死は寒さと共に来る。
それは何よりも数多の肉体より魂を導いてきたタナトスが一番よく知っている事だ。死した身体は熱を失う。それは半神半人たる冥府の王子、血の神であるザグレウスとて例外では無い。故にステュクスの泉から這い出てきた蘇りたての身体は、まだ血が巡りきっていないのか死神たる己の肌と同じ様に冷たい。それは前々から分かりきっていたものであった。
だけれども、その日はとりわけ彼の体温を遠くに感じた。冥府への帰還と再会を歓び抱擁した身は生きているのにまるで死人の様に凍えている。燃える月桂冠も両足も輝きに翳りは無いというのに、文字通りただの「飾り」に成り下がっている。愛しき小さな炎は確かに目の前にいるというのに……コキュートスにでも落ちた弾みに、その熱も落としてきてしまったのだろうか?
思わず死神は抱擁を手放し、当然ながら王子は困惑をその顔に浮かべた。
「……どうしかしたのか、タン?」
「……どんな死に方をした、ザグ。まだ死を引きずっている。」
「どんなって……。」
王子は首をひねる。
「いつも通りだよ。地上に登って、少しだけ歩いて、そのまま力尽きての、自然死。」
けろり答える王子に、死神の表情は益々険しくなる。眉間に刻まれた皺が更に影を深く落としていた。
未だ疑いの眼差しを向ける死神に、流石に王子もこのまま対話を終わらすのは憚られ、改めて生と死の狭間、朧めいた記憶を辿る。
そして…。
「ああ、思い出した。……雨が降ってたんだ。だから、最後にこう思ってたんだ……『寒い』と。」
小さく頷きながら王子は呟く。あまり面白い死に方では無かったよ、と、困り顔に小さな笑いを含みながら。
だが、答えが出ようとも死神がその渋面を変える気配は一向に訪れ無かった。
「……成る程、理解はした。」
今度は死神が頷いた。
次の瞬間、王子の足先は石畳より離れていた。重ねられた掌、抱き寄せられた腰に甘く食い込むガントレットの爪先、それらを認識するのとほぼ同時に、光の翼で包まれた事を察知する。
だが、己の身に起きている事を理解した瞬間には、全てが終わっていた。
「……急に瞬間移動するなんて、今日は随分『積極的』だな。」
「茶化すな。……まさか気付いていないのか? 身体が冷え切っている。」
「え?」
ザグレウスは随分と間の抜けた声を零した。どうやら、本当に自身の異常に気付いていなかったらしい。
……だが、当然かもしれない。蘇生後の彼が最初に触れたのは死の化身だ。死神に体温と呼べる物は存在しない。加え、正常に機能していなかった自身との差を比較しようが無かったのだ。
「次の職務に向かうにしろ、一旦『休憩』をするにしろ、先ずは湯浴みをした方が良い。こんなに冷え切った身体は、まるで……。」
そこで言葉を区切り、タナトスは心苦しそうに視線を下げる。彼が頭を動かせば、夜色の外套の
合間から、流星の尾の如き銀髪がさらさらと流れ煌めく。それは彼の神の祖が持つ星の煌めき様でもあり、同時に目に見えぬ涙の輝きの様にも思えた。
「タナトス……そうか、ありがとう。」
その美しさに見惚れながら、王子ははにかんだ笑顔を返し、ようやく己の身体が冷えきっていた事実に気付いた。彼の暖かな思いやりによりようやく熱を帯びた心臓は、今の自分には些か熱い位だったのだ。
「……所でタン。わざわざ館の浴場じゃなくて、お前の私室の浴室に連れてきたって事は……期待、してもいいか?」
「……お前が望む事ならば、それはきっと俺も望む事だろう。」
「良かった。お前に許される限り一秒でも長く側にいたいよ、俺は。」
そしてはにかんだまま、今度は王子が死神の手を引いた。