだな……あんたが、手を出して来ねえしさ」
「手を……出してよかったのか」
「そ、それと、俺としてもちょっとばかし思うことがあったっつーか」
「思うこと、とは」
「……もしかして全部言わせる気か?」
ユーリスがじっとりと睨みつけると、ベレトはしらばっくれて少し首を傾げて見せる。クソッ……! ユーリスは腹を決めて、大げさに足を組み替えた。
「分かったよ! あんたが女を抱いたことがあるって言ったくせに俺には指一本触れてこねえのが癪だったんだ!」
「……!」
「俺様ほどの美少年と共寝ができるってのに、あんたがそういう人だってのは知ってたし、そういうところも含めてあんたかいいと思っちゃいるが、少し無関心すぎやしねえか!?」
「そ、そういうわけではない!」
「ほお~、じゃあどういうわけだ?」
コン、コン……ほとんど言い合いのようになってしまった部屋にノックの音が響いた。ヒートアップしかけていた二人は、はっとしてそちらを見る。
「誰だ?」
「ぼくです……あの、手紙を持ってきました」
「手紙……? 入れ」
ユーリスの言葉にギィと扉が開き、例の少年が姿を見せた。
「あんまりここには寄り付くなって言っただろう」
「ごめん、ユーリス……でも、大司教猊下からのお手紙を届けたくて」
「ベレトからの?」
「あっ……」
慌てたような声を出したベレトにピンと来て、ユーリスは少年からサッと手紙を受け取ってしまう。
「悪ぃな、駄賃はまたあとでだ」
「ユーリス、待ってくれ、その手紙……!」
バタン、扉を閉めて、ユーリスはベレトを振り返る。
「俺に手紙をくれたのか? あんたも意外とマメだな」
「届くかと思ったんだ。いや、とどかなくてもこのきみの私室に届いていればいいかと……」
「んじゃ、俺宛の手紙なんだから、俺が読んでも文句はねえよな?」
「いや、内容は俺が最初に話したこととほとんど同じで、……」
ベレトが止めるのも聞かず、ユーリスは一番日付が古いものからカサカサと取り出すと、わざと声に出して読み始めてしまった。
「ユーリス、手紙をありがとう。仕事が忙しいのはお互い様だけど、……」
ユーリス、手紙をありがとう。仕事が忙しいのはお互い様だけど、数日会えないとなるととても寂しいしきみのことが心配だ。そんな心配など必要ないということは分かっているけれど、それでも一日中窓の外ばかりを見てきみのことを考えてしまう。きみがこちらに向かってくる靴音が聞こえてこないかと耳を澄ませていたけれど、とうとう今日も君の顔を見ることができなかったね。
少し冷たい風が吹き始めている。アビスは大丈夫かな。寒い思いをしている人はいないだろうか。きみが留守の間、僕が見回りをしておくことにするよ。もちろん、きみも寒い思いをしていないといいけれど。次に会えたら、寝る前に君の好きな蜂蜜漬けの果実茶を飲もう。どうか、きみと二人で、ゆっくり話がしたい。きみに会いたいよ。 ベレト
「へ~え、あんた、意外と詩的なんだな」
「……」
ユーリスがにやにや笑いながらそう言うと、ベレトは困ったように顔を赤くして視線を彷徨わせた。構わず、二通目を開ける。
この前の手紙は君に届いただろうか。まだ留守にしているとは分かっているのだが、ついきみを想ってペンを手に取ってしまった。ああ、また太陽が沈んで夜が来る。僕の心の中も、きみがいないだけで永久に暗い夜のようだ。きみが僕に光をくれていたんだと、改めて気づいたよ。きみに会えないだけで、何を食べても味がしない。時間が過ぎるのがとても速く感じる。でもきみがいないと思うと、会えるまでの時間はもっとずっと長く感じて、息ができないほどゆっくりと時が経っていくように思えるんだ。愛しいユーリス、どうか体には気を付けて。
今日、温室へ行ってみたら、昨夜の雨が天井から滴って、育てていた花たちがまるで泣いているように見えたよ。目が覚めるような、オレンジ色の美しい花なんだ。きみに見せたいよ。きみの髪に飾ったなら、きっと世界の何よりも、太陽よりも月よりも、ずっと輝いて見えるだろう。会いたいよ。 ベレト
「ははっ、太陽よりも月よりも、ってのはいいな」
「……」
熱烈な手紙の内容に、ユーリスはどうやら機嫌が直ってきたようである。反対に、ベレトはまだそわそわと落ち着きがない。とうとう三通目だ。
これを早く書けば良かったのに、気付けなくてすまない。先日僕が言ったことに腹を立てているのならば謝らせてほしい。申し訳なかった。今僕は心の底から後悔をしている。自分の女性経験のことなどきみに言うべきことではなかったし、曖昧な話し方をして、きっと怒らせてしまっただろうね。本当にすまなかった。許されるなら、きみの望むことになんでも応えよう。たまに、自分のこういう鈍感さや愚鈍さが嫌になる。きみの感情に寄り添えないことが悔しい。会って話したい。ユーリス、きみが好きだ。きみだけを愛している。きみの紫水晶のような美しい髪をいつまでも撫でていたい。いつもきみがくれるような優しい口付けを、ぼくからもきみに贈りたい。骨が軋むくらい抱き締めて、永久に腕の中に閉じ込めておきたくなる。ベッドの上で毎晩きみの体温を感じていると、きみの頬や、首や、手や、からだの色んな場所に触れてみたいと思う。手で触れて、唇で触れて、体の全部を君に押し付けて見たくなる。そうやってきみと、まるでひとつになってみたい。でも、果たしてきみは、それを許してくれるだろうか。ユーリス、愛している。 ベレト
「……」
「……」
途中から、ユーリスは声に出して読むことを止めてしまった。手紙には、ベレトの正直な欲求が、迷いを帯びた文字で、しかし真っ直ぐに綴られていた。
手紙から顔をあげると、ユーリスはやっと小さな声で言う。
「……バカやろ……手紙なんかに書いてないで、とっとと自分の思うようにやってみれば良いだろうが……」
「……すまない」
「怒ってない。……いや、俺も悪かった」
俺だって、あんたに触れて欲しいよ。そう言葉にした瞬間、ユーリスはなんだか目の辺りがツンとして、じわっと涙が滲む痛みに瞳を瞬かせた。