月の石はきっと、今日みたいな夜を閉じ込めてできているに違いない、とダンデは月影を踏み締めながらぼんやり考えていた。頭上では、さあっと雲のヴェールを取り払ったような空に、煌々とまるく光る月が浮いている。残念ながらその表面にはピッピの姿は見当たらなかったが、代わりに海に落ちた写し身の上でテッポウオがぽちゃんと跳ねた。今夜は特に月が綺麗に見える日らしい、とは昼間に月見の計画を立てていた子どもたちからの情報だ。
それを聞いたから、というわけでもなかったが、ダンデはなんとはなしにふらりと部屋を出て、当て所もなく歩を進めていた。隣には、バディであるムゲンダイナがいる。外皮の奥の内臓部が、うっすら光を滲ませ脈打っている。ずるずる、と長い尾を砂浜の上に引きずる音が、波の合間に響く。
人のいない夜の海は静かだ。
しばらくして、ふ、とムゲンダイナが動きを止めた。くい、と首を持ち上げて、無言で空を見上げている。
「……やっぱり少し、さみしいか?」
頬擦りして撫でてやれば、ムゲンダイナは無表情の中にも僅かながらの肯定の意を滲ませて、ダンデの腕に遠慮がちに触れた。ムゲンダイナは毒性を持つ種族だが、コツを掴めばふれあいはさほど危険ではなかった。一人と一匹で波打ち際に座り、夜空を見上げる。
相棒のリザードンではなくムゲンダイナを連れ出したのは、ムゲンダイナの傷に触れてやりたかったからだ。
ダンデは宇宙がどんな場所かを知らない。目の前に広がる星空が科学的には何で構成されているかを、知識としては知ってはいるが、ムゲンダイナが隕石に乗ってこの地にやってきた、その長い旅路の様子は想像でしか量ることができない。それはまるで新大陸発見のために一面の大海原に手漕ぎボートで放り出されたようなものだったのかも知れなかったし、満足のいくバトルのために答えのない道をがむしゃらに手探りで駆け抜けたようなものだったのかも知れなかった。
「だからまあ、多分オレは、多少はキミの気持ちをわかってやれるんだ」
揃いの衣装の所為かはたまたバディストーンの所為か、ダンデは随分と感傷的になってしまっている自分を自覚していた。一つに束ねた髪が波風に揺れる。こうしてムゲンダイナと似た構造の外皮に身を包まれていると、魂までムゲンダイナと共鳴してくるようにさえ感じてしまう。
もし隣にいる巨大な竜が、空の向こうのはるか遠くの旅路を想ってさみしいという感情を浮かべるなら、寄り添ってやりたいと思うのだ。
「……まあ別に、オレは故郷に帰れないからというのではないんだが」
そこはオレは恵まれていたな、とムゲンダイナを撫でながら思う。理解のある家族がいて、支え合える仕事仲間がいて、競い合えるライバルがいたから。そのお陰で、ずっとここまで無敗のチャンピオンをやれているのだ。
時折焦がれるように空を見上げるムゲンダイナの気配を感じるたび、そういうものを与えてやればいいのにな、と思う。
例えば先日の隕石騒ぎの際にはホウエンのはがね使いの彼が宇宙へいく手筈になっていたと聞いている。このパシオには、宇宙に飛び立つ環境が整っているのか、とダンデはそのとき初めて知った。同時に可能性を手にした。
さみしさを埋める何かを、探しに行ける可能性。
「……ダンデ!」
思考を引き戻したのは聞き慣れた声だった。はっと息を飲んで、それから砂浜に三角座りじゃあさすがに格好がつかない、と慌てて立ち上がって砂を払った。ダンデはいつでも彼の前では格好のいい男でいたかった。
ムゲンダイナもゆっくりと身じろぎをして声の方角へと首をやる。
「……キバナか。どうした?」
