ダイヤモンドの一途①「じゃあ、私と結婚してくれる?」
「——えっ⁉︎」
環(わ)をえがく。
いくつもいくつも、正面から、横から、斜め上から、それぞれの方向から見た環を描く。
とっておきの白い紙に描いたそれらには、少しずつ違った意匠が施されている。
「どんな方たちなのかしら……」
ペンを走らせる手をふと止めて、レティシアは呟いた。
「指環……ですか? 私に?」
「はい」
視察及び監察の名目で、レイモンド程の頻度ではないが、マリエルも定期的にアスター四号星に訪れている。技術力の進展、国々の均衡といった星の様子をきちんきちんと調査して——この星の仲間との時間も、同じだけきちんと確保していた。
旅から帰ってきてからこちら、立場と仕事の両面の理由で、城からあまり離れられずにいるレティシアにとって、友の訪いは何よりの楽しみだった。
レティシア手ずから淹れた紅茶の香りを、マリエルはうっとりと堪能している。
「レティシアさんの細工の腕前に、道中何度助けられたか分かりません」
先の戦いの銀河連邦側の後処理を行うことになった祖父と、そのサポートを続ける祖母に、感謝と就任祝いの両方を兼ねたプレゼントをしたい、というのがマリエルからの相談だった。その贈りものに、レティシアに揃いの指環を作ってほしい、という。
思いもよらない提案に、レティシアは顎に指を添え思案する。気持ちのこもった品である。受けるとなると、大役だ。
「そう言ってくださるのはとても嬉しいです。でも、記念の品を作るとなると……私はウェルチさんの秘伝を教わっただけで、アクセサリー作りに関しては素人ですから、本職の職人には遠く及びません。立場がある方が身に着けるには、細かい部分でどうしても見劣りしてしまうと思います。オーシディアスの職人を紹介する方が良いのではと思いますが、それでも、私に?」
「ええ、祖父がぜひにと言うので」
「お祖父様が?」
「はい。その祖父が、私の旅の仲間の作ったものをぜひ自分にも、と」
「まあ」
「それに……それに私も、祖父母に、私にも素晴らしい旅の仲間がいることを自慢したいですから」
そうやってはにかまれてしまうと、レティシアも面映くなる。なんとなく緩んでしまう頬を両手の指でひたひたと支えてごまかしながら、クッキーを一口つまむ。チョコチップの練り込まれた生地は、さくさくとした食感を残しながらも、たっぷりのバターのおかげで口の中でほろほろと溶けていく。王宮料理人の自慢の逸品である。
(本職の方には、敵わないかもしれないけれど……)
レティシアが頷いてみせると、マリエルは照れくさそうに、嬉しそうに笑ったのだった。
そうして、レティシアは指環のデザインに勤しんでいる、というわけだ。
この指環を受け取ることになる、マリエルの祖父母に思いを馳せる。上官と副官だったそうだ。ユニバーサルデバイスで写真を見せてもらったが、その写真越しにでも、確かな繋がりを感じさせる寄り添い方だった。
「最近、何やら熱心に描いておられますね」
「あーあ、見つかっちゃったわね」
「これでも遠慮して少し時間を置いたつもりなのですが」
野草を踏み締めて約束の丘を登ってきたレティシアの従者は、そのすっと伸びた腰を落とし、丘の開けた中央の大樹にもたれて座る彼女の横に片膝をついた。
「マリエルさんに頼まれて作らせていただくことになったの」
スケッチをぺらぺらとめくって見せると、そのレティシアの手許にアベラルドが顔を寄せる。
「地球発祥の宇宙の風習で、結婚指環というのですって。夫婦がお揃いで、左手の薬指にはめるそうよ」
「マリエルさん、結婚するんですか?」
目を丸くしてこちらを見るアベラルドに対して慌てて首を振る。
「ち、違うわ! マリエルさんのお祖父様お祖母様に差し上げるの! お祖母様はナックル使いだったから、今まで着ける機会がなかったから、って!」
「そ、そうでしたか」
ふい、と気まずそうにアベラルドがレティシアから目を逸らす。
「……いいのよ? 気にしなくても」
レティシアにはそのアベラルドの不自然な仕草の原因に、心当たりがある。
「結婚[#「結婚」に傍点]指環、素敵な風習よね?」
「何もご自分で傷を抉らなくても……」
目と眉をひそめたアベラルドの顔がこちらに帰ってくる。呆れが四、心配が六。そんなような表情だ。
