ディーノ君と父への贈り物 息子のディーノの就寝時間も迫った頃。お願いがあると言って、ディーノが魔法使いの少年ポップとパプニカ王女レオナに左右を固められて目前に立ったのを、バランは片眉を軽く吊り上げて見やった。やたらと改まった三人の言動に、バランは内心嫌な予感を覚える。
「父さん、明日の朝からポップとレオナと一緒に……花を摘みに行きたいんだ」
「許可をいただけませんか、バラン殿」
「ここから徒歩で十五分ほどのところにある開けた草原地帯にが目的地だ」
すらすらと、まるで打合せたかのように言葉を継いで請願され、バランはそれぞれの顔を発言順に視界に留めた。明後日には大魔王の根城に攻め込むというのに、何を悠長なことを言い出すのか。
ましてやディーノは本調子には程遠い体調だ。数日前に毒刃を受けて以来、ずっと微熱が続いている。起き上がる程度ならともかく、動き回るのはもちろんのこと、長時間の会話すら体力的に厳しい状態だった。
「馬鹿を言うな。おとなしく部屋で安静にしているんだ、ディーノ」
「お願いだよ、父さん。もう明日しか日がないんだ」
「熱が下がり切るまで部屋を……いや、寝台を出るのも許さん。そもそも、花など摘んで何をするつもりだ」
「………花冠を、作りたくて」
「話にならんな」
「父さん!」
詰め寄って来たディーノをバランは軽い動作で肩へと担ぎ上げた。それからディーノの左右にいたポップとレオナに目配せをする。
聡いふたりはバランの意を汲んで頷くと、軽く一礼して踵を返し、無言で部屋を出て行くために扉へと向かった。
「あっ…待って、ポップ、レオナ」
ふたりの後を追おうと身を捩ったディーノは、けれどバランの拘束を振り解くことは叶わないまま、寝台の上へと半ば投げ出された。寝台の端に腰を下ろして上半身を捻り乗り上げる形になったバランに、身を起こす間もなく左右の手首を掴まれて寝台へと縫い止められる。
「ディーノ」
怒気を孕んだ父の声を浴びてディーノは息を呑んだ。扉が静かに閉まる音が耳に届く。ポップとレオナが去った気配を察したディーノは、自由の効かない小さな身体を震わせた。
「何を、どう言えば、おまえに伝わるのだ?」
ぎりり、とディーノの手首を掴むバランの手に力がこもる。怒気とともに、空気を圧する闘気がディーノへと降り注いだ。殺気は皆無だというのに、ディーノの想像を絶する威圧感だった。手首にじわじわと広がる痛みと、向けられた圧に堪えようと、ディーノは歯を食いしばり、僅かに顔を歪ませて眉根を寄せた。
ポップは言っていた。父は鬼神の如く強いのだと。確かにこの闘気と威圧感に殺気が合わされば、いかなる敵でも怯むのではないか。ポップの言葉に誇張はなかったのだ。
「……ディーノ、言ったはずだ。私はおまえをここへ連れて来たことを後悔している、と」
不意にディーノを圧していた怒気と闘気が霧散した。両の手首を掴む父の力が緩む。
陽に焼けぬディーノの首筋をバランの指先が辿った。治癒魔法のおかげで今は跡形もないが、数日前まで赤い筋の走っていた場所だ。
毒の塗られた刃が肌を裂いた場所を、何度も何度も父は撫でる。悔恨とやるせなさと、恐れの感情をその顔に滲ませて。
「おまえを失うかもしれない未来に、私がどれほど怯えているか。ディーノ、おまえにわかるか?」
いや、わからないだろう。バランは独りごちる。
わかっているならば、熱の下がり切らぬ身体を押して花冠を作りたい、などと口にするわけがないではないか。息子の体調に心を砕き一喜一憂する父親を前にして。
「父さん……」
ディーノは自由になった腕をそっと父へと伸ばした。見上げた父のその強張った頬を手を添えて、冷えた肌に温もりを届ける。
「ぼく、わかるよ。なんとなく……」
ぽつりとディーノがこぼす。
「ぼく気づいちゃったんだ。父さんは強い。大魔王になんか負けない。でも…もしも、……もしものことがあったら、ぼくは独りぼっちで、この地上と…運命を共にするんだ」
大魔王バーンの目的は地上の制覇ではない。消滅させることだ。その時を迎えることになるのであれば、ディーノの隣に父の姿はないのだ。
