スタジアムに吹き荒れ始めた砂嵐に視界が完全に遮られた。舌打ちしようにも口を僅かにでも開けばすぐさま砂利が入り込んで唾液を砂まみれにされてしまうことは目に見えていたため、なんとか目だけを眇めて様子を伺う。こちらは視界不良で仕掛けられない、けれど確実に相手は砂嵐の向こうから迫ってきている——その気配がある。
「——っインテレオン! 避け……」
「ジュラルドン、ドラゴンクロー!」
鋭い一声が飛ぶ。瞬間、砂嵐を切り裂いて、鋼鉄の爪がインテレオンの胴体に食い込む。
一瞬の攻防だった。無防備な体勢で一撃を喰らった水トカゲの体が吹き飛び、マサルの足元にどうと倒れる。
「インテレオン!」
『マサル選手のインテレオン、ダウン——ッ! 勝者キバナ選手! 果たしてこのナックルわくわくふれあいフェスティバルで彼に勝てるトレーナーは現れるのか——!?』
晴れた砂嵐の向こうに、勝ち誇るでもなく、ただ当然の結果を受け止めるようにこちらを見下ろすナックルジムリーダーの姿が見える。冷えたその視線に、どうしようもない敵わなさを覚えてマサルはぐっと拳を握る。
そもそもナックルわくわくふれあいフェスティバルって何だよ。
本日のナックル城の中庭では縁日が開かれていて、青空の下、射的だったりトサキントの稚魚すくいだったり、ペロッパフあめやバニリッチアイスの屋台が所狭しと並んでいた。ジムチャレンジとは違って地域のお祭りということで、人波も地元住民しかおらず緩やかだ。この日のために街に貼り出された文書ソフトでの手作り感溢れるチラシには、スタジアムのイベントとしてジムトレーナーのポケモンたちと触れ合おう!という文言とニコニコ顔のデフォルメのトレーナーのイラストが掲載されていて、つまりはどこからどう見ても子ども向けイベントの体をなしているのだった(なんといってもわくわくふれあいフェスティバルだ!)。その所為かスタジアムの客席も、走り回る子供や休憩をするお年寄り、屋台の食べ物をシェアする家族連れなどでまばらに埋まっているのみだ。
挑戦者として呼ばれたマサルとホップも——ついでに言えばビートとマリィも、ちょっとしたイベント出演のつもりだったのだ。
「今日のキバナさん強すぎる……」
マサルがすごすごとスタジアムの客席に撤退すれば、「お疲れ様です」とビートから大きめの紙コップが差し出された。冷えたそれを受け取り、少し傾けて舌先で舐めるとピリリと炭酸の刺激があって、サイコソーダの味がする。
負け試合の後はライバルの優しさが身に沁みる。
「ビート、ありがと……」
「勘違いしないでください。ホップくんが買ってきてここに置いていたので邪魔だっただけです」
ビートがイッと口をひん曲げながら自分の手元を指差す。アラベスクジムリーダーとして普段背負っているキラキラは、どうやら試合中にキバナに剥がされたままなおっていないようだった。
「しかしダイマなしルールとはいえキバナさん絶好調だよなあ」
「いや、あれは……」
しかしマサルの言葉に、何故かホップが言い淀む。
「あれ、絶好調なのか、キバナさん?」
「? そうじゃないの? 不調には見えないけど」
「まあ、それはそうだな……」
四人が視線を注ぐ中、新たな挑戦者の地元住民に勝利したキバナが天を仰いで吠える。ナックルわくわくふれあいフェスティバルの盛り上がりは最高潮だ。
マリィが首を傾げる。
「ていうかこんなにガチならダンデさん呼ばんとか? もうエキシビジョンマッチしたらいいのに」
「権利関係とか色々あるんじゃないんですか。こんなところで野良バトルなんて始めたら、ギャラリーも詰めかけそうですし」
「いや、というか多分物理的に無理なんだぞ」
口を挟んだのはホップだ。どういう意味だ、と視線で問うたビートに向けて肩を竦める。
