宇宙でたったひとりだけ③「レイに逢えて、本当に良かった」
「……そうですね」
アベラルドの掌をふにふにと弄びながら、レティシアは目を閉じる。その内に両手の動きが緩慢になっていき、やがてその左手がこてんと彼女の膝に落ちた。
「おやすみなさい、姫」
すうすうと寝息を立てるレティシアを丁寧に横たえてやる。
(髪が)
毛布を掛け直してやったとき、姫の銀糸の髪が鼻先にこぼれてむず痒そうにしていることに気付いた。右手を伸ばして耳に掛けてやろうとしてーー生身の指先に健やかな寝息が触れ、ぎょっとして身体ごと仰け反った。
レティシアに絆されて一瞬でも触れようとした事実に愕然とする。姫に(しかも寝ていて意識がない)触れるだなんて、そんな不敬なこと。出来やしない。出来るわけがない。ついさっき、身体に触れて寝かせてやったのに? そういう問題じゃない、違う、それとは。意味合いがまるで。
指先がちりちりと痒いような気がして、閉じたり開いたりして誤魔化す。
アベラルドはひとつ嘆息すると、思い切って立ち上がった。焚き火を挟んでレティシアから少しだけ距離を取ることで、平静を取り戻す。やれやれと座り込んだところで、この星には不似合いな電子音が腰のポーチの中で鳴った。
「貴様、姫が起きたらどうする」
『だからお前の方に通信してるんだろうが』
なるべくレティシアに声が届かないよう、けれどアベラルドの視界からは外れないよう、焚き火からさらに二歩分ぐらい離れて座り直し、レイモンドを小声で叱る。端末の光が眩しいから、音声だけに設定を変える。
レイモンドは仲間たちひとりひとりにベグアルド製の端末を配った。(エレナはレティシア、ミダス、マルキアの三台を提言したが、レイモンドが面倒臭がった)
アベラルドには理解の及ばない技術で、どこに誰がいるかどういう状態か分かるようにもにたりんぐできるのだそうだ。だから、姫が眠りに落ちたのを見計らって、アベラルドに連絡を寄越したのだと言いたいらしい。
『お前、何でラーカスにいるんだ?』
「……それは私が聞きたい」
『ははーん?』
「いいから要件を言えっ!」
ニヤついた表情が手に取るように浮かび、アベラルドは焦れた。
『そんな怒るなよ、次にいつそっちに行くのが都合がいいか確認したかっただけだ』
「いつ……だろう」
『何だそりゃ』
珍しく歯切れの悪いアベラルドの様子を、レイモンドは訝った。仕方なく、経緯を話す。
『ふーん』
「それだけか」
『逆に何て言わせたいんだよ。休暇羨ましいぜー! とか、そういうことが聞きたいわけじゃないんだろ』
「……姫は」
ちらりと焚き火の向こうを眇める。レティシアが起きた様子はない。
「姫は、お前に会えて良かったと」
『おう』
照れた気配もなく、すとんとした返事が来る。
「レイモンド」
ずっと。
誰にも内緒で、胸に秘めていたことがある。それを伝えるには今を置いてないと、勝負に打って出るべきはここだと、アベラルドは悟った。本人に直接訴える気持ちで、夜空を仰ぐ。星がひしめいている。うるさいほどに。
「次に来たとき、そのまま姫を攫ってくれないか」
『……』
通信越しにでも、彼が気色ばんだのが分かった。アベラルドとしては痛切な願いであったのに、レイモンドには伝わらなかったようだ。
『理由を聞いておこうか。一応な』
その声色には覚えがある。ーー陛下が撃たれたバルダーで、オーシディアス城の会議室の隅で、マリエルに激しく詰め寄った、あの時と同じだ。
「この旅を終えたら、姫は恐らく誰かとご結婚なさるおつもりだ。ゲラルト陛下ではないかと、私は思っているが」
きっと最後の旅にするつもりだろう。訥々と続ける。
「姫はお前のことが好きだろう」
『レティシアがそう言ったのか』
「見ていれば分かる」
『レ、ティ、シ、ア、が、そう言ったのかって聞いてるんだ』
「気付いていないふりをするなら承知しないぞ」
『お前の意見は聞いちゃいないんだよ』
「貴様だって姫のことを好いているだろうが」
アベラルドは引かなかった。尻上がりに声を張り上げてしまい、さすがにはっとして腰を浮かせて姫の様子を確かめた。身じろぎをしたのか、仰向けに寝かせていた顔が向こうを向いている。
(起こしてしまっただろうか)
確かめに行くより、分かる奴に聞いた方が早い。
「レイモンド、すまない、姫は」
『……寝てるよ、安心しろ』
何かを確かめるような間が一瞬あってから、毒気を抜かれたようにレイモンドは教えてくれた。上がった心拍数を抑えるために、アベラルドは抱えた膝の間に頭を落ち込ませる。
「そうか……」
『レティシアのことは好きだぜ』
手の中の端末から飛び出した言葉がぐさっと胸に突き刺さる。
地面を見つめたまま、長く深呼吸をする。冷静に。自明のことだったではないか、何をそんな衝撃を受ける必要がある。感情を理性で宥めすかしても、痛くて痛くて、自嘲すら湧き上がる。そのままふっと笑んでみると、ほんの少しだけ楽になれた気がした。
