交際二ヶ月目 あるいは麻薬的な恋 交際が始まって二ヶ月が経った。
「まだ飽きねぇのか……」
土方さんはぼやくが、僕は会うたびに土方さんの新しい魅力を見つけている。
相変わらずデートコースはおおむね僕が考え、二週に一度は土方さんが助言してくれる。昼食がホテルのビュッフェになるのは、ディナーだと僕が気後れしてしまうという気遣いなのだろう。早く稼げる男になって、せめて割り勘にしたい。
七回目のデートの翌朝、僕の腕の中でうっすら目の下に隈を作った土方さんは言った。
「映画に興味はねぇか」
「たぶん人並みにあります」
古い作品や前衛的な試みなどには興味はないけれど、アメコミ原作のものや日本の人気コミックの実写化などはたまに観る。
「じゃぁ、来週はお前が考えなくてもいい。映画行くぞ」
八回目にして、初めての土方さんからのデートプランの提案だ。
とうとう僕の本気が通じたのだろうか、という期待と、肩透かしを食らったらどうしようという不安を抱えて、その週は過ぎた。
土曜日は、午前九時に僕の学校の最寄り駅に集合。
そう言われて、はてな、と思う。
僕の学校は都心にある。駅から少し歩くが、その道中にシネコンが入っているようなビルはない。駅の反対側にはあまり行かないけれど、都心ぶりはそう変わらないだろう。
疑問を抱えながら、八時四十五分に最寄り駅の売店前に着く。土方さんは五分後に来た。
「いつも早ぇな、お前は」
「好きな人を待たせるわけにはいかないですし」
僕の言葉に、土方さんは困ったような表情を浮かべた。
その意味を僕に感じ取らせる前に、土方さんは大学の方へ歩き始めた。僕もあわててお供する。
七分ほどだろうか。長い脚が歩みを止めた。
「着いたぞ」
「えっ? はい」
そこにあったのは、平屋の建物だった。海老茶に塗られた外壁がおしゃれなその建物の前を、毎日通っている。けれど、その具体的な用途を考えたことはなかった。
「映画館、なんですか」
「他の何に見える」
確かに、ショーケースには上映する映画のパンフレットやポスター、タイムテーブルが飾られている。
けれども、僕の知っている映画館とのギャップは埋めようがなかった。
土方さんは、入口の前にできている行列の最後尾に並んだ。僕も従う。
「びっくりしてんな。シネコン以外は初めてか」
うなずくと、薄い唇がいたずらっぽく歪んだ。相手を驚かせることに成功した子供のようで、初めて見る顔に僕の胸はときめいた。
「昔はこういう単館も多かったんだよ。名画座以外はほとんどシネコンに駆逐されたがな」
「名画座ってなんですか?」
「簡単に言うと、普通の映画館だと上映が終わってる映画をかけるんだ」
知らなかった。
しかも席は入れ替え制ではなく二本立てで、いたいと思うなら一日中映画を見ていてもいいらしい。
自分の常識の狭さを感じているうちに窓口が開き、僕らの前に並んでいた人たちが自動販売機でチケットを購入する。
その自販機を見て、あまりのシンプルさにまた驚いた。最近のジュースの自販機よりも簡素で、座席の予約機能などありそうにない。
大人一枚、学生一枚をスマートに買った土方さんは言った。
「自由席だぞ、ここは」
学生証をもぎりの人に見せ、後を追えば、土方さんは一番後ろの席に陣取った。
「俺は前に行くと迷惑がかかるからな」
土方さんは股下に六本木ヒルズが入るほど脚が長いが、長身ゆえの座高の高さはどうしようもない。
けれど、他人の迷惑を顧みない人などいくらでもいる。土方さんの美徳に、僕はまたひとつ恋の小石を積んだ。
「一服してくる。席見とけよ」
改めて、館内を見遣る。
広さは僕の大学の中講義室と同じか少し狭いくらい。正面に大きなスクリーンがある。シネコンに慣れた身には、どうにも狭い。
けれども、立地の問題があるだろうし、あまり広くても維持費用がかかるのかもしれない。
土方さんはコーヒー缶を二本手にして戻ってきた。僕にホットのカフェラテを渡し、自分はブラック缶を開ける。
この、煙草とコーヒーの混じった匂い。相手によっては不快になるかもしれないけれど、土方さんの隣で嗅ぐと僕はとても幸福な気分になる。大人の香りだ。
カフェラテのボトル缶を開け、呷る。甘みが口の中に広がる。お前はまだまだ子供なのだ、隣の人を守ることなどできないのだ、と何か大きな存在から言われているかのようだ。
僕の複雑な感情をよそに、照明が落ちた。予告編はなく、案内や注意の動画の後で本編が始まる。
古い映画だ。画面比率が4:3だから、僕の生まれる前の作品かもしれない。
主人公は、どうやら薬物中毒者のコミュニティに属しているらしい。暴力描写もままある。主人公たちの自堕落な生活は、平和ボケした僕にとってはかなり刺激的だ。
それにしても、好きな人と外で見る濡れ場はどうしてこう気まずいのだろうか。密室ならともかく。
