宇宙でたったひとりだけ【追加シーン/ライタール】 いつの間に寝入っていたのか、翌朝、アベラルドはすっかり身支度を終えたいつもの様子のレティシアに起こされた。
「もう、寝坊助ね」
「申し訳ありません」
起きたらゆうべの姫の一言にどうにか弁明を入れようとしていたのに、タイミングを失ってしまった。
「あ! 姫、腕をニーナさんかマーキス様に診て頂かなければ」
「大袈裟よ。必要ないわ」
ライタールまではそう遠くない。姫に鎧を着せた後、ニーナとマーキスの見送りを受け、午前中に出立すれば、夕方に差し掛かる頃にはもう到着している。姫や皆の前で無様に倒れたのもこの街であったな、と嫌な思い出が蘇る。
街の門をくぐると、高台である入り口から垣間見える港には、漁船から連絡船までが賑やかに並んでいる。戦争の機運が高まっていた頃に比べると、為政者であるレティシアやアベラルドとしては嬉しい光景だった。
「あら! 久しぶりだねえ、あなた達。今日はずいぶん人数が少ないけど、泊まっていくかい?」
ベンガルの病院に向かう途中、宿屋の女主人に声を掛けられた。ベッドのへたり具合に困っていたところを、羽毛をかき集めて助けて以来、その礼と称して毎回ただで泊めてもらっている。
その申し出を受け、アベラルドはちらりとレティシアを見やった。
「――はい。毎度申し訳ありませんが、一晩一部屋、ご都合頂けますか」
「アベラルド……?」
レティシアの小声の困惑を背中で受け止め、宿泊台帳に記帳すべく宿に入る。街中をDUMAでびゅんびゅん飛び回っても動じていなかった商売人である女主人は、当然こちらの事情を詮索はしてこない。アベラルドは波が寄せて返すような自然さで女主人に心付けをさっと握らせる。
女主人からは目配せの他にひとつ、せっかく詰め物を入れ替えたベッドの上で跳ね回るなとだけ念押しがあったので、真摯に頷いておく。
「アベラルド」
「何ですか?」
「……最初のライタールでは二部屋だったわ」
「それを言うなら、私はベンガル先生の所に入院していました。レイモンドが一部屋、ニーナさんと姫で一部屋。姫が『泊まった』のはこの宿では一部屋ですよ」
彼女の荷物を有無を言わさぬ柔らかな手つきで掠め取り、すたすたと部屋に入る。ラーカスの時と同様に部屋の奥に荷物を置いて、ラーカスの時とは逆に入り口で立ち竦んでいるレティシアに顔を向ける。
レティシアがこの部屋に入ってくれるか、どうか。
アベラルドは顔に出せない緊張を、肋の内側で抑えている。ゆうべ、姫を深く傷付けたアベラルドの行いを許してくれるかどうか、こんなことでしか試せない。
初な処女(おとめ)の部分にまで無遠慮に触れたくせに、唇に口付けられない理由をいくら並べ立てても、レティシアは納得しないだろう。それでも、アベラルドはどこかで線引きをしなければいけない。
(従者として――、)
「アベラルド」
果たして、レティシアは客室に入ろうとはしてくれなかった。
「先に、ベンガル先生の所にご挨拶に行きましょう?」
「……そうですね、そうしましょう」
ふ、と下げた視線で痛みを吐き出して、何ともない貌を作り、廊下で待っているレティシアの元へ歩み寄る。
ぱたりと部屋のドアを閉め、鍵穴を撫でるように施錠する。部屋をもう一部屋取ってもいい。そろそろ口を開ける頃の酒場で一晩過ごしても。
成人したために取れる選択肢を思い描いて振り向くと、そっと……仔猫を抱き上げるような繊細さで、左のたなごころに触れるものがあった。
窓からの夕光で顔を半分オレンジ色に染めた姫が、眉尻を下げている。右手の指先をアベラルドの左手に遠慮がちに差し込んで、柔らかな唇を薄く、開いては結ぶ。
酒場では決して見られないその光景を、アベラルドはただ、眩しいと思った。
「病院に入る前に……離す、から」
やっと言葉になったそのレティシアの声とは裏腹に、明確な意思を持って二人の手と手が繋がれる。いつかのような力強さで。
(いつだって。姫は眩しい)
大人になったアベラルドは、感情任せに姫に抱き付いたりはしない。手袋越しのかすかな体温をしばし味わって――その手を解く。
「あ、」
悲しませたりもしない。思わず出てしまった様子の声を、二人の手の中でぎゅっと潰してしまう。指と指とを絡ませあうと、指の股と指の先がじんと甘い痺れを伝えてきた。
レティシアは声も無く驚いている。
「――……」
「姫がラーカスで本当はどれだけ緊張していたか、少しは分かったかもしれません」
しばし固まっていたレティシアから、ようやくゆるゆると指先の抱擁が返ってきた。
「あなたは見られてもいいの?」
「男女で一部屋に泊まっているんですよ。今更です」
受付の女性に二人仲良く会釈をして宿を出る。気恥ずかしさを隠すような早足になってしまった。
「わあ」
広場の噴水の向こう高くで空は紺青に染まり始め、名残りの夕焼けを跳ね返して輝く海に、港に停泊している船の灯りがちかちかと光る。すなおに感嘆するレティシアの横顔を、アベラルドは見つめている。
「きれいね」
「はい、とても」