目下、オーシディアス王国には、密かな懸案事項がある。それは、王族の婚姻についてであった。
予想は出来ていたことだが、まず、テオの相手が見つからない。当人は一生城から出ない覚悟であり、結婚についても、生涯独身でよいと明言している。けれども、レティシアに何かあったときのために、テオに子を成してほしいと考える者は多くある。ただ、テオと結婚しても良いという令嬢が、いま、国内にいない。帝国人を迎えると言う選択肢も、ことテオに限っては、無い。
一方、政略結婚を一蹴し、国と星との危機を救い、民からの人気を揺るぎないものにしたレティシアは、当然、かつては侮られていた諸将からも尊敬を集めることになった。それだから、テオとは逆に、ひっきりなしに縁談の申し込みが来る。ひとつひとつを検分するのも大変なほどに。
——そうなると、レティシアもアベラルドも思っていたのに。
「頑張れば頑張るほど結婚が遠のいていくの、いったいどうしたらいいのよー!」
来ないのだ、縁談が。
隣のアベラルドの表情の割合が逆転した。それが分かってしまって、立場のある者らしくちゃんと抑えていたはずのレティシアの鬱憤が、幼馴染を前にして噴出する。
「こんなことなら、本当にゲラルト陛下と結婚しておけばよかったわ……!」
レティシアが外交手腕を発揮すればするほど、裁定を重ねれば重ねるほど、偉大な王女には、子息は、あるいは本人は釣り合わないと言われて、内々に縁談を打診しても断られるということが続いている。
レティシア自身には、積極的に結婚したいという望みも、したくないという拒否もなかったはずなのに、こうも断られ続けると、だんだん自分を否定されたような気にもなってくるというものだ。
(私って、そんなに魅力ないのかしら?)
分かっている。そういう尺度の話ではないことは。そんなことは誰に言われるまでもなく、子どもの頃から弁えてきた。まだ歳だって物足りないほど若いのだから、焦る理由はないことも。
頭では分かっていても、実際に心に滲んだいじけた気持ちはレティシアを狭量にする。こうありたいと思う自分像から離れてしまって、自己嫌悪も湧いてくる。
「私は、姫が帝国と行き来せずに済んで良かったと思っておりますよ」
「え……」
驚いて、知らず知らずのうちに下がっていた頭を持ち上げる。
レティシアの偽装結婚についてどう思っていたのか、頑なに教えてくれなかったアベラルドから、初めて聴く意思表明だった。
アベラルドの目はこちらを見ておらず、立膝をついたまま、レティシアのスケッチに落ちている。
「結果として帝国の民も救われたのだとしても、姫はずっと、王国のために尽くしてこられたのですから、その王国でこそ、お幸せになるべきです」
どんな顔をしてそんなことを言うの。レティシアは、抱えた膝へ身を倒した。俯いている彼を下から覗きあげようとすると、その視線から逃れるように、すい、とアベラルドは顔を逸らして遠のいてしまう。
レティシアもつい意地になって、アベラルドの顔をしっかり見るまで追いかけようとした。けれど、逃げる首筋がほんのり赤いのを見つけて、思い直した。ぽすん、と背中を大樹の幹に預け直す。
(ふふ。優しいのよね)
レティシアから追いかけられる気配が消えたのを察したのか、そっぽを向いたままではあるものの、アベラルドはレティシアの隣に、そっと腰を下ろした。
「まあ、姫が頑張っておられるのはよく分かっておりますから、ひとつくらいなら我が儘を訊いて差し上げましょうか」
ぶっきらぼうな物言いであったけれど、それが紛れもなくアベラルドの真心であることが、レティシアにはよく分かる。
「ええ? 本当に? 何でもいいのかしら?」
少しの照れを残した、アベラルドの困ったような微笑みは、レティシアが機嫌を直すには十分だった。
「私にできる範囲のことにしてください」
慌てて取り繕うようにアベラルドは言うが、レティシアはもうアベラルドを困らせたくて仕方ない。と言っても、旅に出たいというような本当の本当に困らせてしまうようなものではなく、もっと些細な——子どもの頃によく見た、アベラルドの困り眉が見られるくらいの。
例えば……レイと仲良くして? それについては最近、レイモンドが星に来るたびに率先して出迎えている節がある。そんなことを言えば、アベラルドは、困るより先に恥ずかし紛れに怒るような気がする。