本心からレイモンドに伝える。騎士アベラルド・ベルグホルムとしてではなく、ただのアベラルドとしての願いを。
「姫に幸せになって欲しい。お前になら託せる」
『ゲラルトには任せられないってか?』
「そうじゃない、姫がお好きなのはお前の方だからーー」
『だぁから、それレティシアが言ったのか?』
やたらとそれに拘泥するレイモンドに、アベラルドは渋々答えてやった。先ほど姫の様子を教えてもらったので、借りを返す意味も込めて。
「パラダーニアで、ラウル殿に姫が答えていただろう」
『ん? パラダーニア? ……親父?』
「結婚するならアントニオ殿とどちらが良いか聞かれて。お前が良いと」
『おっっっま、待て待て待て、お前アレ聞いてたのか はあぁぁあ? どこで』「だからパラダ」『違う! うちの会社の前に居たかって』「……入り口の横に」
あーもうそういうことかよ、とレイモンドは途端に投げやりになった。
『無駄に気配断つなよ敵じゃないだろ俺は』
「お前が気付いてなかっただけだろう」
『レティシアもな』
顔を上げる。レティシアは変わらず、焚き火越しに静かに眠っている。
「星の世界でならーーお前の前でなら。姫は王女でいなくてすむだろう。レイモンド」
『それでお前、宇宙旅行に誘っても着いてこなかったのか』
通信がレイモンドの溜め息を拾った。
『レティシアを攫って欲しいんだったか』
アベラルドの身体に緊張が走る。
『お断りだ』
はっきりと怒気を露出させた声で、レイモンドは言い切った。
『俺の仕事は"運送屋"だ。その俺に、アベラルド、お前は、強盗を働けって言うのか。強盗は運送屋の最大の敵だ。お前のそれは、俺にとっては侮辱でしかない』
「強盗ではない。私という依頼主がいる。届け先はお前。姫は立派な荷だ」
『人間を運ぶのは俺たちの仕事じゃない。人間を運ぶ仕事だったとしても、それは運ばれる当人が、自分の意思で選ぶことだ。積荷扱いだったDUMAだってDUMAの意思で運ばれていたんだぞ』
「では姫本人が望めば?」
『レティシアを毎日のように見ていて、レティシア本人が望むと、本気で思っているのか?』
「それはーー」
『思えないよな。だから攫えと、レティシアの意志を無視してでもオーシディアスという国から王女を奪えと、そういうことをお前は言ってるんだよ』
正論をまくしたてるレイモンドに対し、ついに何も言えなくなってしまった。自覚があったからだ。
『騎士として王国を裏切るようなことをして、テオがどれだけ後悔しているか、お前目の前で見てるだろうが。それでレティシアが幸せになったか?』
「……」
彼の声が少し穏やかになる。
『そりゃあ王女っていうのは大変な仕事だろうさ。宇宙っていう知らない世界で伸び伸びするレティシアを見て、それから解放してやりたいって思ったお前の気持ちも少しは分かる。実際、宇宙旅行に連れてってやるのだって、アイツが少しでも息抜きできたらいいよなって俺も思ったからだしな。けどな』
ふっと笑うような息遣いがあって、レイモンドは続けた。
『レティシアは、アスターで俺と二人で話してるときも、宇宙旅行の最中も、片時も王女でいることを忘れたことなんかない。お前が誤解してるパラダーニアでの一件の時だって、話の始まりは見聞を広められて良かったっていう、そういうところから始まってる』
「えーー」
想定外のことを言われて、アベラルドは当惑した。なら、だったら、ラーカスの村で言われた『ただのレティとただのアビーで』というのは何だったのか。この旅の間だけは、王女の自分を忘れたいと、そういう意味だとアベラルドは受け取っていた。
そう受け取ったから、ゲラルトと結婚して雁字搦めになってしまう前に、レイモンドという相応わしい相手に託そうと決めたのにーー
「しかしお前は姫のことが好きなんだろう? 姫もお前のことが好きなのだし……」
もうひとつの根拠にアベラルドは縋った。近くで見ていてそうであると感じたことも多いし、先ほどの宣言もある。
相思相愛であるなら成就してほしい。王女という立場にとって、それが叶うことは不可能に等しいから。
「私は、姫に、この星で……宇宙で、一番。幸せになって欲しい」
それが出来るのはお前だけだ。祈りにも似た願いだった。
『うーん……そうだな』
レイモンドは言い淀んだ。言葉を探しているようだ。
『レティシアのことが好きなのは本心だ』
「なら」
『お前のことも同じだけ好きだよ』
「ーーは?」
『は? とはなんだ、失礼な奴だな』
あまりのことに拍子抜けしていると、端末越しにレイモンドが抗議してくる。