父を置いて逝くことになるだろうと、ディーノはずっと考えていた。だからこうして父に置いて逝かれる未来の可能性を示唆されて、ディーノは初めて心の底から震え上がった。
寂しい、悲しい、辛い。身を引き裂かれんばかりの恐怖と孤独を感じた。こんな恐怖を、きっと父はずっと抱えていた。そう気づいた時、ディーノはただただ父と離れたくない、いつまでも側にいたい、ずっと側にいて欲しいと、思うようになった。
「ポップはぼくに教えてくれたんだ。ぼくが信じるべきは父さんの強さじゃない。ぼくのところへ必ず帰ってくると誓ってくれた父さんの心なんだって」
「ディーノ……」
「でもぼくは弱いから。父さんのこと信じ抜くべきなのに、もしもを考えてしまうんだ」
ディーノは両肘を寝台に着いてゆっくりと身体を起こした。全身に浴びたバランの怒気と闘気のせいで著しく体力を消耗しているのがわかった。くらりと揺れて倒れ込みかけたディーノの身体を、バランの力強い腕が支える。
「だから花冠を作りたい。父さんが無事にぼくのところへ帰ってきてくれるように祈りを織り込むんだ。父さんへの贈り物であると同時に、……ぼくの心を支えるためのものだよ」
自分勝手なことを言ってごめんなさい。息のように小さなディーノの謝罪の言葉が、父子だけの静かな部屋にぽつんと浮かびあがった。
「すまない、ディーノ。おまえに当たって……無駄に疲れさせてしまった」
バランの視界に入ったディーノの手首は、赤黒くなった跡が浮かび上がっている。よほど我を忘れて、強く掴んでしまっていたのだろう。そっと目を伏せてバランは己の暴走の跡から視線を外した。代わりに指先で色の変わった柔肌を何度も撫でる。
「……痛かっただろう?」
ディーノは今気づいたとばかりに自分の手首を見て目を丸くした。
「今はどっちかと言うと、くすぐったいや」
くすりと小さくディーノは笑った。
不器用な動きでゆっくりと手首を撫でてくれる父の太い指先が気持ちよかった。もっと、ずっと、撫でていて欲しくなる。
「父さんは本当に強いんだね。戦場であんな怒気や闘気を浴びせられたら……ぼくならもうまともに立ってもいられないよ」
父に与えられる慰撫の気持ちよさと、体力の消耗と。重なったふたつの要因はディーノの意識を散らして混濁させていく。
腕の中の小柄な身体が次第に重くなっていくことに気づき、バランは罪の意識に苛まれながら息を吐いた。
「おやすみなさい、父さん。ねぇ明日……」
言い終えぬうちにぽとんとディーノの目蓋が落ちた。体力的に限界だったのだろう。部屋の灯りに照らされて伸びるディーノの睫毛の影が、ちらりちらりと揺れている。
バランはそっとディーノを寝台へと寝かせた。額に手を置いてみれば、朝と変わらぬ僅かな熱を感じる。もう何日もこの状態だ。明日の朝の好転は望めそうにない。息苦しさを感じさせることのない、穏やかな呼吸音だけがバランにとっての救いだった。
同じ歳の子どもと比べても発育不良で小柄なディーノの身体に、温かな毛布をかけて隙間なく包む。そうしてバランはそっと音を立てぬよう気遣いながら部屋を出た。
部屋を出て曲がり角まで廊下を進んだところで、バランはアバンがひとり佇んでいるのき気づいた。剣を腰に佩き、目を閉じて腕を組んでいる。
「………おられたのか、アバン殿」
「ものすごぉい闘気でしたからね。殺気は感じられませんでしたので、大事はないと思いましたが……念のため」
バランが声をかけると、これまでの静けさを纏ったアバンの気配が一変した。にこやかに微笑み、組んでいた腕を解いて、体操をするように肩を回しだす。
食えない男だな。バランは内心での警戒は表に出さずに、目元を和らげてみせた。おそらくこちらの内心などわかりきっているであろうアバンが、不意に笑顔を収めた。
「ディーノ君に外出をお願いされましたか?」
「……あなたの差し金だったかな?」
「いいえ。今朝、ポップとレオナ姫が私に相談に来たのですよ」
なるほど、と得心してバランは先ほど部屋で繰り広げられた光景を思い出す。がっちりとディーノの両脇を固めていたふたりだが、退くときは随分とあっさりしたものだった。どうやらこの男に入れ知恵されたらしい。バランは苦笑した。