それなら……一緒に甘いものを買いに行きましょう——というのは、「これは私を甘やかし過ぎです」と、実際に甘いものを一緒に買い込んで食べ比べた際に、既に嗜められ済みである。今回はアベラルドの方がレティシアを甘やかしたい、なので、困りはするだろうが、趣旨が違うと言われてしまいそうだ。
「そうね……じゃあ……」
ペンのお尻でとん、とん、と顎を叩きながら、何か思いつこうと周囲を見渡してみる。旅の終着を見届けた花の季節は終わり、今は一面野草の緑で覆われた丘。ぴょこぴょこ気ままに跳ねるバーニィとその仔。澄みわたった赤と青の衛星を背負う、美しいオーシディアスの都。どれもこれもレティシアを癒す光景ではあるが、これといった案は思い浮かばない。
うーん、と考えながら、今度は近いところを見てみる。レティシア同様、樹の幹に背を預け、穏やかな眼差しでこちらを見守っているアベラルド。膝に抱えたスケッチに、ペアで踊るいくつもの環。
(——そうだわ)
今まで、一度も思いつかなかったかと言えば、嘘になる。でも言えなかった、レティシアの秘めやかな想い。困った顔を見るには、きっとぴったりだ。
静かな高揚感と共に、レティシアは言う。
「じゃあ、私と結婚してくれる?」
「——えっ⁉︎」レティシアの言葉を聞くや否や、アベラルドは弾かれたように立ち上がった。「嫌です‼︎」
レティシアの顔を一瞥すると、一歩後退り、二歩で踵を返して、三歩、逃げるような勢いで丘を駆け降りていく。
「あ……⁉︎」
引き止めるような間もなかった。唯一とっさに伸ばせた右手から、ペンがぽろりと落ちる。
アベラルドは——傷ついたような顔をしていた。
それを拾おうと思えるまで、少なくない時間が、レティシアには必要だった。
次にレティシアとアベラルドが顔を合わせたのは、翌日の評議の場でのことだった。
衛士としてレティシアの後ろに控えるアベラルドとは、人目もあり、朝の挨拶以外の会話はできなかった。あの様子では、きのうはごめんなさい、と一言謝れば済む話でもないような気がして、言葉が引っかかって出てこなかったのだ。
諸侯から上がる陳情を、今日も真摯に裁定していく。王女としての役目を果たしていくと、やるべきことをやっていると自負が積み上がっていく。その一方で、気は晴れないままだった。
(何で……アベラルドは……)
気恥ずかしさも手伝って、お互いそれを話題に出すのは何となく憚られて、今まで会話してこなかったけれど、アベラルドだって、レティシアとの結婚の可能性は認識していたはずだ。
いいですよ、と素直に応じてくれるとは、レティシアも考えていなかった。本当に、ちょっぴり困らせたかっただけなのだ。それが、ああも明らかな拒絶をされる理由が分からない。
本音を言うと、ちょっぴりどころかきっとたくさんアベラルドは困って、けれど最後には折れてくれるとレティシアは思っていた。アベラルドは身分に申し分もないし、気心も知れているし、縁談が来ない問題をさっぱり解決できる良い案であるとさえ思った。
実際、ベルグホルム家より家格の高い者たちには、縁談はほとんど既に断られており、ベルグホルム家に打診がいくのも、そう遠くない未来のはずだった。なのに——。
「姫」
評議の場でのあらゆる無理難題をなんとか乗り切り、閉会を迎えて椅子から立ち上がったところで、アベラルドがレティシアに耳打ちをした。
「少し、二人になる時間を頂けませんか」
無意識に薄くひらいた唇で息を喰み、小さく頷く。
アベラルドに連れてこられたのは、離宮の庭であった。いつか待つレティシアの結婚に備えて工事が進められていたにもかかわらず、自らは積極的には足を運ぶことのなかったそこは、事故の跡形もなく、すっかり補修が済んでいた。
城正面の庭園に比べると人の出入りの少ないせいか、芝を押しのけた雑草が、まばらに茂ってしまっている。
アベラルドがおもむろに膝をついて、その茂みから花を一輪手折った。
「……レティ」
「え? あ、ありが——」
白い花だった。たわいもない、どこにでもある、子どもの頃好んで摘んだ、レティシアが名前を知らない花。——蓋が開くには、十分だった。
「姫?」
「あ……、ええ……ありがとう」
アベラルドを、これ以上私に縛りつけることは、できないわ。
