背中の跡カツンカツンと背後から誰かの気配がして、キラが振り返った。
「またこちらに居らしてたんですか?キラ様」
「うん……本当に、楽しみで堪らなくて」
その部屋には水槽が何個も並んでおり、一つの水槽に頬を寄せながら夢見るようにキラが言う。
見た目は茶色の髪と紫の瞳をした青年だが、背中には大天使の証である4枚の翼を持っている。
「貴方の初めての部下になるのですから…可愛いのも判りますが。あまり度を越して、愛してはなりませんぞ?」
「判ってるよ。天使には【恋】がご法度な事くらい……でも本当に可愛いんだ」
キラがうっとりと手で触れるその水槽に、黒い髪をした少年が身体を丸めて浮かんでいた。瞳を閉じているのでその色は判らないが、キラにとってはとても愛くるしく可愛らしく見える。
小さな羽根を生やした彼はまごうことなき自分と同じ天使で、これから自分と共に【悪魔】を討伐するのだろう。
「………早く起きてね?」
ずっと一人は寂しかった。キラは孤独に戦って来た。
だがやっと自分と同じかそれ以上になり得る存在が創造主に寄って作られる事になり、歓喜した。
だが、同時に罪悪感も抱いた。
自分は【悪魔】を殺す事を厭がっている。それを彼にさせる事になるのだろうか?
【悪魔】は元からそうとして生まれた者もいるが稀に【堕天使】として天から堕とされた天使も居た。
キラには判らない。【悪魔】も【天使】も同じように生きている物なのではないか?と。何の違いがあるのかと?
自我のある【悪魔】と対峙する度に、その手を青い血で染めながら、何度も何度も問うて来た疑念だった。
(これからは、彼が居る……僕一人だけじゃない。きっと大丈夫。こんな迷いはすぐに消えるよね……)
水槽を撫でながら、キラは黒い髪の天使に優しく微笑んだ。
水槽から、初めて見えた景色に、綺麗な儚い印象の青年が映った。4枚の真っ白い翼が印象的で紫色の瞳を細めていた。
水の中から出されて、彼の前にゆっくりと歩を進めた。転びかけた自分の手を取ってくれたのはその青年だった。
「初めまして、僕はキラ。君の名前を教えてくれるかな?」
優しい声で、ゆっくりと話しかける彼に、喉からやっと声が出た。
「……シン」
「そう、シン。これからよろしくね」
差し出されたその手に手を置いたら、彼はもう片方の手で包み込んでふわりと微笑んだ。
「キラさんーーーーー!!!!俺こないだ同期の天使たちを全員抜かしてアカデミー終了して来ました!!」
「……そう、おめでとう、シン」
彼の庭園である花畑で、お菓子と紅茶を飲んでいるキラに、シンは嬉しそうに声をかけた。
本当は自分の上司である彼の事は「隊長」と呼ばないといけないのだが、キラが「二人の時は「キラ」でいいよ」と言うのですっかり甘えている。
「これで貴方と一緒に討伐に行けますね!!!俺、貴方を守りますから!!」
「シンはシンを守って欲しいな…僕も君を守るから」
褒めて褒めてと頭を突き出して来るシンに、キラがよしよしと撫でてやる。
キラの周りを四六時中纏わりついて離れないシンについて、良くない噂がある事にも気が付いていた。
それでも、キラはシンを手放せないでいた。シンが赤い瞳で自分を見て、きょとんと小首を傾げる。
(可愛いなぁ~…………)
ドクリと心臓が高鳴って、キラの顔に熱が集まる。もっとシンを見ていたい。もっとシンを独り占めしたい。シンを………。
自分にも判らない感情に、キラは戸惑っていた。
「風が吹いて来ましたね……」
「うん……」
「あの、その、キラさん……俺……」
吹き上げる風に花びらが舞い上がり、一瞬シンの声が途切れたと思った所で、いやな足音がした。
ガチャンガチャンと鎧が擦れる音。
咄嗟にキラはシンをその背に庇った。
「何事ですか?」
「……君に用はない。君の部下であるシン君について、審判が下った」
「?……何の話です?まだシンは幼くて、何の罪も犯す事なんて…」
その言葉に、キラは耳を疑った。呆然と立ち尽くしてしまった。
「アカデミーでシン君は君の事を…【好きだ】と言ったそうだよ」
胸が高揚した。だが、それと同時にキラは泣きそうになるのを堪える。
シンの方を振り返り「そんな事言ってないよね?」と問えば、彼はバツが悪そうに下を向いていた。
「もともと、シン君の君への心酔ぶりは天使には罰せられるべく【恋】なんじゃないかと噂されて来たが……彼本人の口からそう言ったのならもう訂正も出来まい。残念だよ……連れて行け!!」
「ちょっと待てよ!俺は…キラさん…隊長が悪く言われているのが気に食わなかったんだ!隊長はいくら【悪魔】を倒しても喜ばないって、心が壊れてるんじゃないかって言われたから!隊長は凄い優しくて尊敬出来る俺の好きな人だって……言っただけで…!!!」
ゴクリとキラの喉が鳴った。そして、この気持ちがなんなのかと言う事に、気が付いてしまった。
査問員たちに連れて行かれそうになっているシンが泣きそうな目でキラを振り返る。
花畑はあっという間に踏み荒らされていた。まるで、この心のようだとキラは思った。
