小さな燻り 冥府の王子、と聞くと多くの者は最初は恐れる事だろう。冥界の支配者、冥王ハデスの息子……父王同様に冷酷で容赦なく、無慈悲な神であろうと。
所が、実際に王子と対面すると多くの亡者は唖然とする。王子は冥王とあまりに違うからだ。確かに王子は「神の子」というのもあり、その片目は冥王と同じ漆黒の中に浮かぶ炎を宿し、両脚は常に赤々と燃え上がり、タルタロスの亡者たちは「見えざる恐怖」と呼ぶほどに武勲に長けている。
だが、人間と同じくらいの背格好、健康的な血の気を帯びた肌、艶々とした濡れ羽色の髪、朗らかで人懐っこい笑顔。何より……王子は会話を好む、それは自身と同じ冥神達だけに限らず、使用人や館を歩く「ただの亡者」とさえも、気さくに会話を試みる。その有様を「神らしくない」と父王や他の神に咎められている場面も多数目撃されているが……王子は気に留める様子はなかった。
「へぇ、川の魚は特に捌くのを気を付けないといけないのか。」
そうして王子は、今も亡者との会話を楽しんでいる。今日の相手は酒場の料理長だ。冥府では食事は必要不可欠というわけではない、だが、食事は時として活力を与えてくれる。ザグレウスも少し前まではほとんど食事を必要としなかったものの、冥界昇りで地上の川住みを、ペルセポネの菜園で多彩な野菜を知った。元々知的好奇心が旺盛だったのもあり、そこから地上の食の有様を知る事にも楽しみを見出したザグレウスは料理長の話に時に瞳を輝かせ、天真爛漫な笑顔を咲かせ話を聞いていた。
『ええ、特に生はダメです。死にます。』
「はっきりいうなぁ…でも、この間のマスは美味しかったよ。」
『美味しく召し上がられたのなら良かった。ただ王子が下さる魚はその心配は無いと思います、「冥界の門」をくぐって来てるんですから……。』
そんな、他愛のない談笑をしていた時だった。
じんわり、冷たい気配が酒場を包み込み、揃って会話がピタリと止まる。まるでデメテルの恩恵が現れた様な冷気、だがその背筋に這い上がる寒気に身に覚えがあったザグレウスは、確かめるように自分の背後にいるであろう人物を確認すべく振り返った。
「……失礼、ザグレウス、少しいいか?」
「ん? どうしたタナトス?」
予想通り、死の気配と冬の気配は似ている。ザグレウスの目にこちらへ歩み寄ってくるタナトスの姿が目に入った。いつも通りの冷淡な無表情に、感情のほとんど含まれない機械的な声色。だが……。
「……少しばかり、時間を借りる。」
「ん!?」
一瞬であった。タナトスは無防備なザグレウスの腕を掴みそのまま自身の方へ引き寄せ、抱きこむと同時に転移の為の翼を広げて、王子と共に翡翠の炎に巻かれ消えてしまった。
尚、一人残された料理長は、未だに慣れぬタナトスの死の気配に、かの神が消え去った後も暫く震え上がったままだったという……。
「……ザグレウス。」
「お、おう。」
ザグレウスから、らしくも無く動揺で上擦った声が零れる。一瞬の転移で連れてこられたのはタナトスの部屋だ。相変わらず殺風景で、出入りも少ないのか少しばかり埃っぽい。いや、今はそんな事はどうでもいいんだ。
タナトスは相も変わらず無表情のまま、じっとこちらを見据えている。借りる、と言われたが自分は何かしでかしたのだろうか……いや、気に障る事があったらすぐに教えてくれ、と言った事はあるが、ここまで急に詰め寄られると心の準備が出来ない。
ザグレウスが一人焦りと不安を抱え始めた時だった。
「……すまない、しばらくこうさせてくれ。」
その肩にぽすり、と、タナトスが顔を埋めてきたのは。
そして、そう主張してきた声色も、先ほどと違いやや力が無い。突然の出来事にザグレウスは驚きで目を丸くしながら、その弱々しい様に思わず恐る恐る自分もタナトスをささえるべくその背に腕を回した。
「タン?……どうした、気分でも悪いか?」
だが、タナトスからの返答は、ザグレウスの予想と少しばかり……いや、大分違っていた。
「お前が……他人に、笑いかけている姿を見ていたら、妙に……。」
そこで死神は押し黙る。声を出さないか代わりと言わんばかりに、抱きしめてくる腕の力が少しずつ増してゆく。そこでザグレウスは「ああ」と合点が言ったように小さく呟いた。
つまり「モヤモヤしたと」いうのだ、タナトスは。ザグレウスが自分以外の誰かと笑顔で会話をしていた姿に。
「……言うな、自分でも狭量な行いだと恥じている。」
「いや、まだ何も言ってないぞ俺は……それに、俺実は……ちょっと、嬉しい。」
以前、タナトスは「自分が誰かにどのような感情を抱こうとも自分の自由だ。」と告げた。恐らく、その時の言葉は本心なのだろう。だが……以前と違い、今まで無かったタナトスの新たな感情が……ある種の独占欲が生まれ落ちた事を察し、ザグレウスの心に様々な感情が沸き上がる。驚き、好奇心、そして喜びと幸福感。
「……お前が俺の事を凄く尊重してくれるのは分かってるし、とても嬉しい、でも……時には、遠慮しなくていいんだ。タナトスは俺の中でも『特別』なんだから。」
そこでザグレウスは、自分もまた目の前のタナトスの首筋に自分の顔を埋める。じんわりと赤く染まった顔を隠す照れ隠しの様に、自分を思う相手に甘える様に。皮膚がこすれ合って、タナトスが纏う優しい菫の香りがふんわりと自分を包み込んだ。
「それに……お前に求められるのは、嫌じゃ、ない。」
「……ザグ。」
抱擁していた身体がゆっくりと身体が引き離される。同時に、自分の顎にタナトスの指先が添えられ、否応なしに顔の向きを合わせられた。死神は柔らかくも、どこか蠱惑的に微笑んでいた。
「……随分な殺し文句だ。」