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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ番外編。オリキャラに私の江澄への愛を叫ばせている話。時系列は天人五衰の五と六の間です。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #曦澄
    #オリキャラ
    original characters

    師父の姿絵「残忍」「気性が荒い」「人の話を聞かない独裁者」「しょっちゅう機嫌が悪くてうっぷん晴らしに子弟を殴っている」「六芸の大会で優勝しなかったら子弟は鞭打ちの刑に処される」「いつも人を貶してばかりでほめることはない」「夷陵老祖が憎くて鬼道を使ったやつをひっ捕まえて殺している」「自分が殺したくせに、気が触れて夷陵老祖は死んでないと思い込んでいる」「よみがえって復讐されるのが怖いから血眼になって探している」「温姓というだけで陳情に言っても門前払いだった」「庶民が困っていてもまったく助けてくれない」「血も涙もない鬼だ」「あんな冷酷でまわりをみていない宗主じゃ雲夢はもうだめだ。江楓眠さまのときが懐かしい」
     蓮花塢そばの町の大人たちは酔えば二言目には江宗主のことを悪く言う。
     母の店で酔っぱらった客たちが宗主のことを好き放題言うたびに、何度その尻を蹴とばしてやろうかと思ったが、子供の蓮蓮にそんな力はなかった。
     だから、腹いせに母親の作る香辛料が効いた辛い料理に唐辛子の粉をこっそり盛って二度とうちへ来る気を起こさないようにしてやった。それでも中には激辛料理が気に入ってさらに悪口を言いつのる困った客もいた。
     あーあ、私がお父さんみたいな仙師だったら、あんな糞野郎ども指一本で華麗に店から叩き出せたのに。
     道端で売られている江宗主の姿絵も人気がなくいつもたくさん残っている。おひざ元の蓮花塢だというのに。あれもお金を貯めていつか買い占めてやりたい。
     雲夢江氏に入門する前、白蓮蓮はそんなことをいつも思っていた。


     白蓮蓮が父の白銭銭と死に別れたのは九歳のときだ。
     蓮花塢の波止場で精武鴨頸(鴨の首肉を辛いタレで煮込んだ料理)の屋台をしていた母が、新年を迎えたばかりのある日得体のしれない熱病にかかった。そして母から父と姉にうつってしまった。このとき蓮蓮だけはなぜかその熱病にかからなかった。
     母と姉は高熱が出ただけで終わったが父は肺を侵されて熱がでてから七日後に死んでしまった。
     医師もはじめてみる病魔で過去の記録にもないため、何か呪術や邪祟の影響はないか、蓮花塢で父の遺体を検分することとなった。だから父の葬式をすぐに上げられなかった。
     十日ほどして氷漬けにされた父の亡骸は江宗主に連れられて家に帰ってきた。そのとき、今にも泣きそうに顔を歪めていたのは蓮蓮たち家族ではなく江宗主の方だった。
    『死んじまった大師兄の次ぐらいに俺は宗主とは長い付き合いなんだ』と父はいつも娘たちに自慢していた。
     母によると、彼らは修行時代つるんで犬に薬を盛ったり畑の西瓜を盗んだり屋台で金も払わず食べ歩きをしていたらしい。二人の馴れ初めは母と友人たちが蓮花塢の修練場に西瓜を差し入れして蓮の花托を大師兄と父たちからお礼にもらったのがきっかけだそうだ。
     両親が結ばれたきっかけがかの夷陵老祖のおかげだからか、世間がどれほど雲夢江氏の元大師兄のことをあれこれ言おうと父は修行時代の思い出話をしても娘二人にかの人の悪口を吹き込むことはなかった。夷陵老祖が討伐された後でさえも。
     父は討伐に参加していたがそのときのことを家族に語ることはなかった。母がのちに言っていたが当時は心身ともに疲れ切っていてしばらく食事も喉に通らなかったそうだ。
     江宗主が活躍したとされる討伐戦に蓮蓮は興味津々で、いつかそのときのことを詳しく聞けそうだったら聞いてみたいと思っていたら父は病で命を落としてしまった。