クスリ代に困って一攫千金を目指す主人公たちは、犯罪に手を染める。失敗すれすれの行動をいくつか取って、ついに成功――というところで、衝撃的な展開が盛り込まれ、エンディングテーマが流れる。
照明が点いて、僕は土方さんに向き直った。
「今の曲、めちゃくちゃかっこいいですね!」
「だろ」
土方さんは、自分が褒められた時のように満足げだ。
「この映画、土方さんは映画館で見たんですか?」
「さすがに俺だってその頃はまだ幼児だ。兄貴が好きで、しょっちゅうあの曲かけるから覚えちまった。映画の方は中学に上がるまで見せてもらえなかったが」
まぁ……確かに、子供には刺激が強いよね。二十歳近く離れたお兄さんとしては、少年の健全な育成を考えたに違いない。
僕は『幼児の土方さん』『中学生の土方さん』という概念に心を奪われた。確かに、土方さんも産まれた時からアラサーだったわけではない。それでも、大人でかっこよくて時折可愛い土方さんに未完成な時期があったとは、僕には信じがたい。
幼児の土方さん、今よりも中性的で可愛かったんだろうなぁ……。よく人さらいにも遭わずに大きくなれたよね。僕なら絶対さらってる。いや、言葉の綾です。
土方さんは軽く目を伏せて、あのシーンには心の柔らかい部分が刺激されたとか、あのシーンには手に汗握ったとか、そんな思い出を語ってくれる。
低音にうっとりと耳を傾けていたら、ブザーが鳴った。
二本立ての二本目は、二十年後に作られた続編とのことで、あのラストからどう話が膨らむのだろう、と期待した。
……あれ。あれ、あれ……?
約二時間後、灯りがついてまず土方さんを見た。土方さんも、拍子抜けしたような表情で僕を見る。
席を立ち、喫煙可の喫茶店へ移動する(土方さんは僕の学校のOBでもあるので、この辺の地理には詳しい)。マンデリンを頼んだ土方さんは、コーヒーが来る前に煙草に火を点け、大きく煙を吸い込んで吐いた。カフェオレを頼んだ僕は、この重い銘柄の香りで安心できるようになった自分を再確認する。
「端的に聞く、二本目はどうだった」
「うーん……」
僕は自分の内面からなんとか言葉を探す。
「単体だと、面白かったですよね。テーマもあったし、キャラも立ってたし、ちゃんと盛り上がりも意識されてたし」
土方さんはうなずく。
「ただ、前作とはテーマが変わっちゃってるっていうか……ダメな中年を描く問題提起作みたいになってて……もちろんそれが悪いとは言えないけど」
「それだ」
煙草の先端を僕に向けて、土方さんは言う。
「ちょっと期待と違ったんだよな。あんなに弾けてた連中が、すっかりみじめになっちまってな……監督も歳取るだろうし、描きたいことが変わるのはわかるんだが」
「土方さんは第二作見てたんですか」
「いや、気になってたが結局見られなかった。だから今日、これ幸いと見てみたんだが……つまんなかったか」
「とんでもないです」
僕はあわてて首を横に振る。
今日は来れてよかった。普段のデートではなかなかしづらい価値観のすり合わせができたし、土方さんが何を考えているのか、その一端を理解できた。
おまけに『幼児の土方さん』『中学生の土方さん』というご褒美のような概念も与えられた。
「俺の都合で振り回しちまったかと思ったが」
「それはないです、大丈夫」
「ならいいが」
僕の様子を見て、土方さんは安堵したように笑った。普段見せない類(たぐい)の笑顔が、胸に刺さった。
「もう飯の時間だな」
土方さんは時計を見た。
「何食いたい? ここでもよそでもいいが」
「そろそろ僕におごらせてくれませんか」
「ダメだ。学生の金で食う飯なんてうまくねぇ」
まだまだ、大人として認めてはもらえない。歯がゆい。
「俺はちょうど喫茶店のピラフが食いたくなってるんだが、お前はどうする」
「おすすめってあります?」
「そうだな……俺は喫茶店のナポリタンも好きだな」
ナポリタン。聞いたことはあるが、あまり食べたことはない。昔はスパゲッティといえばミートソースとナポリタンの二択だったというけれど。
「じゃぁ、ナポリタンで」
ちょうど、お店のマスターと思しい人物が飲み物を運んできた。ランチの注文をする土方さんを見ながら思う。
この人、そろそろ僕に絆されてるんじゃないかな?
ただのセフレとは映画を見るなんて発想には至らないだろう。もともと、人間関係に執着する人ではないようだし。そして、セフレの映画の感想なんて聞き出さないはずだ。
特別とまではいかないまでも、土方さんの胸のどこかに僕の居場所があるという想像は、このカフェオレに劣らず僕を甘くしてくれる。
面と向かって聞いて、否定されるのは怖い。だから、まだ聞かないけれど。
僕の視線を受けて、土方さんは、
「何見てんだよ」
と、紫煙を吐き出す。その顔が照れているように見えて、空腹のはずなのに胸がいっぱいになった。