事故を忘れたことはないが……認める。薄れていた。
あの日も、レティシアはこの花を摘んで遊んでいた。
この感情と距離を置くことは、アベラルドの望みでもあった。レティシアが責任を負うことではないのだと、口を酸っぱくして何度言われたか分からない。責任感の強いレティシアは気にせずにはいられなかったが、他ならぬアベラルドに「これ以上俺の顔を見て暗い顔をしないでほしい」と言われてしまっては、顔に出ないよう努めるほか出来ることはなかった。態度に引きずられるように、気にしない、がいつの間にかできるようになっていった。
そして、旅の最中、アベラルドの憂いが晴れたことで、レティシアが凍らせた感情も、格段に軽くなった。そのせいもあって、事故当時から片時も剥がれたことのなかったはずの生々しい恐怖と悔恨が、遠ざかっていたのだ。この花を、渡されるまでは。
あの事故で、当人たちが望むと望まないとにかかわらず、レティシアはアベラルドを自分の人生に縛り付けてしまった。アベラルド本人がどれだけすべて自分の意思だと喧伝してまわったとしても、現実問題、移植された腕の政治的な問題がある以上、アベラルドにはレティシアの騎士になる道しか残されていなかったのだ。
アベラルドが何と言おうが、レティシアはそのことを肝に銘じていなければならなかったのに——薄れてしまっていた。
「結婚して、だなんて、あなたには言うべきじゃなかったわ……」
「え?」
「ごめんなさい、アベラルド」
せめて摘んでもらった花を大事に抱きしめて、レティシアは項垂れる。
「……姫は、なぜ結婚したいのですか?」
しばしの沈黙の後、アベラルドが、言葉を選ぶようなためらいを見せ、レティシアに問うた。
「なぜも何も……世継ぎを産まないと……」
遅かれ早かれ果たさねばならないレティシアの義務。
単に子を産めば良い、という訳でもない。実際に夫の血を継いでいるか否かにかかわらず実際に夫の血を継いでいるか否かにかかわらず、誰が父であるかが明らかである必要がある。そうでなければ、子は守れない。
レティシアは、自分が父にとって「遅くに生まれた子」であるがゆえに、良くも悪くも、子は授かりものであることを知っている。だからこそ、早く結婚して、早く子を持ち、父を安心させたい。そしてそれは——結婚することも、子を持つことも——レティシアに出来る、強力な、諸侯や他国に対する政治的な圧力であるのだった。
「私でも、よい、のですか」
そこでレティシアは、ようやくアベラルドが何を気にしているのかを理解した。
「……誰でもいい訳じゃないわ!」
大袈裟に首を振って、まっすぐこちらを見据えているアベラルドに意志を伝える。
「あなたなら、私のことも、王家のこともよく知ってくれているし、いろいろ、問題なく、この先もずっと仲良くやっていけると思うし……」
アベラルドとならきっと、レティシアは幸せになれる。レティシアだってアベラルドを幸せにしてあげたい、と思う。王宮も、賛成こそすれ、反対はすまい。
そう思うのに、言葉は尻窄まりになった。アベラルドの表情が、静かに閉じていくのが分かったから。
(やっぱりアベラルドには……私と結婚できない理由が、あるというの……?)
「……それがあなたの言うわがままなら、叶えて差し上げなくては」
自分の表情の変化に気付いているのかいないのか、アベラルドの発した言葉には、思いがけず、微かな熱を灯っていて、逃れられない引力があった。拒否されたわけではなかった、という淡い安堵と、もしかしたら結婚できるかもしれない、というほのかな期待。
「でも——そのかわりに」
続く言葉を、レティシアは判決を言い渡されるような思いで待つ。
「私も、あなたにわがままを言っても良いですか?」
悪い顔をしている、と思った。アベラルドらしからぬ、あからさまに何かを企んでいる、含みを持った顔。
けれどもレティシアは、渡された花をきゅっと握りしめて、一も二もなく頷いた。そんなの、交換条件じゃなくったって、無条件で聞いてあげたいに決まっている。
「ええ、なんでも!」
アベラルドがレティシアにわがままを言うなんて、初めてではないか? 翳りを覆して静かな興奮を隠せずにいるレティシアに、アベラルドはなぜだか困ったように眉尻を下げて、何か覚悟を決めるような静謐さで、ひとつ、頷いた。