(侑北)10年見守るつもりはなかった(一)それは卒業式から始まった
「好きです。付き合うてください!」
3月も後半になってようやく春の色になった薄水色の空には雲もなく、早咲きの桜がひらひらと風に舞う。
卒業証書を手にし未来へと一歩踏み出す男にへ、チームメイトというつながりを失くそうともおのれの存在を消されまいとするコトバが青い空のしたぽとりと落ちた。
真っ赤に染まった頬と、差し出した震える手。
薄桃色のひとひらが金色の髪にひらりと落ちる。
そう花びらが舞い落ちた髪が黒いさらさらとしたもので、大きく見開れた瞳も口も大振りで、まあイケメンと呼ばれるものなんだけど、そんな雄雄しい姿形の侑じゃなくてふわふわとした女の子だったら「卒業式だねえ」なんてこの俺でも涙のひとつも浮かべたかもしれない。
でもこの愁傷な言葉を口にしたのは宮侑なのだ。まごうことなく。
そしてその相手は我らが元主将、北さんなのだから感動というよりはむしろ。
「うわ、ほんまに言いよった」
卒業式になってようやく北さんとあたりまえのように毎日会うことがないのだと、送り出すこのタイミングで気づいちゃったんだろうねえ。
もしかしたら自分が抱いていた感情が「恋」と呼ばれるものだと、今気づいたのかもしれない。侑ならありえるね。
でもほんとなんというかさあ。
「侑にもバレー以外のものを好きになる感情があったんだね」
「せやけどよりにもよってやで」
そうよりにもよって侑がおそらく初めての「好き」という感情を向けた相手はわが稲荷崎高校バレー部の主将、いや元主将である北さんだった。
清く、正しく、美しくならぬ、毎日、ちゃんと、やんねんとばかりに生きる姿、そして小さな唇から繰り出される正論と、くるりとした大きな瞳から向けられる圧。
双子は誰よりも怒られ、誰より目を向けられ、誰よりも彼を恐れていたように見えた。
片割れの治はその感情を畏怖から敬愛に近いものへと変え、そして侑のほうはそれを恋情へと変えたようだった。
「でもまあ、うまくいくでしょ」
まっすぐに北さんを見つめる侑と色が違う薔薇色の瞳が大きく見開かれる。
お前本気か?と書いてあるのが見えるよ。わっかりやす。
「は?相手は北さんやで」
片割れの感情には気づいていたくせに、北さんの気持ちはわからないんだ。
へーそうなんだ。
北さんの後ろで豆鉄砲を喰らったみたいな顔をしてる尾白さん、今日も表情崩すことなく穏やかな空気を纏いつつ、わずかにほんのわずかに眉をひそめている大耳さん(それも格好いい)、そして面白いおもちゃを見つけたような顔をしている赤城さん(銀島が羽交い絞めしている)
三年の先輩たちからも声には出さないけれど「いや無理やろ」って空気が漂う。
北さんが侑のことを可愛がっていることは確かだけれど、でもそれと「恋人」になるというのは話がちゃうやろって顔。
気づいてないのかな。
北さんは侑のことがずっと好きだった。
侑が北さんにそういう気持ちを持つよりもずっとずっと前から。
一筋縄ではいかないかもしれないけれど、でも無下にはしないんじゃないのかな。
だって好きな相手、かなうはずがないと思っていた相手から好きだと言われたんだよ。
ユニフォームを手にしたときのあの日の姿を思い出すに、もしかしたら涙のひとつもこぼすかもしれない。
「侑」
フォトモードから動画モードにそっと切り替えようとしたところで北さんが口を開いた。
「はいっ!」
「ありがとうな」
部活中はあまり見せることがなかった柔らかい笑みが北さんの顔に浮かぶ。
ああこんな風にも笑えるんだ。
「北さん……」
「嬉しいわ」
周囲の空気がまじかとばかりにざわりと揺れる。
「ほんまですか」
「おん」
北さん!と侑が伸ばした長い腕にすっぽりと北さんは収まらなかった。
「けどな、付き合うことはでけへん」
そういう気持ちはないねん。すまんけど。
続く言葉に侑の腕がだらりとたれ、俺ははあ?と声を漏らしていた。
