ぱたたた、と遠くからマメパトの羽音がする。
差し込む日差し。爽やかな朝の目覚め。
「ん……」
キバナはゆっくりと瞼を持ち上げた。まず音もなく回る天井のファンが目に入り、ついで掃き出し窓越しの朝の。自室だ。シーツの海から身を起こす。ふぁ、と伸びをしようとして、ずきりと痛んだ額を押さえた。顔を顰める。
何だっけ。昨晩はそう、ダチと飲んでて。勢い余って少し飲みすぎてしまったのだった。頭痛は二日酔いの賜物だろう。帰路に着いた記憶すらなかったが、こうしてラフな格好の寝間着に着替えて、自室で寝ていたということは、オレさまは無事家に帰れたらしい。
いくら自棄な気分だったとはいえ、飲みすぎるものじゃない、と反省しながらベッドから降り、皺の寄ったシーツを整えようとして——キバナはそこに、異変を見つけてしまった。
枕の下に挟まるようにして落ちていたそれは、白いシーツの上ではひどく目立つ。
見覚えのない、長い一本の毛髪。
いや——逆だ。色も長さも、見覚えがありすぎる。
キバナの指がつまみあげたのは、艶やかなすみれ色の髪の毛。
肝心の昨夜の記憶は、ぽっかりと穴が空いている。
「ジュ……ジュラルドン!?」
手にした髪の毛から目が離せないまま、すがるような気持ちで枕元のボールホルダーから相棒の入ったボールを掴み取った。ぽん、と軽い音と共に部屋に現れた相棒は少し眠そうだ。おはようの挨拶もそこそこに、キバナは目撃証言を募る。
「あ、あのさ……昨日って、ダンデ来てた?」
切羽詰まった調子で発された問いに、相棒はじっと硬質な瞳でキバナのことを見つめたかと思うと——ふい、とそっぽを向いてしまった。動揺するキバナを放置して、ドスドスと寝室から出ていってしまう。
「なに!? どういう返事!?」
わからない。頷くでも首を横に振るでもなく、知らないと訴えるでもない。黙秘だ。知ってはいるが、告げるべきでない。去ったジュラルドンの背中は主人にそう告げていた。
キバナは焦る。だって、単にダンデが来て帰っていったというならジュラルドンがあんな態度を取る理由がない。
何より単にダンデが"来た"だけでは。
ベッドに髪の毛など落ちようがない。
ここでキバナは二択を突きつけられることになる。即ち、自分は昨夜、ダンデをベッドに招き入れたのか——それともそれは、ダンデに似たゆきずりの相手だったのか。
キバナは頭を抱えた。だって、普段そんなことをしないとはいえ、後者の方が絶対に可能性が高そうだ。し、その方がずっとマシだ、と思ってしまう自分もいる。見知らぬ相手を家にあげて共寝をするなんて、危機意識がなさすぎて最悪だろと思うのに、それでも、だ。
だってオレさまは、ダンデのことをそういう意味で好きではない。
いや好きなのか?