     父の死を皮切りに、肺病は雲夢江氏の門弟たちの間でもまたたくまに広がった。やがて雲夢中へ蔓延しそうになった。
     江宗主はやむをえず蓮花塢と近隣一帯を封鎖して遠方の土地との人の行き来を最低限にさせた。蓮花塢周辺に暮らす人々に宗主が許すまでなるべく家からでないように命じた。食糧は若い門弟が決まった時間に人家の前に届けてきた。
     波止場に食事の屋台がまったく並ばず、船も宗主の許可をえたものしか停まることはできなかった。
     得体のしれない肺病が蓮花塢を襲ったこのとき、蓮蓮は家をこっそり抜け出して蓮花塢の波止場へ行った。
     朝から晩までいつもにぎわっていたそこは閑散としていて風が吹いても塵一つ舞っていなかった。もし生き物であるなら息をしていないようだった。波止場に集まってくる魚を狙ったサギたちがたくさん我が物顔で上空を旋回しているだけだった。
     町の人が全員どこかへ連れ去られてしまったかのような空虚な光景は、幼かった蓮蓮の心に焼き付いて今なお離れない。
     蓮蓮の母も屋台を出せず父も死んで一家に収入はなくなってしまった。けれど、から雲夢江氏から父への見舞金と香典をもらい、さらに屋台を休業させた補償金が支給された。それらは合わせると母の数年分の稼ぎを軽く上回った。夏の終わりに家族四人で彩衣鎮まで旅行しようと父がたくさん貯めてくれていたお金もあった。
     当時の仙督のおかげで肺病は年内に治まってくれたので、年明けに母は手元のお金を使って蓮花塢そばの町中で空き家を借りて小料理屋を始めた。
     あとで母は言っていたが、江宗主は屋台仲間に公平に補償金を渡して、希望があれば新しい仕事先を探してやったらしい。封鎖中、蓮花塢周辺一帯に餓死者もでなかったという。
     今は波止場には屋台が少なくなってしまったが、この流行り病をきっかけに町中に新たな店がたくさん立ち上がって今もほとんどが経営されている。
     江宗主はたまに母のお店へ食事を食べに来るようになった。そのときは供もつれず私服でいつも一人で閉店近い時間だった。
     そのときいつも彼は浮かない暗い顔をしていた。まるで何か取り返しのつかない大きな失敗をしてしまったときのように沈んでいた。そしてほんの少しだけ体から鉄の匂いが漂っていた。
     けれど落ち込んでいるからと言ってそれで酔っぱらって母や姉、蓮蓮に当たり散らすなんてことを江宗主は決してしなかった。あるとき姉を無理やり横に座らせて酒を飲ませようとした客を紫電で追い払ってくれたことだってある。
     蓮蓮たち姉妹を舐めまわすような目で見てくる客や気の赴くままに彼らと母に怒鳴り散らす客、宗主や人の悪口を言って盛り上がって皿や杯を落として割ってしまう客の方が彼女たちにとってはよっぽど迷惑だった。
     江宗主が母の料理をつまみに酒を飲んでいる横で、蓮蓮と姉は寺子屋の宿題を教えてもらい、ときには三人で今日あったことをただおしゃべりした。
    「先日また見合いがだめになった」と宗主がぼやいたときは、五つ上の姉が「じゃ、じゃあわたしが宗主に嫁いでお世話します!わたしは身分が低いから下女でかまいません。どうか宗主のおそばにいさせてください」と顔を真っ赤にして宗主に告白した。
     なのに、江宗主は一瞬固まった後「しょんべん臭いガキが急に色気づきやがって。そんなませたことを言うのは百年早いわ」といつ嫁いでもおかしくない年になった姉をひどく冷たくあしらった。
     蓮蓮もまさか姉が江宗主のことを好きだとは思わなかったから彼と共に驚いた。だけど「お前の気持ちは嬉しい」の一言でも配慮してから断ってもいいのに。彼は立派な大人で姉ははるか年下の娘なのだから。宗主の見合いがいつも空振りに終わるのはきっとそういうところだと蓮蓮はこのとき悟った。
     またあるとき、蓮蓮は商いというものをやってみたいと江宗主に申し出た。母と姉の誕生祝いを買うお金が少女はほしかったのだ。二人の誕生日は一日違いだからたまった金が必要だった。
     江宗主はえらいぞと蓮蓮をほめてくれて、波止場のそばで切った西瓜を売る許可をくれた。すると開店初日若い門弟の人が蓮蓮の屋台へ来て西瓜をぜんぶ買い占めて行った。
