桃包いつぶりかの璃月の風景は、見知った人間がいないという一抹の寂しさを除けば変わらず美しかった。
すべてが終わり新たな世界へ旅立った後、相棒の白いふわふわ、パイモンと一緒に再びこの地を踏んだのは単なる寄り道のようなもので、深い意味はなかった。
それとなくかつての友たちの足跡を追えば、飛雲商会の今の当主は商才豊かだが字が汚いらしいとか、万民堂は美味しさに定評があるが時々大博打のような料理が出てくるとか、友たちの「名残」を感じ取れる話に二人の頬はへにゃりと歪んでしまう。
銀杏の舞い散る橋を視界一杯に広がる璃月港の風景を味わいつつゆるりと渡っていると、端にちらりと茶色の房が揺れた。
茶褐色の美しい髪は龍の尾を彷彿とさせる優美さで、その持ち主を慕う友人が日頃言葉を紡ぐのが苦手な性分だというのに精いっぱい考えて「一等上等の霓裳花の絹糸でも敵わない」と評したそれを見間違えようが…ないはずだった。
言葉にできない違和感はさておいて、彼を呼ぶ声が先に口に昇る。
「鍾離先生」
呼びかけられた長身の青年が足を止める。
陰に隠れて見えなかったが小柄な人物が一歩遅れて立ち止まった。
「おおー、ほんとに鍾離だーー久しぶりだなー」
くるくるふわふわとパイモンが鍾離の周りを飛ぶ。
彼らの記憶にある青年は夜叉一族の者が作ったというきっちりとした三つ揃いの服だったが、今身に着けているのは璃月の一般的な礼服を少し崩したようなこざっぱりとした服。それでも彼の優美さが損なわれることはなく、眉目秀麗の見本のような顔立ちと隠し切れない神聖な雰囲気に飲まれそうになる‥ような気がする 旅人は久しぶりだから少し雰囲気が違うのだろうかと背中にジワリと妙な汗を感じ始めていた。赤の他人に声をかけてしまったような気恥ずかしさに似ている。しかし顔立ちはどう見ても鍾離そのものだ。
肝心の青年はきょとんと眼を見張ったまま二人を見比べている。
その様子に更に違和感が蘇り、首を傾げる。その拍子に彼の隣にいた小柄な少年に目が行った。
少年…も知っているはずだった。鍾離と名乗っていた「元岩神・モラクス」であり璃月の守護者である「岩王帝君」に仕え、公然の秘密ではあったがいわゆる「恋仲」でもあった夜叉族の生き残りにして璃月のもう一人の守護者、降魔大聖・魈。
久方ぶりの再会ではあったが変わらぬ美貌は「一等美しいものを好む」岩王帝君のお眼鏡にかなっても仕方がないと常々思っていたものだ。外見だけでなく強さ、生き様、忠誠心、優しさ…どこをとっても自慢の友人だったと覚えている。
美しいまま…ではあるがこの違和感はなんなのだろうか。
「失礼ですが」
聞き覚えのある低くよく通る柔和な声に、パイモンの動きが止まる。
「どうやら人違いされているようです」
くすくすと端正な顔から零れる笑みは、通りすがりの女性たちがはっと足を止める威力があった。
隣の少年からは小さなため息が漏れる。
「完全に人違いというわけではありませんが…俺のことを父の名前で呼ぶということは、お二人はもしかして父がよく話されていたご友人の方では」
ひょえっとパイモンが息を呑む。
父。
鍾離の顔立ちで、鍾離のことを父と呼ぶ青年。
氷元素も水元素もないというのに旅人とパイモンがきっちりと凍結する。
「ぎょえぇぇぇぇええぇぇぇ」
四秒後、群玉閣まで届くようなパイモンの絶叫が響き渡った。
再び青年の隣に立っていた少年がため息をつく。
「騒々しい…父上が仰っていたように、賑やかなことだ…」
少年の声質に今度は旅人が息を呑んだ。違和感の正体がじわじわと浸透し始める。
友人は確かに「美少女」と形容しても差し支えのない美貌の持ち主ではあった。だが小柄な体格とはいえ常在戦場の夜叉に恥じない引き締まった筋肉質の体形は少年のそれだった。
対して目の前の「少年」は、なんというか全体的に「丸い」。たとえるなら妹によく似ている。戦う術は知っていても少女らしさは抜けないもので仕草や端々にいわゆる「女の子らしい」が滲み出る、と思っている。よく兄馬鹿だとは言われるけれども。
「…し、魈、だよね」
恐る恐る呼びかけると、少年は眉を顰めてゆるっと首を振る。
「それは母の名前だ」
再びパイモンの絶叫が響き渡り、さすがに千岩軍を呼び寄せかねないと慌てて四人は璃月の外れまで移動した。