落ち着きなく開閉するキバナの拳に手汗がじわりと滲む。キバナはわからなくなっていた。キバナにとってのダンデは、いいライバルであり、いい友人だ。それ以上、何を望むというのか。
けれどアルコールにより正常な判断を失った自分が、それ以上を望んだ可能性を、現に今否定できていない。
想像が——できてしまう。
気づくと、ジュラルドンがコップを持って隣に立っていた。水を汲んできてくれたらしい。ありがと、とそれを受け取って飲み干すと、キンキンに冷えた水が口内を潤してキバナに僅かに冷静さを取り戻させた。
それからのキバナは必死だった。髪の毛以外に何か痕跡が見つかれば、昨晩この家に誰がいたのかがわかるかもしれない、と家中を隅から隅まで調べ上げた。その結果、寝室の窓の鍵が開いていたのと、風呂の床が乾いておらず、排水口に同じように濡れたすみれ色の髪が絡まっているのを見つけたのみだ。思わず天を仰ぐ。ただ、昨日キバナが来ていた服は、キバナの焦りとは裏腹に異変なく洗濯カゴに収まっている。
どっちだ、とキバナは唸る。
ただ、仮に自分が昨夜、ダンデと一夜を共にしたとして、それならダンデがこうして一言もなく姿を消している理由がないのだ。
ダンデ以外の誰かだとしたら、昨晩のうちに別れたのであればまだわかる。
そうだろう、オレ。きっとそうだ。
「……あー、クッソ!」
キバナがロトムに、ダンデへ電話をかけてほしいと伝えたのは、その約三十分後だった。
『——キバナか。おはよう! どうした?』
電話口から聞こえてきたのは、いつもと変わらない声音だった。外にいるのだろうか、風の音がスピーカーを擦って通り過ぎていく。時計を見ると、確かに、ダンデなら普段トレーニングでランニングでもしている時間だった。
昨晩なにかあったのなら、さすがに平常運転とはいかないだろう、と思う、が。
「だ、ダンデ、あのさ……昨日、うちきた?」
意を決して、聞く。
「…………なんでだ? 行ってないが」
ああ、と声が漏れた。
えじゃあやっぱりオレさまダンデ似のゆきずりの相手と?
受け入れなければならない事実の大きさにクラクラする。というか、よく考えたら、それって要はオレはダンデとそういうことをしたいと思っているから、ダンデに似た人間と一夜を共にしたことになるんじゃあないのか——まだオレさまがダンデのファンすぎて髪の毛を蒐集し肌身離さずお守りがわりに身につけていたという方がマシじゃあないか?
いやマシってなんだ?
何もかもを見失ってしまって、キバナはよろめいて傍らのテーブルに手をついた。
「い、いや、いい……。なんか、起きたらオマエの匂いがしたから、来てたのかなと思ったんだけど、気の所為だったかも……」
『……キミにそう口説かれて落ちない人間なんていないんだろうが、オレで試すのはどうかと思うぜ』
苦笑しながらやんわりと嗜められる。ダンデはキバナの戯言を、冗談として処理したらしかった。
『取り敢えず……顔でも洗ったらどうだ。外の空気でも吸ったら、気分も良くなるよ』
◆ ◆ ◆
「……ダンデぇ。奇遇だな、こんなところで」
にぱ、と笑って手を振るドラゴンストームには、普段纏っている獰猛さを秘めた雰囲気など微塵もなかった。ダンデは曖昧に笑って手を振り返す。奇遇も何も、今さっき心配したキミの友人たちが、キミのロトムにオレを呼ぶよう伝えたからオレが来たんだぜ、と言っても今の彼には伝わらないだろう。居酒屋で彼の身柄を引き取り(キバナの友人たちは、おお、ダンデだ!とはしゃいでいた。ロトムには『キバナを家まで運んでやれる友達を呼んでやってくれ』とリクエストしていたらしい、なにせ彼はでかい)、肩を貸してやって夜道を二人でふらふらと歩く。
多分、人一倍プライドの高いキバナのことだ。明日こんな醜態を、よりにもよってオレに見せたと知ったら、しばらく部屋にこもって出て来れなくなってしまうんじゃあないか、とダンデはこっそりと心配をする。
「まったく、なんだってそんなに飲んだんだ……キミは質量があるんだから流石に立てなくなるまで飲んじゃだめだろう」
「んー……ダンデ、バトルしよーぜ……」
「しないぜ」
言いながら、ダンデは呼び止めたガアタクにキバナを押し込んで、自分も転がるように乗り込んだ。
