知る「……これ、か?」
スマホを操作して、動画サイトから目的のちゃんねるを見つけた司は、ひとつ呟いて首を傾げる。クラスメイトに「これめちゃくちゃオススメなんだよ最近見つけたんだけど本当にいい曲ばっかだから!!! 聞け!!!!」と請われ、検索をしていたのだ。ちゃんねる名は『OWN』。オリジナル楽曲を投稿しているちゃんねるらしく、クラスメイト曰く「素晴らしい楽曲ばかり」らしい。然し現在は更新を停止しており、新曲を待ち望むリスナーも徐々に諦めていっている、とのこと。それでも神曲が神曲なのに変わりはないから……! お前の口に、否耳に合うかは分からないけど……! と言われ、そこまで言うほどならと司は帰宅後の自室にてスマホを手に取っていた。画面に映るサムネイルはどうもどれもが暗い感じのものばかりであり、確かに趣味には合わないかもしれないと司は唸る。然しオススメされてしまったのだから、聞いてやるのが義理というものであろう。あそこまで言われる曲が気になる、という気持ちも嘘ではない。なので司は、耳にイヤホンを差し込み、適当に最新作らしい動画を再生した。
音が、刺さるようであった。
なんだろうかこれは。なんと、言えばいいのだろう。分からない。分からないまま曲を最後まで聞いてしまい、司はなにだか混乱をしたまま暗くなった全画面を見つめる。よく、分からない。分からないが、胸の内に何かがある気がする。内側から肋骨をひとつずつカンカンと蹴っていくような、快感とは程遠い気持ちが、巣食っている。けれどそれが一体なんなのかは掴めない。言葉として吐こうとすれば「なんだか胸がモヤモヤとする」程度のことしか言えないだろう。
なんだ、これ。分からない。分からなくて、司は眉を顰める。否、曲を聞いている間から、ずっと眉根を寄せていた。そういう、心持ちであったのだ。なんだろうか、これは。快か不快で言えば、不快、となるのだろう、きっと。然しそれさえもなんだかあやふやなような、よく分からない気持ちだ。
気が付いたら司は、もう一度と、再生ボタンをタップしていた。自分の気持ちが、知りたかったのだ。この曲を聞いて、自分は何を思ったのか。どうしてそう思ったのか。知りたい。だって、これもまたきっと、ショーに使える。そう、ショーに使えるのだ。どんな感情だって心だって、演技へ昇華できる。それが役者という生き物であろう。なので司はショーの為演技の為、曲を聞いて、己の心を知ろうとした。聞いて、その音から、自分は何をどう感じ取ったのか、胸の内に問い掛ける。そんな作業を続ける。
「……これは……、な、んだろうな……」
よく、分からない。分からないまま、気が付いたら夕飯の時間となっていて、司は母に呼ばれるがまま慌てて下の階へ降りていった。
食事も終わり、リビングのソファー、司は天井を見上げ腕を組む。
「……うーん……」
「? お兄ちゃん、どうしたの?」
「え?」
「なんだかさっきから難しい顔してるよ?」
言われて気が付き、司は居住いを正した。確かに先程から悩んでいた。食事中は家族との団欒で頭から蹴落としていたが、終わってからまた戻ってきたのだ。……あの曲を聞いている時の、不可思議な感情。それを解れないことによる不快感、悔しさ。
「もしかして何か悩み事?」
愛しの妹にそう問われ、司は苦笑した。そんなに分かりやすかったか?と訊けば、すっごく!と返された。どうにも、己は周りから見て分かりやすい質であるようだ。自身は自分の心のことを、こんなにも分からないでいるのに。
「いや、大きな悩み事というわけではないんだ。ただ、とある曲への感想が上手く出てこなくてな」
「感想?」
「嗚呼。何か、感じ取ったのは分かるんだが、何を感じたのかいまいち言葉にできないというか……」
「あー、そういう時あるよねえ」
「なに、咲希もあるのか?」
驚いた顔をした司に咲希は「あるよーっ沢山!」と力強く頷く。
「とっても凄いなーってことは分かるのに、何が凄いのか上手く言えなくってモヤモヤするの! 自分でも具体的に何が凄いのかよく分かってなかったり、言葉を知らなかったりして……。あとあと! 自分の知らないような感情を引き出してくる曲とか聞くとね、その時には「なあにこれ?!」ってなっちゃって、引き出された感情がなんなのかよく分かんなかったりするよ」
音楽って凄いよねえ、と咲希は笑う。そうか、そういうものなのか、と司は頷いた。うん、きっと、自分もそれなのだ。音楽の凄さに、どうしようもなくなってしまっただけ。あの曲は、クラスメイトの言う通り、凄い曲なのだ。……なんだかそう考えるとまた肋の内でモヤモヤとしたものが顔を出して、司は首を捻った。
「うーん……。咲希、オレはその、引き出された感情がなんなのか、知りたいんだ。咲希はそういう時、どうやって自分の感情を知るんだ?」
「ええっと、そうだなあ。他の人の感想を、参考に聞いてみるとかー……」
咲希は指折り数えながら思い付くままに今までの経験を述べていく。司はそれを頷き聞きながら、片っ端から試していくかと決意する。そんな中、最後の指を折った咲希が「あっそうだ!」と両手を合わせた。
「あのね、曲を弾く時もあるよ!」
「曲を?」
「うん! なんていうか、ただ想いのままに弾くの。リズムもメロディもなんにもなし! とにかく、知りたい分からない感情のことを考えながら音を出す! そうすると不思議とね、音が教えてくれることがあるんだ」