     次の日もその次の日も同じ人が来て買い占めようとした。さすがに蓮蓮はおかしいと気付いた。「すみません、この暑さだと他に西瓜も欲しい人もいるだろうからお一人につき一個しか売れません」ととても申し訳なさそうに断って、江宗主に召しあがってもらいたいとまだ切っていない大きな一玉だけを渡した。
    『父さんを失くした私たち家族にずっとよくしてくれた江宗主が血も涙もない鬼だって? 残忍な人間だって? 宗主とご飯を一緒に食べたこともないくせに悪口ばっかり言うわ、こっちが子供だと思ったら舐めた振る舞いばかりしてくるようなそんなあんたたちは鬼じゃない立派な聖人君子だとでもいうの?』
     だから大人たちが何を言っても、白蓮蓮は自分の目で見て耳で聞いたものをまず信じることにした。だいたい人の噂なんてものはあてにならない。
     蓮蓮がときどき蓮花湖のそばで釣り人相手に釣餌を売っていると、今目の前を歩いていた人たちと次に通りかかった人たちでまったく正反対のことを言っていることもある。町に広がっている噂の真相を独自に調べてみたら人々が噂していたものすべてが間違っていたことだってある。
     人の噂はあてにならない、けれど、とも蓮蓮は思う。
     あるとき店先で捨てられていた子犬の引き取り先を江宗主に一緒に探してもらった。宗主も一匹飼っては?と蓮蓮がすすめたら「あいつは犬が嫌いだからうちでは飼わない」ときっぱり首を振られた。あいつって誰ですかと聞いてみたら江宗主ははっとしたように口をつぐんで、その後蓮蓮が何度かせがんでも決して教えてくれなかった。
     犬嫌いが誰のことなのかは、母が父の修行時代の話をしてくれたとき蓮蓮は偶然知った。
     そのとき、蓮蓮は江宗主が仙門百家に反旗を翻した大師兄を殺したという巷で当然のように信じられている話を信じられなくなり、大師兄が鬼道を使ってよみがえってくるのを宗主は信じているというばかばかしい噂は本当だったのだと気付いた。
     蓮蓮が雲夢江氏に入門したあとにようやく知りえた事実もある。
     宿舎の部屋で同室の先輩が夜着に着替えているときだった。通常は同輩二人で宿舎の部屋に暮らすのだが、雲夢江氏は女性の子弟が少ないから先輩と後輩で同じ部屋に暮らしていた。
     抜けるような白い背中に鞭で何度も打たれたような痛々しいあとが蓮蓮の視界へ飛び込んできた。そのあまりのひどさに入門したばかりの少女は目を丸くして思わず「師姐、その傷はどうなさったのです」と尋ねたら、悪い輩に奪舎されかけていたところを師父に救ってもらったその痕だと先輩はあっけらかんと教えてくれた。
     やっぱり師父は拷問なんてしていなかった、人助けをしていたんだ。
     今すぐ窓を開けて蓮蓮は師父の無実を外へ叫びたくなったが、先輩は続けてこう言った。
    「でも私は運がよかったほうなの実のところ。人の身体を奪舎した鬼道使いで師父からあまりにひどい拷問を受けて死んでしまった輩もそこそこいるそうよ。身体が死ぬと元の魂も戻ってこられないのよ」
     だから一歩間違えると二人死んじゃうのよね、と先輩は複雑そうな表情を浮かべた。
     蓮蓮はそのとき店に来るとき師父がまとっていた鉄の匂いを思い出した。そして知人の葬式にでもきたかのような浮かない顔をしていたことも。

     人の噂はあてにならない。けれどまったくのでたらめでもない。だからとても厄介だ。
     拷問というやり方は残忍だ。だけど、と白蓮蓮はふたたび思う。
     雲夢江氏には問霊のように死者の声を聞ける術はない、奪舎した魂を取り出せる紫電はあっても。そういうやり方でしか師父は大師兄を探せなかったのだ、おそらくは。それを世間の人たちは許さなくても蓮蓮だけは許して差し上げたかった。
     だって師父は待っていた。含光君とおなじぐらいの気持ちで大師兄のことを。
     今だってそうだ。
     でなければ蓮花塢の子弟たちに向けて、何人たりとも犬を飼ってはならないという規則がまだあるのはどうして?