海風がびょうと吹き、首筋や耳介を端から冷やしていく。けれどもすっかり編み込んでしまった左手からの発熱が、脈打つたびにじわじわと身体全体に行き渡るようで、アベラルドはむしろ頬に火照りを感じていた。
「ふふ。いつ以来かしら……」
沖の漁り火を探すレティシアがぽつりと呟いた。繋いだ手が児戯のように揺らされたので、何を指しているのかはすぐに分かった。最後に手を繋いだ日のことをわざわざ思い出さないといけないくらいには、二人の距離はずっと、とても近くて誰よりも遠かった。それは多分、今も。
「病院、閉まっちゃうわね」
言いながら、姫はアベラルドの肩に頭を寄せた。
(ち、近、)
二人きりの夜をみっつ数えてなお、この距離感には勝手に心臓が早鐘を打つ。手袋越しでさして体温は伝わってこないくせに、左手は繋いでから今の今まで爪の先まで全部が熱を持っている。その上肩まで姫に占拠されては、熱を逃す先はもう顔しかない。広場中の視線が自分たちに集まっている気さえしてきて、端的に言えば――猛烈に恥ずかしい。
「……どきどきしてる」
「は」
恥ずかしがっているのを言い当てられて、アベラルドは肩が浮くほど動揺してしまった。
「アベラルドがそうさせるのよ。心臓に触ってほしいくらいだわ」
言葉の主人公が自分ではないことに安堵したような気になって、そこでやっと、レティシアの頬と耳のほの赤さに気が付いた。平気な顔をしているとばかり思っていたのに、夕焼けのせいでもなく、全力疾走した後でもなく、恥ずかしがってそうなっている、らしい。にわかに信じられない気持ちでいると、繋いだ手が握り直された。潤んだ大きな目に、ほんの少し尖らせた口が文句を叩く。
「だってこんな、こ、こい、こいびと、つな、ぎ……」
「あ――ええと……」
尻窄まりに小さくなっていく声と段々と伏せられる顔に二人の状況を明示されては、ますます意識せざるを得ない。
アベラルドとしては、実のところ、らしくなく半ば衝動と勢い任せの後先を考えない行動だったのだ。それがこうも姫に――自分に刺さるとは。
ちら、と様子を伺うように姫が上目遣いでこちらを見てくる。レティシアのことをずっと見ていたアベラルドとばちっと視線が合い、お互い赤い顔のまま照れ照れと見つめ合うことしか出来ないでいる。
お互いの裸も、秘所も、達する表情までも見せ合ったばかりなのに、しっかりと服を着込んでただ手を繋いでいる今の方が、もしかしたら恥ずかしい。
「――離し、ますか?」
「ばか」
「すみません」
罵倒が可愛いと思ったのは初めてだった。
繋がれた手がくんと引かれて、姫がようやく病院に足を向ける気になったことが知れた。逆らわずに着いていく。手を繋いだまま階段を降りるのが、バランスがいつもと変わって実はほんのり危ういことを、アベラルドは久しぶりに思い出した。
レティシアの左手が、楽隊に指揮を出すように階段を降りるリズムで揺れる。離れすぎないように、置いていかないように、姫のペースに合わせてとんとんと降っていく。アベラルドの今の鼓動より、ゆっくりと。
それでも短い階段は降り切るのに一分とかからなかった。市場の裏の病院の看板の前で、二人示し合わせたように繋いだ手を見る。
「――離し、ますね」
「……ええ」
姫の手が離れていくのをアベラルドは待った。階段を降りていた時間よりも長く待ったが、レティシアの人差し指はいじいじとアベラルドの手の甲をなぞるばかりでちっとも離れようとしない。
「――離さ、ないの?」
手が離れるのを待っていたのはお互い様のようだった。
困った。いっそ繋いだまま挨拶をしてしまっても良いかと考えて、この熱を秘めたものにしておきたいと考えている自分に気付く。
露見するのが怖いわけではなく……いや、それはやっぱり怖い。自分はどうだっていい。姫が――レティシアが、せっかくあの旅で築きあげた影響力が翳ることが、口さがない国民の餌食になってしまうことが、縁談が、破棄されてしまうことが。
(怖い)
けれども、ただ。
それ以上に、アベラルド自身がこの小さな旅を五歳のあの日と同じくらい大切に想っているから、二人だけの秘密の宝物にしておきたいのだ。離宮の隅にこっそり集めた透明石膏のかけらや、約束の丘でのたわいない内緒話や、姫を追いかけて駆けた城下の晴れやかな花壇の香りや、足裏にはずむ石畳の感触のように。レティシアがどう思っているのかは知る由も無いが、アベラルドが一方的に振り回されている訳ではないのだ、断じて。
傷付けても、傷付いても、レティシアが与えてくれる世界の彩りを、自分でも知り得なかった心の揺らぎを、正面からぶつかりあった命のぬくもりを、アベラルドは絶対に、ぜったいに誰にも教えたくない。
もしかしたら、それは未来の花婿への背信なのかもしれないが、レティシアと一緒に作った瘡蓋を、時折触れて想い出すくらい、幼馴染として正当に許される権利であるはずだった。
「では、」
アベラルドは離宮で遊んだ幼い頃を思い出し、子供じみた提案をする。
「せーの、で離しましょうか」
レティシアの瞳に花が綻んで、思わずつられて目を細めた。
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