ピアポイントに戻って来て一番にレイシオが行なったことといえば、あの技術開発部部長、ミス・アポリに直談判をすることであった。
「率直に言おう。戦略投資部との案件に介入したいのなら、僕以外に頼んでくれ」
眉間に皺を寄せそう言い放った彼を、アポリは一笑に付す。
「あなたがカンパニーとあまり関わりたくないことは知っているけど……理由を聞いても? Dr.レイシオ」
律儀に手渡された報告書をゆっくりと捲りながら、彼女は静かに続きを促す。尤も、彼の言わんとするところは、大体を把握していたけれど。
「あの忌々しいギャンブラーのことだ」
「ああ、今の『アベンチュリン』……彼はどう? まあ、こうして無事に任務を終えているところを見るに、相性は悪くないんでしょう」
「……君の優秀さは疑う余地もないが、たまに何が見えているのか心底わからなくなるな」
「あなたをカンパニーに招待したこの目が節穴だって言いたいの? ふふ、まあそれでもいいけれど」
「とにかく、彼との任務からは外してくれ」
苦虫を噛み潰したような顔をするレイシオの表情に、嫌悪の色はない。てっきりいつもの「愚鈍」を理由に拒否しているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ふ、と口の端で笑うと、アポリは淡々と問う。デスクに置かれた報告書に、彼女の視線は落ちたままだった。
「『アベンチュリン』は、あなたにどう映った?」
「先程も同じ質問をされたと記憶しているが」
「いいえ、同じじゃない。答えて、レイシオ教授」
何かを言いかけて口を開いたレイシオを、彼女はやんわりと制した。黙って数十秒、目を伏せた彼は、「まだ、わからない」とだけ、短く答えた。
「『真理の医者』にもわからないことがあるの?」
「この星海の全てがわかっていたなら、僕は今ここにいないと思うが」
「少なくとも、あなたにとっての『バカ、アホ、マヌケ』ではなかった、そういうことでしょう」
「……それは」
それきり、彼は再び思考の海に戻ってしまう。実に面白い回答だ。アポリは内心嘆息し、そうして満足のうちに席を立つ。デスクの上には、彼が提出した報告書の代わりに、数枚の計画書が残されていた。
◇
「ここ、あいてるかい?」
「……会計を」
「つれないなあ、一仕事終えた仲だろ、マイフレンド」
溜息を吐きつつも、レイシオは視線だけで彼に座れと促した。
「僕は、君の友人ではない」
じっと、自身に言い聞かせるようにして、彼は目の前の男にそう言い遣った。
「……そんなに邪険にしなくても」
アベンチュリンはそう言いながら、慣れた所作で注文を終える。彼が来る前に頼んだコーヒーはとっくに冷めてしまっていて、レイシオは微かな不快感と共にそれを飲み下すのだった。
「ピアポイントに来たのは何回目?」
不意に、アベンチュリンはそう口にする。当たり障りのない世間話だ。余計にこの男がわからなくなって、数秒、確かに押し黙ってしまう。
「今日で、三回目だ」
「へえ、じゃああれが二回目」
底が、見えないと思った。巧妙に張り巡らされた薄い被膜で、決定的な一打を避けている。かといって、こちらを見透かすでもなく、ただ表面を軽く撫でていくだけ。どこまでも踏み込めそうなのに、どこまでも踏み込ませてはくれない。距離を見誤り続けているようで、それがどうにも居心地が悪い。居心地が悪いまま目を逸らし、逸らしたままで口を開いた。
水面に石を投げ込むだけの傲慢さは、未だ持ち合わせていなかった。
「君は、ああいう店を好むのだと思っていた」
「ああいう店?」
彼の方をちらと一瞥して、レイシオは窓の外を指し示す。魚眼気泡を模ったその奇妙なガラス張りの建物は、その表面に亜空障壁の仄かな輝きを反射して、この星の夜を鈍く照らしている。
「ああ、キリロフィッシュレストランのことか、なるほどね……君は? もうあそこには行った?」
「いや。魚眼を摂取し、超音波による脳筋膜マッサージを受けることで『社会性の夢』を見る、などという行為には興味がない。学術的な興味はまた別だが」
「あはは、教授は教授だね」
知らぬ間に置かれていたグラスに口を付けて、彼は考え込むようにして目を伏せる。サングラス越しに見えるその特徴的な瞳に、ピアポイントの夜景が溶け込んでゆくのを、気づけばじっと見つめていた。やがて、言葉を選ぶようにして、アベンチュリンは慎重に呟いた。
「教授、君は夢を見るのは好きかい?」
「夢に好きも嫌いもないだろう」
「じゃあ、質問を変えようか。君は、夢の中で暮らしたいと思う?」
問いの意を推し量ったところで、それには何の意味もないことはわかっていた。そっと息を吸う。一瞬、何故か自分が綱渡りをしているかのように思えて、鈍い頭痛がする。
「愚問だ。もし夢の中で全てが叶ったとしても、それは結局虚像に過ぎない。人間は夢から覚めて、現実を生きていかなければならない。夢の中に、人の未来は存在しないからな」
「虚像、か……そうだね、その通りだ。そこに僕の見たいものがあったとして、それら全てが叶うとして、所詮は泡沫なんだ」
つまりはそういうことなんだよ、とその男は笑う。サングラスを外し、手慰みにコインを転がしながら、アベンチュリンは答えた。
「あの束の間の夢の中に、僕の望むものはないんだ」
「それが、君の答えか」
──では、君の望みは?
彼の首肯に、また問いで返そうとして、口を閉ざす。
『アベンチュリンは、あなたにどう映った?』
数システム時間前の、彼女の言葉がフラッシュバックする。わからない。今もわからずにいて、自分がしようとしている質問の距離すらも測れない。踏み込み過ぎてはいけないと「医者」の自分は知っている。けれど、どこからが踏み込み過ぎなのだろうか。どこまでが、自分で引いた線を踏み越えぬ領域なのだろうか。この男の前で、自分はどう在るべきなのか、レイシオは未だに決めかねたままでいる。
その気配に気づいてか、それとも何も知らずか。アベンチュリンは笑顔のままに続けた。
「僕の望みは、きっと君もいつか知ることになる。僕と仕事を続ける以上はね」
「僕はそれを認めていないがな」
「僕たちがどう思おうと、お偉方の決めたことには逆らえない。そうだろ?」
「……」
彼はそう言って、一枚のカードをこちらに差し出した。
「次の任務だよ、レイシオ。もちろん、君は断れない」
レイシオは小さく息を吐き出す。どちらにせよ、断る理由も、その余地も、彼には残されていなかった。