「今のディーノ君の体調を鑑みれば負担にしかならないでしょう。ですが心の負担というものは、体の負担の何倍も重くのしかかるものなのです」
「それは、……わかっているつもりだ。あの子を閉じ込めて外の世界へ出したくないと考えてしまうのは、親である私のエゴなのだと」
「………ポップが護衛につきます。しかし彼だけでは手が回らない可能性もあります。姫もおりますしね」
大魔道士を自称するだけの力も頭脳も胆力も持ち合わせている少年だとバランも認めてはいる。しかし戦場に身を置いている限りは、だが。
ポップはほんの少し前まで、暢気に旅暮らしをしていた普通の少年なのだ。常に命のやりとりを行うような殺伐とした世界に生きてきた者ではない。日常では遅れをとることもあるだろう。
「なんでしたら私がこっそり後を追いましょう。常時周囲に気を配って……」
「……不要だ」
アバンの提言をバランは途中で遮った。
彼のことを全く信頼していないわけではないが、掌中の珠を無造作に託せるに足るほどのものではない。
ディーノが毒刃を受けたあの日以来、バランはずっと自身と息子の進退を決めかねていた。この砦に存在する人間の全てを信用することなど到底できないが、それでもここには間違いなくディーノに心を砕いてくれる者がいる。ディーノをひとり隠れ家に置いて戦いに赴くよりはずっと状況はいいはずだ。それゆえに、バランはここに留まっている。
「私が気配を断ってディーノたちの後を追う」
「………承知いたしました、バラン殿」
軽く一礼したあと、頭を上げたアバンの顔に浮かんでいたものは、ある程度の信を得られていることへの自負と、過保護な親馬鹿に対する苦笑が入り混じった、なかなかに複雑な笑顔だった。
翌日は風のない快晴だった。雲ひとつ見当たらない澄み渡る青い色をした空の下を、ディーノはレオナに手を引かれながらゆっくりと歩いていた。
半歩ほど後ろには、両手を後頭部で組んだポップが、ディーノの手首に残っている手の跡を気にして、ちらちらと視線を投げながら着いて来ている。昨夜自分とレオナが退室したあと、父子の間でどのような会話がなされたのか。ポップは特に聞かされてはいないが、不穏な跡はあれどディーノはきちんとバランから外出の許可を得ることができたのだ。ひとまずそれでよしとする。
説得が功を奏したのか、変わらぬ微熱を抱えたまま朝を迎えたことに落胆しつつ起き上がったディーノは、バランから外出の許可を告げられた。午前中に戻るよう口酸っぱく言い含められたうえでのことだが。
バランとともに朝食を摂り―――ディーノは結局のところマトリフ特製の薬湯を飲むだけで終わってしまったが―――少しばかり厳重に温かな上着を羽織らされて身支度が整った頃、ポップとレオナが部屋まで迎えに来てくれた。ふたりともディーノに外出許可が降りているのを既に知っている様子だった。
降り落ちる闘気に当てられて意識を落としたあと、父は周囲に対していったい何処まで話をつけたのだろうか。ディーノは目を丸くして、隣に立つバランを見上げた。
戸惑うディーノの背を、行けとばかりにバランの大きな手が押してくれた。ディーノは身を翻し反転すると一度父を抱きしめ、それからふたりのもとへと駆け寄った。
部屋の扉の前に佇んで見送るバランへと、ディーノは何度も何度も振り返っては手を振った。自分のわがままを受け入れてくれた父に感謝しながら。
「おっ、花畑に到着したみたいだな」
目の前が開けて、色とりどりの花の群生地へと辿り着いたようだった。近くには不届き者や危険な怪物が隠れられるような生い茂る茂みも大きな木々もない。ここからは豆粒ほどの大きさに見える岩が転がっているのは目に入ったが、何かを仕掛けてくるには距離がありすぎる。害意を持って接近してくる何かがあっても気づけるはずだ。視界良好、岩影に注意、とポップは小さくつぶやいた。
ディーノは歩き通して乱れた息を整えつつ、周囲を見渡しては目的の花を指差して確かめる。橙色と赤と黄色と白、それから紫。バランの戦装束に配された色だ。ディーノはこれらの花を組み込んで花冠を作るつもりだった。