     大師兄は二年前にこの世へよみがえった。けれど雲夢へは戻らず姑蘇藍氏の雲深不知処へ含光君と去ってしまった。
     そんな噂が蓮花塢そばの町に流れたとき、江宗主が母の店へ久しぶりに姿をみせた。
     どこか陰鬱そうだった今までとはちがって、その日は何かつきものが落ちたすっきりしたような様子だった。そのとき蓮蓮が大枚をはたいて買って読んでいた仙術本に目を通すなり『このバカ娘が!』と彼は初めて彼女に激しい雷を落とした。
     そしてその日、蓮蓮は雲夢江氏への入門を許されたのだ。
     蓮蓮が入門してから師父は鬼道使いを捕まえることはなくなった。鬼道の修士を捕まえるために各地へ出していた人手を、内容の大小を問わず領内のあちこちから寄せられる陳情に回すようになった。先輩の子弟たちはこれまで師父の顔色を窺って温姓の人を蓮花塢へ寄せ付けなかったが、徐々に受け入れるようになった。
     師父は、仙門世家の若い子弟が参加した六芸の大会で蓮蓮が惜しくも弓術で二位だったとき「よくやった」ととても嬉しそうに頭をぽんぽんと数回叩いてくれた。けれど大会会場で小遣い稼ぎに母特製の甘酒を売り歩いていたら馬術の部門に出場するのをうっかり忘れてしまい、二位は取り消しになった。厳しい叱責という激しい雷は落とされたがその罰として修練場の周りを千周走らされても紫電でうたれることはなかった。
    「江宗主が以前より俺たちの話を聞いてくれるようになった」「ここのところ機嫌がいい日が前より増えた。紫電をちらつかせて脅してこない」「弟子を直接指導される時間が長くなった」「初めて大きな仕事を任してくれて初めて宗主にほめてもらった」「雲夢江氏の子弟たちの人当たりがよくなった。今まで獰猛な猟犬みたいだったのに」「温姓の人間が行っても門前払いされなかった」「庶民の陳情をちっぽけなことも拾ってくれるようになった」「三本足の人形の女の子が夜中の雪隠に現れると言ったら雲夢江氏はすぐきてくれた。江楓眠さまのときでさえこんなことなかったぞ!」
     蓮蓮が入門してからこの二年の間、蓮花塢の内外で師父への評価は少しずつ変わっていった。
     師父が優しいのはずっと昔からだよ。子供の話もちゃんと聞いてくれていたよ。私は昔から知っていたよ。
     年若い弟子は世間に向けてそう大声で叫んで回ってやりたかった。
     それでも師父の姿絵はあいもかわらず不機嫌そうに世間をにらみつけている。彼を取り巻く世界全てが敵であるかのように。雲夢江氏内でも蘭陵金氏内でも。
     蘭陵金氏の屋台で、しかめっつらの師父の姿絵を買い占めながら師父がまだ世間に誤解されたままで悔しいと蓮蓮が思っていたそんなときだ。
     師父が妖狐の放った毒霧に倒れて金麟台に滞在することとなり、蓮花塢から薬となる花のしずくを運び主管から預かっていた書を動けない師父に代わってそのそばで読んでいたとき。
     ちくちくと小さい針がいくつも蓮蓮の首筋から背中に突き刺さった。
     なんだと思ったら、後ろにいるのは邪祟でも妖怪でも何でもない。沢蕪君だ。彼のすばらしい名声は、閉関してもなお蓮蓮のような若い世代に語り継がれている。
     蓮蓮からするとはるか雲の上の人と視線が合い優雅に微笑まれはするのだが、その微笑みは何か思うところがあるかのように少しぎこちない。
     何か無礼なことや粗相をしてしまっただろうか、最近はちゃんと空からではなく正門から金麟台へ入っているんだけれど、と若い弟子は不安に思った。
     報告が終わって蓮蓮が寝台のそばから下がるなり、江宗主は卓について待っていた沢蕪君に声をかけた。
    「沢蕪君、水」
     蓮蓮の師父は家僕に命じるかのようにさも当然のように言った。
    「おいお茶」と父が以前こんな調子で言ったら「淹れてほしいんだったらせめて「お茶下さい」とちゃんとお願いしなさいよ」と母に激怒されていた。
     いくら今の師父は体を動かせられないとはいえ、そんな無礼な調子で大世家の宗主に呼びかけて大丈夫なのかと蓮蓮は青ざめた。
     ところが、藍宗主は怒るどころか、なんと花のしずくが入った硯用の水差しを両手に宝物のように大切に持って、とろけるような笑みを浮かべ文字通り師父へ駆け寄っていったではないか。
