想・喪・葬・相 ⑧「阿澄、おはよう」
「おはよ」
「ちょっと距離があるから、もし眠かったら寝ててもいいよ」
「いや、大丈夫だ。それで?どこに行くんだ」
「着いてからのお楽しみ」
二人で車に乗るのは久しぶりだ。
前に乗ったのは温泉地に旅行した時だったから、半年程前だったか。その時は遠慮なく助手席で寝ていたが、今日はとてもそんな気分になれない。
運転する曦臣をちらっと横目で見る。
幼い頃から見ていたこの顔を、今日を限りに見ることはない。大きくて白い手に触られることも、あの唇が「阿澄」の音を発することももうない。
二度と手に入らない宝物を、いつまでも覚えておきたかった。
「阿澄、どうしたの?私の顔に何かついてる?」
「ああ、ついてる」
「えっ!?うそっ!何がついてる!?」
「おい、危ないからちゃんと前みてろ」
手を伸ばして曦臣の頬に触れた。
「取ってやるからじっとしてろ」
大きくなってからはほとんど触ったことがなかった頬は、柔らかくすべすべしていた。
こんなに触り心地が良かったのならもっと触っておけば良かったと、また後悔した。
「とれた」
「何がついてたの?」
「たぶんゴミ」
「もうついてない?」
「ああ、ついてない」
「良かった。ありがとう、阿澄」
「どういたしまして」
向けられる笑顔に、以前の自分は仏頂面しかしていなかった。曦臣が笑顔を向けてくれることは当然だと思っていたから。
しかし、今日は下手くそなりに笑顔で返した。
すると曦臣は驚いたようで、一瞬目を軽く見開いたが、すぐに子供みたいな微笑みを向けてくれた。
曦臣が笑うと形良い唇の間から真珠のように綺麗な歯がちらりと見える。それを正面から見るのが本当に大好きだった。そんなことすら、ここ最近は忘れていた。
(ああ、そんなふうに笑ってくれるなら、もっと前からこうしていたら良かったんだな)
真実を打ち明けるまで、出来るだけ曦臣の笑顔を引き出そうと思った。
きっと、今後の人生で何度も何度も思い出すだろうから。
曦臣がいなくなった後も、あの瞬間は確かに幸福を感じていたのだと自分を慰めるために。
「そろそろ着くよ」
「おい、曦臣。今から行く場所って」
「あっ、あそこに看板が出てるね」
道路沿いの看板には犬の写真がでかでかと写っている。
向かっている先は、世界の様々な犬がお出迎えしてくれる観光施設だった。記憶が朧げな程幼い頃に行ったことがある場所だが、何故今になってそこに成人男性二人で乗り込もうとするのか、意図がわからない。
「ふれあいコーナーがあるね。まずはそこから行こうか。パレードもあるみたいだから、時間と場所も確認しとかないとね。阿澄も見たいところがあったら言ってね」
「あ、ああ」
「あっ、このショーはそろそろ時間だね。先にここに行こうか」
周囲は家族連ればかりの中で、180㎝超えの男二人がパンフレットを見ている姿はある意味犬より見ごたえがあるだろう。
しかし、曦臣はそんなことは気にもとめず、ずんずんと江澄の手をひいて目的地に向かった。
最初は引き気味だった江澄も、大好きな犬を存分に眺め触って遊べるとなると、童心に戻ったように目が生き生きとし始めた。
ふれあいコーナーでは子供達に交じり、お目当ての犬を膝に乗せ、笑い合った。
ここ数ヶ月の関係が嘘の様な光景だった。
久しぶりに見る江澄の笑顔に曦臣もほっと胸を撫でおろした。
(今日こそちゃんと話しをしよう。罵られても、阿澄だけが特別なんだとちゃんと伝えよう)
あれからずっと、江澄に見捨てられるかもしれない不安をどうにも出来ずに燻らせる毎日だった。
(阿澄をどうしたい?)
(幸せであってほしい)
(なら、彼氏と阿澄を応援するべきではないの?)
(それは嫌だ)
(何故?)
(私は阿澄と今まで通りに過ごしたい。けれど彼は阿澄を私から引き離してしまう。ずっと一緒だったのに、阿澄は私と距離を置こうとしていた)
(だったら、どうする?いつかは彼氏が戻ってくる。その時に暴露でもして奪う?それで阿澄は幸せだと言える?)
(それは⁈)
(このまま浮気を強要するのが阿澄の幸せに繋がるの?)
(違う。私は阿澄に最低なことをしてしまった。わかっている。でも、どうしても、阿澄が離れてしまうことに耐えられない)
(これから、どうしよう?)
どれ程自問自答を繰り返しても、答えは出なかった。道筋すら見えないから、解決の糸口も掴めない。
曦臣の中で次第に疲弊が溜まっていった。
しかし、そんなことを知らない叔父から、先日またもや見合いの打診をされたのだ。
「今はそれどころではないんです。どうか当分はお断りしてください」
反抗期らしい反抗期がなかった曦臣のぞんざいな態度に藍啓仁は驚いた。
「どうしたと言うのだ。何を悩んでいる」
「いえ、大したことではありません」
「仕事のことか」
「プライベートなことですので」
「何があったのだ」
「ある人との関係に悩んでいるだけです。詳細は相手の事情もあるのでお話できませんが」
「上手くいっていないのだな」
「そういうことになります」
「解決策はあるのか」
「思いつかないので悩んでいるのです」
「私に言いたくないなら、江澄に相談してみればいいのではないか?」
「江澄には言えません。今の彼に頼るわけにはいかないのです」
「江澄の具合が悪いのか?」
「いいえ」
「では、江澄と喧嘩でもしたのか?」
途端に曦臣が悲痛な顔で俯いたのを見て、藍啓仁は慌てた。
今まで曦臣が誰かと関係を拗らせたことなどなかった。曦臣は怒ったり悲しんだりという感情をほとんど表面に出さない。そうまでする程、他人に興味がないからだろう。
その甥がここまで表情を歪める程思い詰めているというのに、相談役になれそうな江澄とも喧嘩をしているという。
(まさか喧嘩の原因は、江澄が見合いに協力していたことを、先日私が話してしまったことか?そうだとするなら、江澄に対して申し訳ないことをした)
藍啓仁はきまりが悪くなった。
「お前が喧嘩をするとはな。だが相手が江澄なら仲直りもしやすいだろう。小さい頃から知っている仲なのだしな」
「そうでしょうか」
口から零れ出た声は驚く程か細い声だった。
(こんな甥は初めて見る。しかも、この年になって友人との仲直りの仕方を教えることになろうとは)
苦手分野を前に、藍啓仁は混乱した。
「江澄の好きなものでもあげればいいのではないか。それをきっかけに二人できちんと話し合い、仲直りしようと言えば、江澄なら無下にはしないだろう」
「阿澄の好きなものですか」
「そ、そうだ。江澄は犬が好きなのだろう?先日、招待券をいただいたのだ。確かここに……あった、ほら、これだ」
藍啓仁はやや早口で話しながら、机の引き出しから観光施設のチケットを探し当てた。
叔父の精一杯の提案を前にしても、曦臣は半信半疑だった。だが……
「曦臣、冷静に話し合いなさい。江澄はお前にとって、絶対になくせない存在だろう?」
部屋を出る直前の叔父の言葉に、初めて微かな光が見えた気がした。