『もし俺がそういう意味でレティシアを好きだったら、真っ先にお前に宣言する。まあそこで一発くらい殴られてやって、それで話し合う。どうやったら俺の仕事とレティシアの仕事の両立ができるかとか、結婚するならどういう手順が必要かとか、将来の王配の俺が星にいない時に起こりそうな問題の解決策とかな。レティシアと宇宙でデートするのは、そういう根回しが全部終わって、お前が安心して俺に協力できるようになってからだ。レティシアが俺の気持ちを断る理由になる要素を全部潰して、万全の態勢で落としに行く。それで、いちいちお前も来いよなんて誘わない。デートだから。で、』
俺がいつ、そういう手順を踏んだ? レイモンドに問われて、アベラルドは答えられなかった。
『考えてもみろ、例えばニーナが"私ならアベラルドさんと結婚したいです!"とか話してるの間近で聞いたら、お前だって照れるし困るだろ』
「それは……」
『同じだよそれと。その程度の話だ』
焚き火がぱちっと弾ける。
『他のみんなも大事なことには変わりないが、アスターに不時着して最初に俺を助けてくれたお前ら二人のことは、やっぱり特別なんだ。他に言うなよ。お前にだから話すんだからな』
「姫のお気持ちはどうなる。無碍にするつもりか?」
『あーもう、往生際の悪い奴だな、そう来るならいいぜ、付き合ってやる。何度も何度も言ってるけど、だからそれレティシアが言ったのか? 本人から直接聞いたのか? もういっそ起こして聞いてみらどうだ』
「でっ、出来る訳ないだろうそんな事!」
『何で』
「何でって……疲れているところを起こすのは可哀想だろう」
『じゃあ起きたらでいい』
レイモンドはアベラルドの逃げ道を端から潰していく。
『出来ないのか?』
懸命に思索を巡らせる。何と返せばレイモンドを黙らせられるか。けれど考えはまとまらず、言葉の成り損ないが口から溢れるだけだ。
『出来ないよなーあ? もし本当〜にレティシアが俺のことを好きだったらヘコむから』
「黙れ!」
たまらず叫ぶ。
『いいや黙らない。偽装結婚の時、大事な大事なお姫様が仮にも嫁いでいくっていうのにお前が平気な顔してたのも、レティシアが別にゲラルトのことが好きじゃないって分かってたからだろ。お前はーー』「それ以上言わないでくれ、頼むから」
結局、アベラルドが絞りだしたのはそれだけだった。
抱えた膝に顔を埋めて、懇願する。
『……悪い。熱くなった』
「いや……こちらこそ」
なあ、アベラルド。と、レイモンドに呼びかけられる。
『レティシアはさ。何でお前をこの旅に連れてきたんだと思う』
「護衛が必要だからだろう」
『そういう理由なら、別にテオやベルトランドさんでも、何だったらロラでも良かったんじゃないのか。レティシアの言葉を借りるなら、"本当にそれだけ?"ってこと』
「何が言いたい」
『レティシアはお前と見て回りたい、って言ったんだろ。その意味、もうちょっと汲み取ってやっても良いんじゃないのか』
「意味……と言われても……」
『お前それ本気で言ってる?』
レイモンドは呆れた声を隠さない。
『おいレティシア、もっとはっきり意思表示しないとこいつ多分だめだぞ』
「やめろ、姫を起こそうとするな」
レイモンドが急にレティシアに話しかけだしたので、慌てて音声をミュート状態にする。元々あまり大きな音量ではなかったので、今ので起きたとは考えづらいが、気持ちの問題である。
『残念だったな、それは子機だからこっちで操作できる』
「は、はぁ」
『いや、まーぁ、なんだ。頑張れ。それで旅が終わったら連絡くれ。それでそっちに行く日決めるわ。じゃあなアビー』
レイモンドはそれだけ言うとさっさと通信を切ってしまい、端末は静かになった。
「意味なんてーー」
端末を手のひらで弄びながら、ひとり呟く。
アベラルドを完全に言い負かしたレイモンドではあったが、ひとつだけ。見積もりが甘かった点がある。アベラルドがレティシアを見つめていた時の長さだ。
ここ最近は、努めて見ないように、聞かないようにしていた。彼女の眼差しや言いたいことを、少しずつずらして受け取って、彼女を避けていた。長い旅の間に、街々で何度も繰り返される感謝の言葉も、ただ感謝の部分だけを受け取るようにしていた。
レティシアのことが大事だ。大切だ。とても。何よりも。だから。
「レイが本当にレティのことを好きだったら良かったのに」
勝算はあったはずだった。諦める理由を探していたアベラルドは、パラダーニアで二人の様子を見たときに、そうなれば良いな、と本気で思った。レイモンド達が星を離れる最後の会話での、彼と彼女の睦まじい距離感も、自分の気持ちを見ないふりを決め込む材料にするのにぴったりだった。
焚き火の向こうのレティシアを見る。いつの間に寝返りを打ったのか、こちらに背中が向いている。毛布が肩からずれて寒そうだ。
アベラルドは音を立てないよう静かに立ち上がって、レティシアの正面に回り込む。寝顔は穏やかだ。
姫の傍らに膝をついて、毛布を引き上げてやる。
勝負に負けたアベラルドは、認めなければならない。
「俺も好きだよ、レティ」