そう言って振り向くと、ライバルはひどく焦ったようにダンデの元に駆け寄ってきた。月明かりの下で見る彼の端正な顔は必死の形相に歪んでいる。体力など余るほどあるはずなのに、何故か息を切らしてジャージの肩を上下させている様子は、かなりの距離を駆け回っていたのだろうと思わせた。
しかし何か緊急の用か、と聞いても、ドラゴン使いの男は「ああ、いや……」としどろもどろになって、手を忙しなく動かすだけだ。いつも自信に溢れた振る舞いをしているこの男にしては、いささか珍しい行動だった。
「……キバナ?」
「……あのさ」
「うん」
相槌を打つが、続きの言葉は中々彼の口から出てこない。口を開き、奥歯に物の挟まったように口ごもり、ぎゅっと目を瞑り、葛藤を耐え忍ぶように全身を震わせ——そうしてようやく聞けた言葉が。
「ハグ、していいか?」
「……? 何故? 構わないが……」
唐突でらしくない質問に戸惑う。キバナはコミュニケーションが達者ではあるが、同時にむやみやたらとパーソナルスペースを侵害する接触は、恐らく無意識だろうがあまり好まない傾向にある。なのにハグ。彼がその考えに至った道筋がさっぱりわからなかったが、キバナがいうのだからきっと意味があることなのだろう。「ほら」と両手を広げると、キバナは躊躇ったようにたたらを踏んだのち、恐る恐るこちらの体を抱き締めてきた。
彼の大きな手が背に回ると同時に、安堵の息を首筋に感じる。
「……ダンデ」
よかった、と吐息混じりの呟きが漏れるのを聞き、ダンデは抱き締め返すべきか迷わせていた手の動きをピタリと止めた。
彼の体温に、急に呼吸を圧迫されたような心地になって動けなくなる。
「なんだかオマエ、迷子になったら月にでも行けちまうんじゃないかって、思って……」
そう切々と訴える声は、あと数分でもダンデが彼の前から姿を消していたら涙声になってしまったのじゃないかとさえ思わせる弱り具合だった。どうやら随分と心配させてしまったらしい。別に、ただ散歩に出ただけなのに大袈裟だろう、とどこかで冷静に分析する自分もいたが、それはオレが言えた義理ではない、というのがダンデの中での総意だった。何せ散歩に出ただけ、で思いもよらない場所に辿り着いてしまった過去の輝かしい実績を上げればいとまがない。
そしてダンデには、キミを置いていくわけないだろう、と断言することができない。
だからそんなに心配するな、と抱き締め返すことが。
「……さすがのオレもそこまで方向音痴じゃないぜ」
言いながら、ゆっくりとキバナの体を自分の体から引き剥がす。キバナもさすがに気まずさを感じ始めていたのか、案外簡単に離すことができた。かと思えば、照れ隠しのように笑って「よし、バトルでもして帰るか?」とボールを見せてくる。ダンデは笑って首を横に振った。二人とも上の空で、まともなバトルになるわけがない。
「いや……今日は大人しく帰るぜ。ムゲンダイナも休ませてやりたいし」
「あっそうだよな、ごめんなあ、ムゲンダイナ。ダンデとゆっくりしてるとこ邪魔して」
キバナに撫でられたムゲンダイナが、否定の仕草を示すように首をぐるりと動かした。ダンデはその、ゆるゆると宙に揺れる骨の体、その中で脈打つ心臓をじっと見る。流れ込んできたように思えていた切実なさみしさは、既に雲散霧消してしまっている。それが果たして、ムゲンダイナがもう感じる必要がなくなったからなのか、ダンデの側で取り落としてしまったのか、ダンデには判別がつかなかった。
「でも、キミがきてくれて助かったのは事実だぜ」
「んー?」
月が流れてきた雲に覆われて、一瞬世界が暗がりに隠れた。キバナに引き戻される直前に考えた話は内緒のままに、ダンデはにこりと己のライバルに笑いかける。
「多分、オレとムゲンダイナだけだと、今夜は朝まで部屋に帰れなかっただろうからな!」