ずっと俺が近うにおったから勘違いしとるんやと思うけど、おらんようになったらちゃんとわかるわ、せやから。
そんな言葉に何か言いたげに口をはくりと動かしたあと、侑はすうと息を吸った。
「あ、やば」
ごねよると呟き踏み出した治の足はそこで止まった。
「わかりました。でも勘違いやないことだけはわかってください。最後の日にややこしいこと言うてすんませんでした!卒業おめでとうございます!」
見本みたいなお辞儀をした侑のふわりとした髪をゆっくりと撫でると北さんは
「ありがとうな。ほんまに嬉しかったわ」
ほんとうに幸せそうな笑みをこぼした。
その顔が今も忘れられない。
あんな泣きそうな空気をまとった笑みは見たことがなかった。
たかが十八の子どもが自分の恋情を押し殺してみせるのか。
美しくなんてない。胸がつまるような歪んだ笑顔。
いつか笑い話になるころに、あの日何を思っていたのか聞きたいと思った。
もう十年も前の春の日のことだ。
それから十年もこのふたりを見守ることになるなんて、想像もしていなかった。
(二)三年目の爆弾
プロの世界は甘いものじゃない。
頭ではわかっていても、身体で思い知らされるのはキツいんだろうな。
侑は高校卒業とともにV.LEAGUEのDivision1チームMSBYブラックジャッカルに入団した。
卒業前から練習には参加していたし、チームも「そう悪ないで」と本人が言っていたから環境も悪くないようだ。
入団から一年。
治と唐揚げを取ったやろ、その出汁巻は俺が頼んでんけどと子どもみたいな喧嘩をしている侑ですら、その目のしたに疲れをにじませている。
あの宮侑がだ。
「ぜってぇプロとか無理じゃん」
こっちは大学の練習ですらついていくのに必死なんですけど。
「相変わらずやなあ。あいつら」
「あれやったら今期はレギュラーちゃうん?」
「そうでもないらしいで」
「ああなんか書かれとったな」
「最強の双子もひとりやと…なあ」
耳に入る言葉にチッと小さく舌打ちが出る。
聞えよがしなのか、聞かれたいのかわからない微妙な大きさでしゃべんなよ。
「お前は存外に双子のこと好きやな」
「わっ」
気配もなく背後から声を掛けられ変な声を漏らす俺を気にする様子もなく、そのまま空いたままだった空席にすとんとその人は腰を下ろした。
「……北さん」
「角名ひさしぶりやな。元気にしとったか」
「ええ、まあ」
ついひと月ほどまえに成人と呼ばれる年齢になった北さんはあたりまえのように通りすがりの店員にビールを注文する。この人も酒とか飲むんだな。
「お前の卒業式以来か」
卒業式という言葉にその日のことが脳裏に浮かぶ。
ずいぶん前のように思えるけどまだ一年と数か月前のこと。
高校最後の年は主将になった侑のもと最後の春高はベスト4という結果に終わった。
北さんと監督が侑を主将に指名したときは、ひそかに「贔屓や」だとか「所詮宮ンズのチームやし」といった声が漏れたものだけど、思いのほかきちんと周囲を見ている侑は主将に向いていたのかもしれない。
ただし見ているだけでうまく言語化ができないから北さんがいなければ、何かと問題はあったと思うけれど。
相談があるんですがと言っては北さんと連絡を取り合い、いつのまにかするりと懐にもぐりこんだようで以前よりもずっとなんというか二人で並び立つ姿はしっくりときていた。
「うまくいくかもしれないねえ」
春高を前にスタメンを監督と北さんに相談している侑の背を見ながら、するりと漏れた言葉に治は「そんな簡単なもんとちゃうやろ」と呆れた顔をした。
お前何を見てんのって思ったけど、そんなことで言い争うのもばかみたいだから「あっそ」とだけ答えると体育館の外に出た。
ちゃんと自分の「好き」という感情と正面から向き合ってる侑のほうがずっと大人じゃん。
「あーあ」
もう潮時かなあ。