「アニキ、先月からカロス出張だから」
「ああ、……そうなんですか」
「あーだからタワーの昇格戦休止になってるんだ」
忙しいんだろうなとは思ってた、とマサルが納得する一方で、ビートはどうしても納得いかない顔をする。
「じゃあ彼はバトルできなくて荒れてるってことですか?」
「ん……そもそも勝ってるのを荒れるって言う? かなり好調に見えるけど」
「……そういえばホップさっきなんか言いかけてなかった? 好調か?って」
「いや……そうだな」ホップが慎重に、言葉の正しさを確かめながらのように言う。「……好調というより、オレには飢えたルガルガンみたいに見えるんだぞ」
そのとき、ブツッ、とマイクの入る音がスピーカーから響いた。オンになったのはキバナの胸元のピンマイクだ。思わず顔を上げた四人の頭上から、地獄の釜を開いたような声が響く。
『チャンピオン』
見れば、スタジアムに降臨するドラゴンストームからスッと手がこちらへ差し出されている。普段の人の良いにこやかな笑みに、今は何だか妙に威圧される。
『挑戦者が途切れた。オマエはもう一戦できるよな?』
「ご指名ですよ、チャンピオン」
「気張らんとね、チャンピオン」
「ひえ……ホップぅ……」
「オレももういっぱいいっぱいだぜ」
そのとき——バサリ、と一際大きな羽ばたきの音が頭上から響いたのを、その場にいた全員の耳が捉えた。まさか、という思いが一斉によぎるのと、スタジアムの地面に特徴的な影が落ちるのが同時だ。
ずん、と巨体の着地を支える足。
燃え盛る炎の尻尾。
主人を背に乗せて降り立つしなやかな橙の体——リザードンだ。
そしてその背から降り、鮮やかな赤のジャケットを閃かせる影。
「オレを差し置いて、随分と楽しそうなことをしているじゃぁないか——キバナ!」
「……ダンデ」
バァン、と派手にリザードンポーズを決めてスタジアムに降り立ったダンデに向けたキバナの呟きが、マイクを通してスタジアムに響き渡った。その声に滲む感情を、マサルは一瞬捉え損ねる。
待ち望んだライバルを目にした喜びは確かにあっただろう。けれど押し殺された飢えと渇きが混じれば、竜の呻きとて濁って聞こえる。
「……オマエが来られるとは思わなかったぜ」
「それは日程的な意味でか? それともよく迷わず辿り着けたなという意味で?」
「両方」
端的なキバナの切り返しに、ダンデが苦笑するのが見える。マサルたちの元に声が届くのは、ダンデが声を張っているかららしい。客席が固唾を飲んで見守る中で、ずんずんとキバナと距離を詰め、ピンマイクを奪うように胸元に手を当てる。
入るのは笑いを含んだ囁き声。
「だってこんなにオレの不在をさびしがっているライバルを、放っておけるわけないだろう」
「……オマエなしでも楽しんでるつもりだったが」
キバナがグローブをした手で口元を覆った。笑ってる、と今度はマサルは直感する。それはタワーでよく見る仕草だ。ダンデもゆっくりと帽子をあげ、互いに喜色を悟らせまいと抜き身の感情を覆い隠す。
「『寂しかった』と言えば、かわいがってくれるか? 委員長」
「そんなこと言わせて悪かった、って抱き締めてやるよ、キバナ」
踵を返したダンデの背に、トレードマークのマントが見えるようだった。「リザードン!」と相棒をボールに戻す。キバナが己のトレーナーエリアに立って待つ。腰を落として既に臨戦態勢だ。ダンデが地面に引かれた白線を踏んで向き直る。二人の間にそれ以上の言葉は要らないらしかった。審判が声を掛ける——「試合開始!」
目の前で繰り広げられる、リーグファン垂涎の試合を食い入るように見つめながら、マサルは今この瞬間を最前列で観戦できている恵まれた自分の運に感謝する。
これはさすがに言わないとだめだろう。
ありがとうナックルわくわくふれあいフェスティバル。