硬い話「あ……?」
「おう」
隆景がレッスン部屋のドアを開けると、敦豪が一人床に座ってストレッチをしていた。有名スポーツメーカーのロゴがついた上下の服。職業柄運動する機会が多いからなのか、敦豪のスポーツウェア姿は隆景よりも様になっている。
しかし、その敦豪の姿がスタイリッシュだろうと、そうでなかろうと隆景としてはどうでもよかった。否、どうでもいいとまではいかないが、それ以上に敦豪の存在自体に違和感を覚えていたのだ。
常に(常にではないが、イメージというもの)遅刻してくるのが敦豪である。それが誰よりも早くやってくるなんて、珍しいこともあるものだと思いながら、隆景も敦豪がいる鏡の前まで足を進めた。
「おい」
「あぁ?」
隆景が袋から出したシューズを床に置いた瞬間、前屈姿勢の敦豪が隆景にいきなり声をかける。大きな手は靴底まで包み込んでおり、腕は半ばで弛んでいた。
今にも憎たらしげなことを吐きそうな顔が、伸ばした腕の間から覗く。
「明日、槍は降らねぇぞ」
「はぁ?」
「俺がいるのが意外だって、顔に書いてある」
「当たり前だろ。お前がいつも最後なんだから」と日頃の遅刻癖をなじる。もう一言気になる事象を何個か上げてやろうかと思ったところで、そこで小言を止めた。今は二人しかいないのだ。まぁまぁと止める人はいない。それに、小言を言っても直ることはないのだ。空気が悪くなることもなければ、その癖も改善しない。
「……」
「……」
これ以上小言が飛んでこないことを悟ったのか、再び敦豪が背中を曲げ始める。
「コウを学校まで送ってきた。今日は信乃の面談の日だっただろ」
「あぁ、なるほど。それで……」
学校……それは時としてdevaを二分するものである。
この日は信乃の三者面談のため、コウと信乃の二人は夕方のレッスンを休むことになっていた。信乃の祖父が腰を痛めたという連絡を受け、同居しているコウが代わりに保護者として学校に出向くことになったのだ。実際信乃の宿題を面倒見ているのはコウであり、学校側も信乃の事情を把握していることから、血の繋がりのないコウでも問題ないという結論に至ったようだ。それも信乃が教師を全く煩わせない生徒だったからなのかもしれない。こうして二人きりになったわけだが、コウがいなくなれば隆景が「万死!」と叫ぶことはない。
シーンと静まり返った部屋で隆景が腰を降ろし、黙々とシューズを履き靴紐を結ぶ。立ち上がればキュッと靴が啼いた。黙々と各自ストレッチをし、ダンスレッスンの準備を進める。
部屋に入った時に見た敦豪と同じように、隆景が両足を伸ばし背中を前に曲げる。真っ直ぐ腕を前に伸ばし、頭を下げた。
「……くっ」
しかし、指先までピンと力が入った腕は足首にすら届いていない。そのあまりにも硬すぎる姿を見て、敦豪はポカンと口を開けた。前屈は前に屈むと書くが、隆景の背中は若干前に傾いただけである。まるでカタカナのコだ。
「ウソだろ。まさか……もう曲がらねぇのか。もっといけるだろ」
少ししか曲がっていない背中に、敦豪の掌が触れる。
嫌な予感がした。
「……っ!?」
グッと背中から力が伝わる。自分の意思とは関係ない力に押された瞬間、引っ張られるような痛みが太腿の裏に走った。
「痛っ! おい! 押すな!」
「おいおい、正気か……」
痛みを主張する声が部屋に響き、背中に触れていた手が離れる。
「馬鹿かっ! 死ぬところだったぞ!」
そう言って隆景が勢いよく振り返り、敦豪をキッと睨む。その呆れた顔に、余計に腹が立った。
「はぁ、軽く押しただけでギャーギャー叫ぶな。こんなもんで死ぬわけねぇだろ」
小さな溜息が敦豪の口からこぼれる。こっちは本気で痛みを訴えているのだ。冗談で言うわけがない。要らぬお節介だと、主張しようとした時、また背中に温もりを感じた。
「お、おい……っ!」
「硬いとケガしやすくなるしな。少しでも柔らかくなるように、もう一回やっとくか」
「~~っ!!」
声にならない悲鳴が口から飛び出た。「ゆっくり息を吐け」と忌々しい声が背後から聞こえてくる。
結局、コウがいないのにも関わらず隆景はうるさいまま。鼓膜を痺れさせるような大声が、二人っきりの空気を震わせ続けたのだった。