     これはどうしたことか、射日の英雄がまるで大好きな飼い主に名前を呼ばれて走り寄っていく大きな犬のようだった。
    「江澄、藍渙と呼んでくださいと言いましたのに」
    「ならあなたもいい加減俺に対して堅苦しい物言いはやめたらどうだ、藍宗主」
    「そうだったね江澄。つい今までの癖でね」
     沢蕪君はとても照れくさそうに言った。
     やつれてはいるが絶世の美形が恥ずかしそうに頬をうっすら赤らめているおかげで、皮肉屋の師父も恋物語の公子のようにかっこよくみえた。
     まるで付き合いたての恋人同士のような掛け合いに、白蓮蓮は眉間と鼻に大きく皺を寄せて後ろ手に部屋の扉を慌ただしくしめた。
     何これ何これなにこれえええええ。
     年若い娘はその場で叫びたくなったがかろうじて理性が抑えてくれた。恥ずかしさのあまり剣に飛び乗り、羞恥から逃げるように庭から金麟台を急いで飛び去った。
     吹きすさぶ向かい風が娘の熱くなった頬を撫でて少し冷静になったとき、彼女はあることを思い出した。
     いつもお昼時に来る常連さんが夜奥さんを店に連れてきた。常連さんはいつものように姉と楽しそうに会話していたのだが、奥さんが落ち着かずそわそわしていたのだ。
     奥さんは垢ぬけてきれいな人だけれど姉より年はずっと上だった。彼女は若い娘に夫の気が移らないか心配しているようだった。姉さんに気があるなら奥さんを店へ連れてくるはずはないのに。めんどうくさい人だと失礼ながら思っていたが、その奥さんを斜め上に軽く越えたさらにめんどうな人がいた。
     ここ最近飛んできていたあの針はあの人の悋気であろう、まちがいなく。
     あの藍宗主が師父に目をかけてもらっている私を恋敵のように感じている。師父は親切心から亡くなった門弟の子の面倒をずっとみてくれているというだけなのに。
     ということは、沢蕪君は私の師父に恋をしているのだ。師父に自殺するかもしれないと心配されていた人が、今はその師父に恋をしているのだ。
     蓮蓮は気付いたらきゃあと上空で叫んでいた。
     夏が始まるか始まらないとき、彼女は夜中に江宗主の執務室へ呼び出されある絵師の護衛を命じられた。
    「その絵師は今心を病んでいる。お前は奴が首をかききらないように見張っていろ。見張っている人間がいることも気づかせておけ」と師父はそう言って若い弟子に金麟台へ行けと命じてきた。
     それがどうだ、今はもう恋敵の首をかききる勢いじゃないの。
     聖人君子と世に名高い沢蕪君が、単に江宗主のそばで子弟としての仕事をしているだけで小娘に嫉妬の針を無数に飛ばすだなんて。
     ほほえましいと思いもするが、今でさえ見えない針という凶器を何本も飛ばしてきているのだから、もし姉のように蓮蓮が師父に淡い恋心を抱いていたら針どころか剣で刺されそうだ。
     一見穏やかな藍宗主の持つ激しい悋気に気付くなり、夏も半ばにさしかかったけれど蓮蓮はうっすら寒気を覚えた。
     だが彼女が師父に恋心を抱くことはありえない。仙師として憧れ尊敬しているが、師父は夫や恋人にするには絶対めんどうな人だからだ。蓮蓮からすれば沢蕪君や姉は物好きの極みを通り越してもはやゲテモノ食いである。
     根は善良で愛情深くても、口を開けば皮肉ばかり本音は語らずでもえらそうな男なんて愛を語り合う恋人としては願い下げだ。
     金麟台から蓮花塢へ絵師の様子を報告に戻ったとき、どうしてそこまで単なる絵師を気にかけるのですか?と師父に尋ねたら、かの人は何も言わずに引き出しから一枚の絵を取り出した。
     やや色あせた端がいたんでいる紙には菖蒲の葉のように凛々しい少年が描かれていた。少年は左足を後ろへ払い右足で大地を強く踏みしめ、強い意志の宿った眼差しをもって後ろへ向けて剣を構えていた。
     墨絵にもかかわらず、少年は光り輝き今にも紙から飛び出して彼を後ろから襲いかかってくる者たちをその剣で次から次へと薙ぎ払いそうだった。