それは、作曲を担当する咲希ならではの理解法とも言えるだろう。然し司は、ピアノが弾ける。もしかしたら使えるかもしれない、と思った司は、咲希に礼を言って立ち上がった。
「うむ。弾いてみようか、ピアノを!」
「お兄ちゃんのピアノ?! アタシも聞きたいな!」
パッと笑みを見せ立ち上がった咲希に司は勿論と元気よく頷——こうとして、止まった。なんだか、胸の内のものが、体を堰き止めたのだ。
「……あー、いや。済まない咲希、今回は……」
「?」
「その、そうだ! 己との対話、というやつだろう?要は。だから一人でやりたいんだ。済まないな。然し事が終わったなら一緒に弾こうではないか! オレも咲希の音を聞きたいし、また連弾もしたいからな!」
誤魔化すようにダッと喋った兄へ咲希はパチクリと瞬きをしたが、直ぐに笑みを浮かべて「そっかあ、分かった! じゃあ楽しみに待ってるね」と愛らしく笑み、自室へ戻っていった。
それを見送り、司もピアノのある部屋へ向かう。迎えたグランドピアノは艶々とした黒き輝きを放っており、いつでも準備は万端といった佇まい。早速腰を下ろした司は、まず初めにスマホとイヤホンを取り出して、もう一度件の曲を聞く。よくよく耳を澄ませ、湧き上がる感情を心に書き留め、終わると同時にイヤホンを抜いた。そのまま雑に椅子へ落とし、ピアノの鍵盤へ指を乗せる。
ただ思い付くまま、想いのまま。リズムもメロディも考えず、心のままに音を出せばいい。
ダンッ、と力強く始まったソレは、確かに、己の感情をよくよく表しているように思えた。
嗚呼でも、違う。この心はこういう表現じゃない。そう、もっとこう……嗚呼、これだ。ア、次はこれじゃない。こうして……嗚呼、いや、こちらの音の方がいいか……。嗚呼、うん、よくよく表現できた。次はこの心、これはどんな音が当て嵌まるのかな——
ただ、想いのままに、想いに合わせた音を弾く。リズムやメロディを考えるのではなく、その時その時心に浮かばせた想いをより正確に表現できる音を探す。それは確かに楽しい事で、司は、咲希が作曲を楽しむ気持ちをなんだか理解できるような気がした。然しそんな家族愛も隙間に思うだけで、直ぐにピアノの音に流されていく。ダンッダンと続けて、また、想いを表現する。そうだ、こんな気持ちだ。違う、この音じゃない。そう、こっち。こうだ。こうやって、オレは——不愉快になってる。
そう、不愉快だった。不愉快なんだ。あの曲。なンだか、ムカムカとする、ような。そんな曲だった。何故なのかはまだ分からないが……聞いていると、苛立ってくるのだ。言い訳がましい、子供の癇癪、そんな風に駄々を捏ねている暇があるならもっと有意義なことに、それこそショーだとかに時間を使えばよろしい——嗚呼、そうか。オレはそんな風にあの曲を感じていたんだ。
司は納得して、そして不可思議になった。そんなに、不愉快になってしまうような曲に出会ったのは初めてだった。そも、司はそう簡単に何かを嫌うことはない。苦手だとかムカつくだとか、その程度ならあるが。こんなにもイライラと、チクチク刺したくなるような心持ちとなるのは、なんだか、自分相手以外には初めてだった。
力強いピアノの音が聞こえて、咲希は自室から下へ降りて、ピアノのある部屋まで行った。然し、扉を少し開け、そこで、止まってしまった。
なんだか、怖くなってしまったのだ。
あんな風に力強い音は初めて聞いた。叩き付けて、そのまま何かを壊してしまいそうな、あんな指遣いを、初めて見た。兄は、あんな風にピアノを弾く人だったかしら。もっと、優しく輝かしい音を奏でる人ではなかったかしら。
……けど、凄い。なんだか、凄く、引き込まれる。
怖くて耳を塞いでしまいたい程なのに、相反するように、もっと聞いてたいと思う気持ちも存在させられる。そのどちらの気持ちにも、体の動きを固められてしまうような、そんな音だ。一体、なにがキッカケであんな音を弾いているんだろう。曲の感想、と言っていたけれど。
……もし、あの音色が曲の感想だとするならば。随分と随分な、なんとまあ、心を掻き乱す曲なんだろうか。聞いてみたいな、と咲希は思った。こんなにも兄を可笑しくさせてしまった曲を、聞いてみたい。そう思った。
そして。ふと止んだ音に咲希は顔を上げる。兄はひどく疲れた様子で息を上げ、鍵盤を見つめていた。あんな調子で弾いていれば疲れるのも当然だろう。本当に、凄い音だった。聞き終わって、恐怖よりも興奮が勝ってきた咲希は、その感情のまま「お兄ちゃ〜ん! 凄かったよ!」と部屋に飛び込んだ。
「わ、咲希?! 聞いてたのか?!」
「勝手に聞いちゃった御免ね! でも本当に凄かった!!」
「そ、そうか……? なんだか夢中になって弾いていたから、よく分からないな……」
「えーッ! 本当に凄かったのに!」
咲希は興奮でキラキラと瞳を輝かせながら兄へ身を乗り出す。
「これこのままじゃ勿体無いよ! 曲として完成させよ!」
「え?! いや、然し、オレは曲の作り方なんて知らないぞ?」
「アタシが教えてあげる! 別にキッチリとした形じゃなくってもいいからさ、また弾けるようにするだけだよ! あ、なんなら動画撮ってネットにあげちゃう? 誰か聞いてくれるかも!」
キャッキャ、と語る様は可愛らしく、司はついつい笑みを浮かべる。浮かべて、そして「動画か……」と呟いた。頭の中には、現在もなお己のスマホ画面に映っているだろう、例の楽曲動画が浮かんでいた。