宇宙でたったひとりだけ②「アビー」
どきりと心臓が跳ねる。どうにも弱い。ラーカスの村に着いたときもそうだった。レティシアは、アベラルドのひた隠しにしている想いを見透かして、意思を持って揺さぶりにきている。『本当にそれだけ?』
(隠しているわけでは)
レティシアに対する愛情を、子供の頃から大人になった今に至るまで、アベラルドが隠したことは無い。それこそ、幼気な騎士の誓いを立てるよりずっと前から。レティシアは、自分にとってかけがえのない、自分の命なんかよりよっぽど守りたい、たったひとりの宝物だった。
アベラルドが彼女を大切に想っていることは、二人を知る全員に伝わっていると言い切れる。
ーーこの国の王女だから、大切だ。
ーー自分は騎士であるから、彼女を大切にするのは当然のことだ。
そんな方便を繰り返しているが、『本当にそれだけ』ではもちろんない。
アベラルドの初恋が終わったのは、左腕の一件から目が覚めたときだった。肩から胸へ侵食されるような熱い痛みで命が助かったことを自覚して、包帯でぐるぐる巻きの左腕がなぜか右腕より太く、さらには自分の足先を超えた長さに変わっていることで、大変なことが起こったことを自覚して、朦朧とする意識が拾う大人たちの会話から『ふさわしくない』という言葉を聞いた。感覚のない左手の先が、暗く透けているのを見て、聡明な少年は言葉の意味をよくよく理解した。
ーーレティにふさわしくない人間になってしまった。
レティシアに再び見(まみ)えたのは、事故から半年は経っていただろうか。始めは床を引き摺っていた重たい左腕は、ふた月もすればきちんとアベラルドの身体の大きさに順応し、長袖と手袋を着けていれば、傍目には事故前と何ら変わらないまでになっていた。それがこうも時間がかかったのには、公爵派の強固な反対があったからだ。
異形の少年。
悪魔の所業を大切な王女に近づけるわけにいかない。
自在に形を変えるトラッセン族の肢体をアベラルドが制御出来ずに姫を傷つけでもしたら。
両親やベルグホルム家の者は必死に自分を守ってくれたが、左腕の監視だの何だのと称して近寄ってくる大人が耳打ちしてくる『心配ごと』により、アベラルドは自分の置かれた状況を知っていた。
そして何より、自分自身が、変わり果てた左腕をどのように受け止めたらいいか、分かっていなかった。
マルキアという異種族の人物から腕が移植されたと聞かされた時、正直なところ感謝よりも当惑の方が強かった。
姫を守ったことに微塵も後悔はない。しかし、頼んでもいない異種族からの移植を施されてまで生かされたことに、アベラルドの心は追いつけなかったのだ。
腕が移植されたばかりの頃、身の丈に合わない不自然な大きさも、暗闇のような色合いも、それが自分に繋がっていることも、ただただ怖かった。そして、三賢者と共に往診と経過観察にやってきたマルキアが近付いてきた時。彼女の顔も見ていないのに、自分の意思とは関係なく結合部から剥がれるように動こうとする左腕が、身を捩るほどに痛くて恐ろしくてたまらず、アベラルドは過呼吸を起こした。骨核が持ち主の元に戻ろうとしていたのだと今なら分かるが、前例のない手術にそんなリスクがあることなど、当時は誰にも分からなかったのだ。
フィルベルトとマーキス二人がかりで鎮静の理術を掛けてもらい、アベラルドはようやくミダスとマルキアに感謝を告げることができた。(この時、心からの感謝を伝えられなかったことを、アベラルドは後悔してもしきれないでいる。旅の途中で何度も二人にそれを伝える機会はあったが、ミダスにはいい加減にしつこいと怒られたし、マルキアはそんなミダスを笑うだけである)
レティに会えると決まった時も、『こんな』自分の姿を見せて、姫に嫌われやしないか、そんな心配ばかりしていた。腕は違和感なく動くが、かえってそれがひどく不気味で、心の違和感は残ったままだった。
王城での議論が半年経ってもまだ紛糾を続ける中、ベルグホルムの屋敷に姫が密かに訪れ、二人は再会を果たしたのだが……そこにいる、情勢的には味方であるはずの誰も彼もの顔が強張っていた。考えるまでもなく、突然暴走したりしないか、この左腕を見張っているのだ。息子の左腕がひとつの心配もなく動くことを知っている両親の顔でさえそうなっているのを見てしまって、左腕がーー自分が、真に恐れられていることを、アベラルドはどうしようもなく思い知ったのであった。
姫の遊び相手として選ばれたということは、少なからず『将来』のことも想定されていたはずだ。けれど。
部屋の入り口では、レティシアが硬い顔で固まったまま動けずにいる。
(ーーやっぱり姫に俺はふさわしくないんだ)
幼い初恋の終わりを、アベラルドは当たり前のようにすんなり受け入れた。言いようもない寂しさのようなものは感じたが、傷つきもしなかった。そうか、という納得だけがあった。
その後、アベラルドの母に促され、姫はようやく自分に手を伸ばしてきた。恐る恐る左手に触れようとするので、素直に差し出してやる。なにぶん昔のことなので、その時の会話は朧げである。ただ、堪えきれずに姫が引き攣るほどに泣き出し、何度も何度も名前を呼ばれたことと、数えきれないほど謝られたこと。それから、自分にしがみつく姫の、泣きじゃくったせいで熱いほどの体温が、知らず知らず凍っていたアベラルドの心を確かに癒した。そしてーー
レティはアビーの左手をとり、頬擦りをしてにっこりと笑ったのだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、心底嬉しそうに。
自分自身ですら受け入れられなかったアベラルドの左腕を、レティシアが、レティだけが、何も言わず当たり前に受け入れた。矢も盾もたまらなくなって、この国の姫を抱きしめた少年を、誰が責められよう。
(生きていて、よかった)
その時にアベラルドは誓ったのだ。救われた命のすべてを、彼女のために費やすと。