     若いときの師父だった。すっかりたくましい成人男性になった師父は弟子に自慢気に言った。
    「悪くないだろう? 心を病んで死なせるのにはおしい才能だと思ったのさ」
     けれど絵師を尾行して気付いたのだが、一介の絵師にしては身のこなしがおかしかった。あきらかに武人のそれで、おまけに優美で上品だった。姑蘇藍氏の人たちの身のこなしにとてもよく似ていた。でも命と同等だという噂の抹額を彼は身に着けていなかった。
     何者だろうと興味を覚えて、蓮蓮は彼が宿にいないときに部屋へ忍び込んで調べた。
     質素な行李には思った通り姑蘇藍氏の校服と抹額があった。雲深不知処への通行玉令には、夜狩で遭遇した含光君も持っていた特徴的な飾り紐がついていた。姑蘇藍氏内で高位のあかしだ。
     若い頃の師父と交流がある心を病んでいる姑蘇藍氏の貴人。
     師父は雲深不知処の座学に行ったことがある。藍宗主は封印の儀式から長らく閉関している。そこで絵師の正体を白蓮蓮はようやく察したのだ。やはり師父は胸の内を長い付き合いのある弟子にも明かさない人だとも思った。
     ただ、絵を描いて贈られるぐらいの仲だろうに、師父は彼女の前で一度も沢蕪君の話を出したことはなかった。若かりし頃の母たちに蓮の花托を一人渡さなかった師父に、大師兄は『お前は一生一人で食べていろ』と呪いの言葉をかけてきた、と苦々しそうに語ったことはあったのに。
     だから蓮蓮が金麟台にいる間、お二人はどんな関係なのだろうと首をかしげていた。
     けれど、今病に倒れた師父は沢蕪君をそばに寄せて心から寛いでいる様子をみせている。師父もまた沢蕪君のことを憎からず想っていそうだと若い弟子は思った。
     師父のあんな花がほころんだような機嫌のいい笑顔、犬にはよく向けられていたが、長い付き合いの蓮蓮たちにでさえついぞ見せられたことはなかった。
     そして雲夢江氏の若い子弟はあることを思いついた。我ながら名案だと彼女は思った。
     あとはあの嫉妬深い絵師がこの案にのってくれるかどうかだ。きっと師父のためならなんでもしてくれると蓮蓮は半ば確信していた。
     だってあの人は私と同じぐらい師父のことを大好きなのだから。


     次の日、師父に花のしずくを飲ませ終わった沢蕪君に蓮蓮は恭しく拱手した。
    「博学と名高い沢蕪君に弟子からお願いがございます。弟子の勉強を少し見ていただけないでしょうか? 詩経の一節で解釈がよくわからないところがありまして」
     蓮蓮は懐から一冊の書を取り出してみせた。魏無羨の再来とささやかれ始めている彼女にわからないところなど何もなかった。
    「小蓮、お前の師父は俺だろう? わからないなら俺に質問しろ」
     師父が寝台から不満そうな声をあげる。蓮蓮はなぜだかとても嬉しくなった。若い弟子は拱手を師匠にも向けた。
    「おっしゃる通り私の師は師父おひとりです。ですが今の師父にご指導をお願いしてお心を煩わせてしまうわけにはまいりません。師父は不肖の弟子の勉強を見て下さることよりも今はお体を労わることにどうぞ専念なさってくださいませ。沢蕪君、弟子は他家の門弟ですがご指導をお願いしてもよろしいですか?」
    「かまわないよ。座学では世家関係なく教えているから」
     沢蕪君は鷹揚にうなずいた。ついさっきまで蓮蓮に無数の針を飛ばしてきた人とは思えない寛容な態度だ。
     世の評判通りとても器の大きい人のようにみえるのに、師父のこととなると糸針の穴のように心が狭くなるのがいっそうおかしく感じられた。
    「では師父のお体にさわりますとよくありませんので、まことに恐縮ではございますが部屋の外でどうかご指導ください」
     そして二人は連れだって蓮池のそばの四阿へ行った。四阿へ着くなり本を懐へしまうと蓮蓮はふたたび拱手した。
    「実は学問のご指導ではなく、絵師の白木蓮殿にご相談したいことがございましてここまでお連れしました。だまし討ちのようなことをして申し訳ございません」
     深く頭を下げて顔をあげると、沢蕪君は夜空のように深い色の瞳を軽く見張っていた。絵を依頼されるなどそんなこと思いもしていなかったと言いたげだ。