「待って下さい……」
キラが、声をかけた。
「シンには罪がありません。シンは、ただ僕への尊敬の気持ちが強すぎただけです。僕はまだ、彼に【恋】がなんたるか天使にはいけない事なのだとは教えていませんでした。申し訳ありません……」
「キラ……さん……」
「ふむ……だが、彼の気持ちが本当に尊敬なだけかは判らないのではないかね?」
「僕が…責任を取ります」
「キラさん!!!そんなの!!俺が……俺の責任なのに……!!」
シンの悲鳴を、懇願を無視して、キラは続けた。
「部下の教育は僕の役目ですよね?それを疎かにしたのは僕の責任です。だから、シンの罪を僕に……」
紫色の瞳を閉じて、キラが望む。
「もう…僕は疲れた……彼なら僕よりも強い天使になれます……」
「離せ!!!離せよ!!!キラさん!!俺は………!」
「………君がそういうのなら」
ニタリと男が嗤ったのを、キラはもう見ない事にした。
自分のやり方が気に入らない一派が居る事は知っていた。
それでもいい、シンが今、守れるのなら。
───キラは、シンを愛していた。
天使の裁判は滞りなく進んだ。キラは地獄へと堕とされる事が決まった。
最期に、キラがシンに伝えた言葉は、ただ一言。
「僕を殺しに来て欲しい」
だった。
それから幾百年の時が経って、シンは地獄の地で、やっと、やっと、キラを見つけた。
その背にはキラと同じ大きな4枚の純白の羽根を生やして。
大剣をすらりと抜くと、シンは真っ向からそっと呼びかける。
「キラさん………待たせてしまってスミマセン……」
血に塗れて、何かを喰らっているキラに対して、シンは涙を堪えた。
見るに堪えなかった。
天界で下された判断は、キラの翼を全て断ち切り自我を失くした獣へと堕とす事だった。
「隊長……!!俺たちも戦います!!」
「そうです!私たちも……あんな強い【悪魔】は初めて見ます!!」
「いや、俺一人にやらせて欲しい……」
部下達が自分を守ろうと前に出ようとするがシンはそれを遮った。
そして、
「……二人きりにさせて欲しい」
と頼んだ。
記憶のないキラに、何を言おうとも何をしようとも、通じる訳がない。
判っている。判っていても尚。シンは、キラとの約束を果たさなければならなかった。
キラは強かった。今まで戦って来た悪魔は比にもならなかった。
指から鋭く伸びた爪に毒が漏れ出、傷つけられる度にふらつく身体。
止血をする間もなく鋭い攻撃が何度も何度もシンに襲い掛かる。
シンは防戦しながら、キラの隙を狙っていた。一瞬でいい。
獣になったこの人を救えるのは自分だけ。自分だけなのだと。
その時、花びらが舞い落ちて来て、キラの視界を塞いだ。
シンはその隙を逃すまいと、大剣をキラへと突き刺した。
目の前に優しいキラの微笑みが、手のひらの感触が、自分を呼ぶ時の声が、聴こえた…気がした。
シンは躊躇った。その間に花びらは過ぎ去っていき、「あ……!!」と言った時にはキラからの攻撃が自分の腹を裂いていた。
蹲るシンに、キラが迫る。
「御免なさいキラさん………!!!」
ザクリっとキラの爪が振りかぶられて、シンは目を閉じた。
何時になっても来ない、衝撃に、シンは目を開けた。
キラは………キラ自身の胸を抉っていた。
ひゅーひゅーと呼吸が漏れる。シンはキラの傍に近づいて行った。
大きな紅の瞳からは涙が零れ、溢れ落ちて行った。
「ねえキラさん……貴方は、俺の気持ちがただの尊敬だって言っていたけれど……俺は、貴方が好きです」
どうして愛さずにいられないと言うのだろう?
自分を心から待っていてくれた人、自分を庇ってくれた人、自分を守ってくれた人、そして、自分を愛してくれた人。
「これが【恋】だって、ちゃんと貴方は教えてくれたじゃないですか?」
虚ろになって行くキラの瞳、その血に塗れた唇に、シンは初めて触れた。
キラの血で汚されて、シンの翼はどんどんと黒く染まっていく。
シンはそれでも構わないと思っていた。
この人の居ない世界は、要らない。
もう、未練は残ってなかった。
唯一あるとしたら、貴方にもう一度抱きしめて欲しかった。
ツンツンと背中を突かれて、シンはくすぐったくなり、そちらを振り返った。
ミレニアムの彼の士官室で、着替えてる最中の事だった。
「何ですか?キラさん……くすぐったいですよ!」
「ううん、シンの肩甲骨のところに羽根があった名残があるな、って思って」
「羽根…?ですか?」
「うん、たまに……天使だった名残が残ってる人がいるんだって?」
キラがそう言って微笑む。そして「なるべく僕以外には見せないでね」と言った。
「当たり前です!!キラさん以外に抱かれる趣味ないですよ!」
「うん…僕にとっても、君は天使みたいなものだけど……」
「天使みたいなのはキラさんですよ!」
「うーん…どうかなぁ…?」
同じ様に着替えをしていたキラに抱きついて、シンがキスをねだる。
頬を両手で挟み込むと、キラの唇がシンの唇を塞いだ。
腕の中に閉じ込められて、シンは幸福の中にいた。