宵闇に舞い上がった車両に、吹き込む夜風がひんやりと涼しい。
ダンデはぼんやりと、酔いに蕩けたキバナの横顔を盗み見る。
何が彼をこんなに無防備にさせるのか、と思う。自分以外に、キバナをこんなに骨抜きにさせる"何か"が存在するというのがダンデは面白くない。
普段ストイックなほどに己を律しているキバナの調子を乱すことができるのは、自分だけだという自負がある。
あるいは自分だけであってほしいという願望が。
「泊まっていくだろ?」
じゃあオレはこれで、と玄関先で軽く手を上げた矢先の言葉だった。息を詰めたのはダンデだけで、キバナはといえば、ダンデに言い放った言葉の重みにも気づかないで、扉を開け放したまま「ただいまァオレさまのマイスイートたち〜」と留守番をしていた手持ちたちを呑気に拾い上げ抱きしめキスをしている。
ダンデは一つ溜め息を吐く。
流されるのも悪くない、と思ってしまった自分に対してだ。
「……風呂と寝間着借りるぞ」
「オーケー、適当に使って」
別に、今まで何度も一緒に寝泊まりをした仲じゃあないか、とダンデはシャワーを浴びて濡れそぼる自分の髪の先をじっと見つめて言い聞かせる。
本当に、キバナには何の他意もない。そのはずだ。
ただ、オレが勝手に期待してるだけで。
「キバナ。流石にベッドは借りられないし、オレは居間のソファを——」
「ん」
寝室を出ようとしたダンデのTシャツの裾の端を、ベッドから伸びた長い手が捕まえていた。
「……なんだ」
ふわ、とシーツが捲り上げられた。その中で、ベッドにリラックスしきった姿で横向きに寝転がったキバナが、無邪気に笑ってシーツを持ち上げている。
空いた自分の隣をポンポンと叩く音。
「おいでよ」
ダンデは固まった。キバナの表情を窺い見るが、彼の顔からは一緒に寝られれば嬉しい、以外の感情は読み取れない。
絶対にキバナは酔って自覚のないままこれをやっているし、絶対に明日の朝には記憶は綺麗さっぱり消えて覚えていないだろう。
だから、これは彼の本意じゃないのに。
「……本当に、知らないぞ。キミ……」
逡巡ののち、ダンデは己の煩悩に敗北した。
誘われるがまま潜り込んだシーツの中で、柔らかく覆うように抱き締められる。布越しに密着した彼の筋肉質な体の感触に、今更ながらどぎまぎする。絡ませられた素足は冷えていて、風呂上がりの火照った体にぴたりとはりついて離れない。頭上で寝息が聞こえる。安心し切って、ゆるやかに眠りについている気配。彼の眠りを妨げるものはなく、明かりの落とされた部屋は静かだ。
耳元で、バクバクと自分の鼓動が鳴っている以外は。
「……無理だ!!」
叫ぶとダンデは、自分を捉える重い腕を退けなんとか拘束から抜け出した。キバナを起こしてしまうかもとか、戦略的撤退にしては随分とお粗末じゃないのかそれはとか、知ったことじゃない。
このままじゃ心臓がもたない。
「リザードンっ!」
掃き出し窓をガラリと開け、勢いよくボールを放り投げた。相棒が尻尾の炎をゆらめかせてベランダに立ったのを視認してから、ダンデははたと部屋に引き返した。
夜の闇の中、枕元のボールホルダーからなんとか彼の相棒のものを選び出す。
「……ジュラルドン、キバナをよろしく頼むぜ。朝起きて、忘れてそうだったらオレが来たことは内緒にしておいてくれ。あと多分二日酔いがひどいだろうから、水を飲ませてやってくれよ」
そう告げてボールにキスをする。起きているかわからないが、とりあえず彼の相棒に挨拶しておけば大丈夫だろう。ダンデは自身の相棒の背に飛び乗り、勢いよく夜空へ飛び上がる。
「ああ! くそ!」
感情のやり場が見つからず、夜の空に吠えた。眼下では街の明かりがイルミネーションになって綺麗だ。
こんな、人の気も知らないで。
「なあ、リザードン……」
相棒の背を撫でる。情けない声が出ているのが自分でもわかった。攻めるべきか搦手を取るべきか、目が眩んで局面の見極めができない。
意識されていないから、あんなに無防備に迎え入れられたのか。
それとも——踏み込めばいけるのか?
「……バトルなら、もっと的確に判断できるのにな」
独り言のように呟かれたその言葉に、相棒は答えず、ただバサリと一際大きく翼をはためかせるのみだった。