「お父さんが驚くほど素敵な花冠を作りましょうね!」
「うん!」
「姫さん、花冠の作り方なんて知ってんのか?」
「…………これからディーノ君に教わる予定よ」
「なんだ。おれと同じで花冠初心者かよ」
「あら、何か問題でも?」
「いや、問題があるなんて誰も言ってないだろ………」
ポップは腰を引きつつ慌てて両手を振る。王族として、そして跡取りの王女として、完璧に教育され教養もマナーも魔法も身につけているレオナだが、さすがに花冠の作り方は教えられていないらしい。
「大丈夫。やってみればとっても簡単だよ。ぼくが教えるから、ふたりとも一緒に作ろうよ」
「ありがとう、ディーノ君。あたし、頑張るわ!」
「へいへい。よろしく頼むよ、ディーノ先生」
三人で顔を見合わせて吹き出すと、ポップとレオナはディーノに頼まれた色の花を摘みに動き出した。
ポップとレオナがディーノから離れていくのを視界に認めて、バランは三人から離れた場所に転がる小さな岩影に気配を殺して身を潜めながら、小さく息を吐いた。
やはりポップは護衛という任務には慣れていない。気を配ってくれているのは理解できるが、不意に見せる不用心さは仕方ないだろう。お互いまでたいした距離があるわけではないが、殺意を秘した者の飛び道具にすぐさま反応してディーノの側へ駆けつけるのは、後衛職の魔法使いの少年には荷が重いだろう。
隈なく周囲の気配を探り、特に問題ないことを確信して、バランは再びディーノへと視線を送る。
ディーノは無心に橙色の花を選んでいた。大きさや色など吟味しているのか、進捗は亀のごとくとばかりで、あまり進んでいるようには見えなかった。
やがてポップとレオナが摘んだ花を抱えて戻って来た。こちらも吟味していたのか、目を引くような本数ではなかった。
三人輪になって座り込み、ポップとレオナはディーノが花冠を作り始めるのを頬を綻ばせながら見守っている。そんな三人を見つめるバランもまた我知らず頬を緩めた。自分以外にも息子を慈しんでくれる存在は、父として得難くありがたいものだ。
器用な手つきで編んでいくディーノの手にした花々は、みるみるうちに花冠へと仕上がっていく。見た目の美しさといい、彩りの配置といい、なかなか様になっている。
花冠に使われている色々が己の戦装束を模したものだと気づいて、バランはむず痒い不思議な気分を味わうことになった。込み上げてくる膨大な歓喜と少しばかりのいたたまれなさが入り混じってしまって、思わず花冠から視線を外してしまう。
一方ポップとレオナの手は遅い。会話は聞き取れないが、おそらくディーノに作り方の説明を受けながら、半ば見よう見真似で、手にした花の茎を織り込んでいるようだった。
編み込みが甘かったり、茎や花が歪に飛び出していたり、初めて作るふたりの花冠はたいへん努力の跡が窺えるものだったが、ポップもレオナも満足そうにそれを掲げていた。
そんなふたりをディーノは花も綻ぶと言わんばかりの笑顔で見つめていた。今までずっとバランにのみ向けられていたものだ。父親とふたりきり。そんな閉ざされたディーノの世界が広がったことを、父としてバランは嬉しくも寂しくも感じた。
「父さん!」
不意に呼ばれて、バランはすっかり虚をつかれて瞠目した。確かに気配は完全に絶っていたはずだというのに、ディーノは距離などおかまいなく、真っ直ぐにバランへと顔を向けて微笑んでいる。
呼ばれて身を隠し続けるのもバツが悪い。バランは仕方なく潜んでいた岩影からディーノのもとへと歩み出した。
ポップとレオナが驚愕して息を呑み、事態を飲み込めないとばかりに顔を見合わせている。ふたりは潜んでいたバランの気配に気づいていなかったようだった。
「………よくわかったな、ディーノ。私があの岩影にいたことを」
「ぼく、父さんが近くにいると何となくわかるんだ。心をざわつかせる不安とか寂しさとか消えて無くなって、なんだか安心できる。父さんが近くにいるから安心していいんだよって、心の奥からぼく自身の声が聞こえるんだ」
「……………っ!」