慌てて…
「天衡山まで来ちゃったぞ…」
息一つ乱さず、むしろ快活な笑い声さえ上げる青年はどこからどうみてもかつてともに旅をした往生堂の客卿、鍾離そのものだった。その隣の少年…いや、少女も見た目は魈によく似ている。
そして彼らの言葉を総合すると、二人は…
「鍾離先生と、魈の子ども…」
口に出しても腑に落ちるとは限らない。
楽しそうな鍾離っぽい青年に比べると、魈によく似た少女は終始不機嫌そうだ。
まじまじと違和感の正体を探るべく不躾を承知で二人を観察する。
外見はよく鍾離に似た青年は、端正な顔立ちは瓜二つながら、彼が覚えている「鍾離」より少し幼い感じがする。髪の先端がうっすらと翡翠色に輝いていてなるほど違和感があって当然だ。岩元素そのものと言わんばかりの「岩の魔神」だった鍾離と違い、目の前の青年は風元素に包まれている。
そして傍らの少女は魈と同じく風元素の持ち主ではあるが、やはり少女らしさが違和感の正体だったのだと悟った。
改めて旅の終わりに彼らと別れた頃のことを思い返す。
たしかこれからも時間の許す限り二人で静かに璃月で暮らすと言っていた。
あれから時は流れたが、まさか子を為すとは想像だにもしなかった。仙人とはそういうことも可能なのかと忘我の域に魂が飛びそうになる。
「旅人、しっかりしろ…オイラは驚きすぎて飛び方を忘れそうだぞ…」
ふらふらしているパイモンの様子に逆に冷静さが戻ってきた気がした。
「うん、えーと、いろいろとびっくりしたけど、確認するね。二人は鍾離先生と魈の子どもで…ということは、仙人」
「はい。俺と妹は璃月港に、両親は絶雲の間で暮らしています。ああ、でも会いに行くのは…今は控えたほうがよろしいかと」
苦笑を浮かべてそれとなく訪問を止められた二人の頭に疑問符が浮かぶ。はっとなったパイモンがふるふると震える。
「もしかして、魈の体調が悪いのか それとも鍾離のほうか」
魈は業障、鍾離は摩耗という避けられない苦しみを抱えていた。その影響が強く出始めているのだろうかと旅人も懸念する。
それを察知したのか青年は軽く笑って否定する。
「いえ、その…」
鍾離の顔で言い淀まれるとなんともむず痒い。彼はどんなことも涼しい顔でずけずけと物おじせずに語っていたものだ。
「母が今は抱卵している。鳳凰の気が強く出ていて気性が荒くなっているから、たとえ長年の友人であろうと容赦しないだろう」
煮え切らない兄の態度に辟易したのかさっさと少女のほうが事情を暴露してしまった。
「なるほどー、じゃあ仕方な…ほう、らん」
「母はいわゆる鳥の仙獣だ。なにもおかしくはない」
驚くほどさばさばした少女の物言いは、彼らが覚えている魈の態度によく似ていて余計に混乱しそうだ。
「そういうわけで、申し訳ない。俺たちもこれを両親に届けたらすぐに戻るつもりでした」
青年が手にしていたのは絹の反物だ。おそらく産着にでもするのだろう、たぶん。
いろいろと情報処理が追いつかないが近くまでならせめてと二人の帰宅に付き合わせてもらうことになった。
人影はほとんどなくなり、峻厳な岩山とその間を清涼な風が吹く絶雲の間が近づいてくる。立ち込める霧が凡人の往来をそれとなく拒絶しているようでいつ足を踏み入れても身が引き締まる思いがする。
そんな中で道すがらに聞き出せたのは…旅人たちが新たな世界に旅立ってしばらくした頃、魈は鍾離の深い愛情に応えその胎に卵を抱えたということ。
そこからまず不思議で仕方がなかったのだが、体のありようも変えられる仙人であるのに何の問題が とまっすぐな視線で魈の顔立ちをした少女に見つめられては首肯するしかなかった。
「それじゃ次に生まれるのが三人目ってことかー」
「いいえ」
青年の声にぴたりと四人の足が止まる。
「次生まれる子は双子だと言っていました」
「じゃあ四人目も同時…」
「二十四番目と二十五番目です」
ひゅっと旅人かパイモンか分からない息を呑む声が響き渡る。
「なんだそれーーーー いくら何でもきょうだい多すぎじゃないか というかお前たち何番目なんだよ」
「俺は四番目の生まれの三男で、こちらの妹は上から十二番目の生まれで六女になります」