その日俺は関東の大学に行くことを決め、たぶん同じころに侑はいくつか声を掛けてもらっていたチームの中から在阪のMSBYブラックジャッカルに行くことを決めた。
バレーが最優先の男がチームの場所を優先するとは思えないけれど、同じ条件で選んだときに北さんが住む場所から離れないことが優先されたと思わずにはいられなかった。
関西からできるだけ離れることを念頭に大学を選んだ俺とは反対に。
進学先は誰にも告げなかった。
聞かれても「まだ迷ってるんだよね」といくつか関西周辺の大学名をあげておいたから、卒業式の日まで誰も俺が関東に行くことには気づかなかった。
卒業式の日。
「じゃあね」
送り出してくれた後輩たち、そしてもう二度と会わないだろう治にも「またいつでも会えるでしょ」と逃げるように学校から去ったけれど、寮の鍵を返し忘れたことを思いだして誰にも会わないようにこそりと舞い戻った。
鍵を渡してそのまま帰ってもよかったのに、部室に足を向けたのはきっと未練だろう。
治がいるはずもないのに。
だから部室の扉が開きっぱなしになっているのが気になって、近づくとぼそぼそと声が聞こえる。
「ちゃんとできてましたか」
「侑?」
「俺、ちゃんと主将できてましたか」
「春高ベスト4が納得いってへんのか」
「そうとちゃいます。いやもちろん優勝するつもりやったからあれやけど」
「せやな。でもやれるだけのことはやったんやろ」
「はい」
「春先はどこか落ち着かん感じのチームに見えたけど、夏を超えたらひとつになっとった」
あいつに主将とか無理だろうって空気は夏合宿を終えるころには完全に消えていた。
もちろんそれは北さんを始めとする先輩のフォローもあったけれど、それだけじゃないことはみんなわかっている。
「それはお前がちゃんとやったからやろ」
「北さん……」
見えなくても侑がどんな顔してるのかがわかる声。
「ほな俺のこと恋人にしてくれますか」
はあって声が漏れなかったことを褒めてほしいんだけど。
つかさ。ここまでいい話だったじゃん。
なんでそこでそういうことになるんだよ。
まあさあ主将として元主将にアドバイスもらうだけやん!って言い訳して毎日のようにLINEしてたからね。みんなわかってるけどさ。
もうちょっとさあ。
「いや、あのもちろんそのために頑張ってたわけやないです!それはわかってください」
「侑、それはちゃんとわかっとう」
「はい」
「でもそれとこれとは話が別や。それにお前はこれからプロのバレーボーラーになるんや。恋人とか浮かれとる場合ちゃうやろ」
それも男の恋人とかあかんやろ。
その言葉にバンとロッカーを叩く音が重なる。
「やからです。プロになっていっぱいのセッターを気持ちよく打たせるんは俺の夢やけど、その隣に好きな人におってほしいっていうのはあかんおですか。浮かれてるんですか」
北さんがおってくれたらもっと……
その言葉に北さんがどう答えたのかは俺は知らない。
「侑、ちょっと歩こか」
その声にヤバっと音を立てないようにして部室の前から逃げ出したから。
きっとうまくいくと思ったし。
でもそのわりには侑がいまひとつ調子に乗れてない気がするんだけど。
「ほんでお前はなんで逃げたん?」
金色の液体をぐびりと口に含むと、北さんは剛速球の直球を投げ込んできた。
「じゃあ北さんは侑とうまくやってるんですか?」
は?とかえ?とかかえってきたら「聞いてたんですけど」って言ってやるつもりだった。
「うまくやれてるかはわからんけど、付き合うとるよ」
「ふぁ?」
「三年だけって約束やからあと一年とちょっとやな」
今なんて言った?このひと?
「三年あったらレギュラーんなれる言いよったから、それまでの間だけやねん」
遠くで治が何か言いたげな目をしているけど、今はそれどこじゃないんだよ。
期間限定の恋人?この北信介が?
侑が北さんを好きだと気づいたあの高校二年の夏から三年。
とてつもない爆弾が投下された。