ディーノの拙い言葉での説明に、バランはただただ絶句した。ディーノは父の存在を無意識に感じ取っているのだ。
それはおそらく、ディーノの身体の奥深くに存在する竜の紋章を通じて、感覚的に得ているものだろうとバランは推測した。父が息子が何処にいようと血の縁を辿ってその存在を追えるように、息子もまた父がいる場所を把握できるのだ。この能力は自分からディーノへの一方通行だとずっとバランは考えていた。しかきちんと双方向として繋がっていたのだ。
初めて得た知見にバランの心の奥が熱くなった。この世でただふたりきりの種族。その繋がりの深さはバランの想像を超えたものだった。
「父さん、こっち。ここに座ってよ」
ディーノに無邪気に懇願されて、バランは無言でそれに従った。美しく咲き乱れる花々の合間に片膝を着いて、ディーノの次の行動を待つ。
零れ落ちんばかりの笑顔だったディーノが、一転神妙な顔つきでもって手にしていた花冠を両手で大切に捧げ持った。花冠の縁に唇を落とし、バランの無事と帰還を祈る言葉を囁く。
「ぼく、父さんのこと待ってるから。だから父さんもぼくのところに帰って来てね」
「……ああ、約束しようディーノ。必ずおまえのもとに戻ると」
「絶対、……だよ?」
「絶対だ」
バランの力強い言葉を受けて、ディーノは両手で持っていた花冠をそっと目の前で静かに目を伏せる父の頭に乗せた。自分とよく似た髪質の癖毛は花冠を浮かせてしまう。しっかり被れるようにと位置を調節していると、バランの大きな手がディーノの手に添えられ重なった。温かな体温が直接肌から伝わって、ディーノはその愛おしさと幸福さに心が震えるのを感じた。
父子で探るように花冠の位置を整える。
「む……上手く被れたか?」
「うん! ちゃんとはまってるみたい」
ちょっとだけ小さかったかな?と呟いて眉根を寄せたディーノをバランはその腕に抱き上げた。すぐさまディーノの腕が首に回ってくる。ぐずる赤子のように首筋に顔を埋めてきたディーノが、小さくえへへと声をあげて笑った。
「戻るぞ、ディーノ。…………疲れただろう?」
「たくさん歩いたから……少し。でも父さんが来てくれたなら、このまま寝ちゃってもいいよね? いつもみたいに連れ帰ってくれるでしょ?」
珍しく人前で甘えてくるディーノの背を、リズムよくぽんぽんと叩きながらバランは頷く。
「ああ、もちろんだ。おやすみ、ディーノ」
腕の中の小さな頭がこくんと揺れた。倒れてきた頭部を肩で受け止めて、バランは花冠を頭に乗せたまま歩きだす。
「ん? ルーラで戻らないのか?」
立ち上がったポップは臀部についた土埃を手で払いながら尋ねた。ここへはポップも初めて来たので、往路は徒歩を選択したのだ。トベルーラで来ることも考えたが、今朝会ったディーノがバランの手によって衣服の雪だるまに変わっていたのを見て悟った。目的地に辿り着くまで冷たい風を切り続けることになるトベルーラはディーノの負担になるのだろうと。
ルーラであれば、この距離ならほぼ一瞬で砦前まで戻ることができる。ディーノもその程度であれば支障ないのではないか。そう思ってのことだったのだが。
バランはポップの問いかけに応えることなく、腕に抱いたディーノの背をゆっくりと撫で下ろしながら、帰路についた足を止めることはなかった。
「いいのよポップ君、徒歩で」
悟って微笑むレオナを見て、ポップもまたバランの行動に合点がいく。
「あぁ、……そういうこと」
この僅かなふれあいの時間もまた、この父子にとっては何よりも尊く、幸せを分かち合うための大切なものなのだろう、と。
重たげに何度もまつ毛を上下させていたディーノだが、やがて完全にその目蓋を落とした。薄く開いた唇から吐息を零しながら穏やかな呼吸を紡ぐ。どうやら完全に夢の国へ旅立ったようだった。
バランはディーノを抱え直すと、そっと旋毛に唇で触れた。癖毛だが柔らかなディーノの髪は、優しくバランの唇を撫でてくれる。腕の中の重みが愛しくてたまらなかった。
必ず帰る。
この子の、ディーノの元へ。
そのためならば、どんな手段を取ることも厭わない。そう――――たとえ、この身を、心を、魔獣に落とすことになろうとも。