つらつらとほかのきょうだいたちの順番を述べ始めた青年には悪いが耳から耳に通り抜けていった。
鍾離先生、元気だな…とさすがに年端も(たぶん)いかない少女の前でいう科白ではないなと飲み込む。
「父上の希望では五十人ほど欲しいそうなので、まだまだ増えるでしょうね」
「いや、その、魈の身体が心配になるな。業障とか、大丈夫なのかよ…」
パイモンのいうことももっともだ。
妖魔を祓い続けた代償、命を奪うがゆえに纏わりつく怨嗟は夜叉の運命に悲劇をもたらしてきた。
もしかして魈が生きていたという証が欲しくてそうしているのかなとかぼんやりとした理由が浮かぶ。それは同時に鍾離自身も逃れられない摩耗に抗っているのかもしれないと。
「…それが不思議なことなのですが…」
青年はよっと小さな声を上げて反物を抱えなおすと、
「命を奪うことで蓄積されていく業障が、命を育むことで軽減されているそうなのです」
再び歩き出した青年の後を追いかける形で歩き出す。
「俺が生まれた頃は時々母の姿が消えることがありました。俺たちに業障で苦しむ姿を見せたくないという母なりの配慮だったようです。しかしこちらの妹が生まれる頃には次第にその回数も減っていき、父の作る薬だけでだいぶ落ち着くようになって…父がその因果関係を解明したときの嬉しそうな顔は忘れられません」
破顔する青年の顔に、おそらくこれ以上の喜色満面、いや、喜色爆発といった様相だったであろうことは想像に難くない。とかく魈のこととなると旅人もしばしば苦言を呈するほどに過保護だったのだから。
「それでも、五十人って…」
幸せで穏やかに違いない現在の鍾離たちの関係性には嬉しさもあるが、呆れるなと言われれば無理がある。パイモンの物言いにはそれが隠さずに滲み出ている。
何もない岩山の前で少女が足を止めた。
「二人はテイワット中を旅していたと聞いている。ならばフォンテーヌにあるルキナの泉を知っているだろう。数十年前きょうだいたち数人と両親でちょっとした旅行をしたことがある。その時父上がお前との思い出話をしてくれたぞ。なんでもそこでそう願掛けしたそうだ」
確かにまだフォンテーヌが水神騒動に揺れていた頃に同行を依頼したことがある。魈は璃月を離れることを忌避したが鍾離が一緒に行くからと付き合ってもらったことがある。
泉が子宝祈願の謂れがあると聞いた鍾離は楽しそうに魈を連れ立って泉に向かっていたが、まさか元岩神がそんなことをしていたとは。フォンテーヌがあれほど揺れ動いていたというのに他国のことには不干渉という七神の暗黙の了解があるとはいえ、ちゃっかりと凡人生活を楽しんでいたようだ。
あまりのことに乾いた笑いしか出ない。脱力してる旅人の前で少女は手をかざすと目の前に空間の歪みが生まれた。この感じは覚えがある…洞天の歪みだ。
「先ほど兄上が申した通り、母上の具合がよくない。あと数日もすれば落ち着くだろうからそれまで璃月港なりどこなりとで過ごすといい。甘雨大姐に頼めば宿ぐらい手配してもらえるだろう」
言うことは言ったとばかりにさっと門をくぐる。清々しいほど無駄なことを嫌っている行動は魈と瓜二つで、疑いようもなく親子であると知らされた気がした。
「かんう、だーじぇ…」
不思議そうにおうむ返しするパイモンを見て青年は笑みを零した。その余裕のある雰囲気は間違いなく鍾離のそれだ。
「俺と妹は七星の仕事を手伝っています。甘雨大姐には両親も世話になってますから恩返しに近いですけどね」
それではと短く会釈して青年の姿も空間の歪みに消える。
絶雲の間の麓に取り残された二人はそのままふらーっと後ろに倒れる。
「パイモン、生きてる」
「いろいろとありすぎて、生きてる実感がないぞ」
「それは大変だ。六時間もらえるならお前たちが大好きな腌篤鮮を作ってやれるのだが、食べていくか」
ざりっと落ち葉を踏みしめる音がして、二人を璃月を囲む岩のように泰然悠々とした雰囲気を持つ美丈夫が見下ろしてきた。
その腕には二人が知っている仙人二人をないまぜにしたような、龍の角に鳳凰の翼を付けた幼い子どもが一人抱えられている。ゆるりとした服装に身を包んだ青年の脇を涼やかな璃月の風が通り過ぎ、裾を一幅の絵画のように優雅に揺らし…仰臥しているヒトが出していい大きさではない絶叫が響き渡った。