ダイヤモンドの一途② アベラルドのわがまま、を叶えるチャンスが巡ってきたのは、それから数日後のことだった。
たまたま公務のキャンセルが重なって、ぽっかりと予定の空いた午後。レティシアはベルグホルム邸に招かれた。
ある程度の年齢になって以降、王城のアベラルドの控室も含めて、レティシアは彼の私的なエリアには立ち入らせてもらえなくなっていたから、正直驚いた。それも応接室や客間ではなく——アベラルドの私室のソファに、レティシアは座っている。
初めて入ると言って差し支えないその部屋の中をあちこち見てまわりたい気持ちを懸命にしまって、レティシアは使用人が淹れる紅茶をアベラルドの向かいで待つ。
(何を言われるのかしら……)
内密な話をするなら、ここより相応しい場所はいくらでもある。わざわざレティシアを私室に招き入れる必要のある『わがまま』ということなのだろうが、それを想像すると、直視してはいけない部分が疼いて、レティシアは自分で自分に困ってしまう。
アベラルドに限ってそんなことは。そんなことって、どんなこと?
下心、と言う言葉が脳裏をよぎり、レティシアは頬の紅潮を振り払うように頭(かぶり)を振った。
旅の最中、特に宇宙空間での長い移動時間の休息のお供に、とニーナやクロエから、レティシアはいくつかの小説を借りた(クロエからはデータをデバイスに直接送信してもらったので、翻訳されたものを読めた)。
ふたりの好みはよく似ていて、中には清廉であらねばというレティシアの虚勢をいたずらっぽくつついてくるようなものもあった。
男女の機微の、あんなことこんなこと、はたまた同性どうしのそんなこと、とめくるめくロマンティックな世界を、レティシアは興味深く読んだ。気が付いたら就寝予定時刻を一、二時間過ぎていたということもあったが、たとえ王族が主人公の物語であったとしても、なまじ現実を知っているだけ、自分には縁遠いことと思った。
けれども、使用人が一礼して部屋を辞した今。幼馴染で、レティシアの騎士で、結婚の約束をしようとしている男の子とふたりきりになった。
(でも、アベラルドよ?)
無い無い、とレティシアはにわかに浮かんだ空想を否定する。そんな物語のようなことは起きっこない。部屋の扉だって、半分開けたまま。紅茶をサーブした使用人も扉のすぐ傍に控えている。
それに、アベラルドの忠誠は王女としてのレティシアに向けられたものだ。旅の間も昔も、今も。何度だって「騎士として」と言われてきた。明確にレティシアとアベラルドの境界を区別するように、繰り返し。
(そう、アベラルドは私の騎士。大切な……)
そわそわしていた気持ちがやんわりと静まって、レティシアはようやくアベラルドの顔を見ることができた。——眉間に皺が寄っている。
「あなたが難しい顔をしているのはいつものことだけれど、今日はどうしたの?」
「いえ……その……」
「なあに?」
「……姫が私の部屋にいるのだと思うと落ち着かなくて」
「あなたが呼んだんでしょう?」
アベラルドは歯切れ悪く口ごもった。いったいぜんたいアベラルドは何をしたいのか。さっぱり分からず、レティシアは肩を竦めてみせた。
それを見たアベラルドは、むぐと口を結んで、さらに難しい顔で黙り込んでしまう。けれど、何か言いたげな目が、こちらをちらりと見ては逸らし、見ては逸らし。
こんなとき、急かすとアベラルドがもっと頑なになることを知っているレティシアは、アベラルドが無言で唸っている間、不躾にならない程度に部屋を観察してみることにした。