    「白木蓮殿、師父の姿絵をまた描いてもらえないでしょうか。師父には内密にして。もちろん報酬は売上げの半分をお渡しします」
    「売上とはどういうことだい?」
     秀麗な顔をすっとこわばらせて、藍宗主は別の世家の子弟に問いかけた。
     雲夢江氏の子弟は、市井に流布されている姿絵はいつも機嫌の悪い絵ばかりで以前から快く思っていなかったこと、師父の笑っている姿絵を印刷所へ持ち込んで刷り姿絵の屋台に売ってもらい、江湖の人たちの江宗主への印象を少しでもよくしたいことを目の前の高貴な絵師に切々と訴え、その支援を懇願した。
    「絵の売り上げの半分は世に出回っている不機嫌な顔が描かれている絵を買い占めるために使います、私のために使うことはありません」
    「それならば本物の絵師を雇いなさい。何かの祝いに江澄本人に贈るためならまだしも、もし私の絵のせいで江澄の名誉がさらに傷ついてしまったら私は彼に顔向けできないよ」
     沢蕪君は至極まっとうなことを言って若い弟子を諭してきた。それは蓮蓮も予想していた返事だったからそこで引き下がらなかった。
    「絵師を雇うならば絵師と師父を引き合わせる必要があります。その前に師父に私の考えを打ち明けなければなりません。師父はきっと私の意見に反対されます。『そのときの風向きでいかようにも変わる世間の評価にいちいちかまっていられるか』とでもおっしゃって江湖にはびこっている誤解を放置されるでしょう。それが師父の徳の高さではありますが、弟子はそれが歯がゆくてなりません。世に苛烈の人と恐れられている師父は穏やかに笑うこともあるのだと江湖の人々に知ってもらいたいのです」
     蓮蓮はいつのまにか両の拳をにぎりしめ熱を込めて沢蕪君に訴えた。それは彼を説得するために大げさに演技していくうちに本心からでた振る舞いだった。
     沢蕪君も何か思うところがあったのか形のいい唇に長い人差し指をあてた。よし、きっともう一押しと蓮蓮は思った。再びかしこまって沢蕪君に拱手する。
    「それに弟子は師父に幼い頃からよくしていただいていますが、師父のあんな寛いでいるお姿をこれまで拝見したことはありません。雲夢江氏の子弟たちにでさえも、どんなに機嫌がよろしいときでさえも今沢蕪君に見せておられるようなあんな麗しい笑顔を向けられたことはありません。師父はどうやら沢蕪君『には』特別心許されているようにお見受けします。白木蓮殿にはいつもご覧になっている師父のお姿をご参考に、ぜひ師父が笑っていらっしゃる姿絵を描いてもらいたいのです」
    「江澄が私にだけ見せてくれている? あのかわいらしい笑顔を?」
     藍宗主は戸惑っているようで、その整った顔は磨き抜かれた玉のようにぱあっと光り輝いた。蓮蓮は大きく頷いた。
    「そうです、沢蕪君にだけです」
     実際のところ、あれは大好きな犬を撫でているときの顔と同じだ。
     対人間に向けては沢蕪君が初めてなのだ。だから蓮蓮は都合よくことを運ぶために沢蕪君を騙してはいない。少しばかり事実を強調しただけである。
     この次の日から若い子弟の背中に針が刺さってくることもなくなった。すべて彼女の計算通りである。


     雲夢江氏の氏弟が白木蓮に宗主の姿絵を依頼してからまもなくのことだ。
     蘭陵金氏の姿絵の屋台に江宗主の新しい絵が飾られた。
    絵の中で江宗主は赤い欄干に高い腰をあずけ、微笑んで腕を組み後ろを振り返ろうとしていた。その視線の先には美しい満開の蓮池が広がっていた。その絵からはまばゆい純粋な霊気が発せられていて神仏のように拝む人も現れた。
     この隣に実に対照的な姿絵が並んだ。黒衣に身を包んだ男が描かれた姿絵だ。その男は、衣の延長のような黒く淀んだ蓮池から半身をだし蓮の花托の茎を口にくわえて世の人々をせせら笑っていた。まことにまがまがしい気がその絵から発せられていた。男の横には夜叉と記されていた。
     二枚の絵は屋台で飾られるなり『菩薩と夜叉だ』としてまたたくまに巷で評判を呼んだ。

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