アベラルドらしいシックな紺色と気品のあるマホガニーで統一された室内の、壁にはチャクラムの他、使い込まれた剣と弓が飾られている。隙間なく理術教本や政治経済、教養の類の本の並んだ大きな本棚からも、文武両道を旨とするアベラルドの研鑽の跡が見える。
アベラルドが、決して出自だけでレティシアの近衛を務めているわけではないことがそれだけで見てとれて、レティシアはほんの少し泣きそうになった。
(私って、本当に恵まれているんだわ)
レティシアがアベラルドの人生を縛ってしまったのだとしても、彼が自分に向けてくれている真心は本物だ。
感謝の言葉は自然と滑り出た。
「私の騎士が、あなたでよかった」
ひとり悶々としていたアベラルドの顔が、はっとこちらを見た。物言いたげな視線はそのままに、アベラルドが唇を噛む。そして。
アベラルドは手付かずのティーセットの乗ったテーブルを回り込んで、レティシアの隣におもむろに腰掛けた。
アベラルドが隣にいるのはいつものことだが、距離感が違う。……近いのだ。
「どうしたの?」
と、レティシアが聞くのと同時に、アベラルドに左手を取られ、おずおずと両手で包まれた。
慣れ親しんでいるようで、実際にはほとんど初めての掌の体温に、レティシアはどきりと胸を強張らせた。
(あ、わ、)
他人に手を触れられることは初めてではない。ないのに、なぜこんなに落ち着かない気持ちになるのか。儀式で触れられるのとは違う。社交の場でのエスコートとも違う。触れられている部分も心も、両方がざわざわと疼く。
レティシアの手を大事そうに包む体温が、その優しさとは裏腹に、緊張をつれてきている。触れられて、思わず手に落とした視線が、上げられない。単なる他人ではなく、アベラルドが相手だからこそ、こうなってしまっているのかもしれない。
こうして改まって触れられるのはいったいいつぶりだろう。子どもの頃繋いだきり、いつの間にか遠ざかっていたアベラルドの手。厚くて大きくて指もレティシアより二回りぐらいは太くて、何より温かい。
「……姫」
柔らかい輪郭の、硬質な声が、レティシアを呼んだ。
(アベラルドは、私の、騎士)
気取られないように小さく息を吐いて、レティシアは何でもない顔を用意してアベラルドを見た。
「ええ、何かしら」
いつもより距離の近いアベラルドの顔。いつもきりりと上がっている眉毛も、その下で輝く黄金色の瞳も、今は所在なげに伏せられている。刈り込まれた芝のように整然と生えそろった睫毛が、はたはたと揺れている。
なんだ、とレティシアは思った。アベラルドだって緊張しているではないか。そう思うと、途端にくすぐったい気持ちになった。
アベラルドの目を、直截に見つめてみる。じーっ……。
しばらく迷っていたアベラルドの目が意を決したように上がる。ぱちりと視線が合うと、見られているとは思っていなかったのか、狼狽えたようにその身体が丸ごと揺れた。
「……照れているの?」
疑問調にしてみたものの、ふふ、とレティシアは笑みを綻ばせた。一瞬で染まった赤い耳が何よりの証拠だ。
「……もう、あなたは!」
アベラルドはわざとらしく顎を上げると、レティシアの手を離してぱっと立ち上がってしまった。
遠のいた体温が心地よかったことに、ふわりと左手に戻ってきた温度のない空気に気付かされる。
(ほら、やっぱり、私とアベラルドじゃ物語みたいにはならないわ)
アベラルドに背を向けられて、レティシアはほっとした。どこか残念に思う気持ちも無いでは無い——が、それはほんの少しだ。本当に、ほんの少し。分かっていたことだから。
アベラルドは、大股でレティシアの向かいのソファに戻——らなかった。
(え?)
ソファを素通りしたアベラルドは、レティシアの二倍はありそうな歩幅で、部屋の出入り口に向かった。何やら早口で使用人に話しかけると、外に出させ、たん、とその扉を、ためらいなく、閉めた。
「アベラルド? ひゃ、っ⁉︎」
思わず腰を浮かせる暇があったかどうか、アベラルドがこちらに帰って来るのはまったくの一瞬だった。レティシアは、身を竦ませている。
衣服の清涼な香の隙間から男の汗の匂いを覗かせた、アベラルドの腕の中で。
(な、なに、なに⁉︎)
頭から腰まで、レティシアはソファの座面に埋まっている。震える吐息が、レティシアの首筋を撫でた。
(熱い、)
抱き締められている。アベラルドに。押し倒されている、という方がもしかしたら正しいかもしれないが、戻ってきた勢いそのまま抱きすくめられたので、アベラルドとしても意図した形ではないだろう。
アベラルドは熱かった。そして重かった。吐息だけではない。その厚みのある匂いも、筋肉の詰まった胸板も。背中と腰に回されている、いつの間にか逞しくなっていた両腕も、抱き締めるその強さも。レティシアの想像を軽く超えて、何もかもが熱くて重かった。脚をばたつかせてみても、アベラルドはびくともしない。視線が交わらないのだけが、唯一の逃げ場であった。
「……レティ」
例外なく、その声も。耳の孔に直接注ぎ込まれるようなその熱量は、レティシアの身体をも否応なく呼応させた。五感の全部が一瞬でアベラルドでいっぱいになってしまって、このままでは燃えながら溺れてしまう。
(知らない、こんなの、私とアベラルドはこんなのじゃ——)
「……来ないで欲しかった。こんなところ」
絞り出すような、苦しげな声だった。レティシアは、平静を装いながら何とか返す。
「自分の部屋をこんなところだなんて」
「断るでしょう、普通。……男の部屋ですよ」
アベラルドの耳の赤さをレティシアはもう笑えない。内からの熱さを堪えきれなくて、自分を縛める腕から逃れようともがくと、許さないとでも言うように、かえって強く抱き締められた。すり寄せるように首筋に鼻先を埋められる。息が吸えなくなる。
「姫は……甘いにおいがしますね……」
「アベ……ラルド……ッ」
謝ればいいのか、懇願したらいいのか。レティシアには分からなかった。やめて欲しいのかどうかさえ。ただ、何も言わずにいることも出来ずに、混乱の元凶に呼びかける。
「——どうか。分かってください、私を。それが私のひとつめのわがまま」
大きく深い吐息がレティシアの耳朶を掠めた後、アベラルドは星がささめくような静かな声で囁いた。
それを最後に、レティシアに押し付けた激情をまるで何もなかったかのような丁重な手つきで、アベラルドはレティシアごとゆっくりと起き上がる。そのまま両手を引かれて、ソファからも立たされた。
「申し訳ありませんでした」
レティシアは首を振る。かけるべき言葉が確かにあるはずなのに、何も思い浮かばず、途方に暮れる。このまま引き下がってはいけない。だって、レティシアに謝りながら、アベラルドがいつも通りの顔を作りながら、沈み込むように後悔しているのが分かるから。
とても驚いたし、戸惑ったけれど——決して怖かったわけではなかった。
何より自分が傷付いていないことを伝えなければと思うのに、きっと傷つけてしまったのはレティシアの方なのだというのがありありと分かっているのに、今のアベラルドには、それをすべて捲し立てても届かないことも、レティシアには分かる。
(あなたのことがこんなにも分かるのに)
レティシアには唇を噛むことしかできず、だからせめて、アベラルドに合わせていつも通りを装うことにした。
「いいえ、大丈夫よ。全然」
表情を整えることも処世術のひとつである。『いつも通り』うまく微笑めているだろうが、内心の動揺はお見通しだろう。レティシアだけが相手を知っているわけではない。
「引き留めてすみません。城までお送りします」
出入り口を指し示すために、アベラルドはさりげなく手も離した。
寂しい。
そんな想いが去来したことに、レティシアはまた戸惑う。最後に手を触れあった日がいつなのか、思い出せさえしないのに、そんな資格があるというのか。
それに、もうひとつ。
「アベラルド」
「はい」
「私——あなたのこと、分かっていない?」
扉を開けるためにレティシアに背を向けようとしていたアベラルドは一瞬動きを止めて、あいまいに微笑んだ。