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    Hana_Sakuhin_

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    Hana_Sakuhin_

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    「顔。あとフレンチトーストが美味かったし。あ、明日の朝は兄ちゃんがフレンチトースト作ってやるかぁ」



    Thank you for reading!

    蘭みつ♀です!謎時空です。
    失恋した三ツ谷と兄ムーブの灰谷。結構甘めですが相も変わらず殴りあってます。

    #蘭みつ♀

    代替の愛、唯一の愛鏡に向かって唇に引いた薄紅色のルージュは、ほんの一瞬だけ顔に馴染まず浮いて見えた。色を間違えたわけじゃない、驕りでもなく三ツ谷は自身に似合う色味をきちんと理解している。じゃあ、何故か。そんなのは心に問いかけなくったって、すぐに分かってしまう。

    かたり。ルージュを机に置いた音が、がらんどうのアトリエに響く。三ツ谷がふらりと立ち上がって、手に取ったのは純白のウエディングドレスだ。もう完成間近のそれを身体に合わせ、仕上がりを自画自賛する。高揚感に身を預けなければ、心の奥底に蓋をした感情が今にも溢れ出てきてしまいそうだった。

    華奢な体躯、豊満な胸、桃色の柔い頬も、ぱちりと大きい瞳もふわふわな髪も。三ツ谷には何ひとつ持ち得ない。彼女になくて三ツ谷にあるのは、人を殴る痛みを知っている拳だけだ。

    今日まで幾多に存在した分岐点の中で、どれを選んでも結果は同じであることを、三ツ谷は心得ている。それほどまでに龍宮寺の隣にはエマが、エマの隣には龍宮寺がお似合いだった。

    それに、と三ツ谷は小さく息を吐いた。東卍の双龍として背中を預けあったあの頃、二人の間にあったのが甘やかな関係性や感情じゃなくて、たしかな信頼だったこと。それを誇りに思うこそすれ、断じて後悔したことはない。

    東卍紅一点の弐番隊隊長として、ルナとマナの姉として生きていくために、呑み込んだ本音も、着飾った嘘もたくさんある。だけど本当の、本当に。

    「おめでとう。幸せにな」

    都内にも珍しく雪が降った十一月のあの日、顔を綻ばせて結婚報告をしてきた二人に告げた、ありきたりなこの言葉は決して嘘じゃないのだ。







    つま先を上げて、下ろすと同時に地面を蹴る。ゆらりと小さく揺れるブランコに身を任せて、三ツ谷はそっと息を吐いた。そこそこ酒には強いつもりだったが、今日は随分と酔いが回っていた。今頃は皆、まだ二次会で盛り上がっているだろうか。

    最高の結婚式だった。思い出さずとも鮮明に蘇る。もうずっと前から二人が互いに抱いていた愛は、名実ともに永遠になったのだ。それに三ツ谷の拵えた龍宮寺のためのタキシードも、エマのためのウエディングドレスも、それぞれ見立て通りよく似合っていた。これ以上に幸せなことはない。

    ふんふんと鼻歌で奏でるのは、よく最寄りのスーパーで耳にする曲だ。君の運命の人は僕じゃない、なんて。それが巷で流行りの失恋ソングだと気がついて、三ツ谷は自嘲を漏らして口を噤む。頬を撫でていく水気を重く含んだじめじめとした夜風が、急に不快に感じた。

    三ツ谷はぐっと両足に力を入れて、ブランコの揺れを止める。今朝テレビで可愛らしい女子アナウンサーが雨は降らないと宣言していたが、どうやら予報は外れそうだ。パーティードレスに合わせた小さな小さな鞄には財布とハンカチ、スマートフォンしか入っていない。なのに、そう遠くない家に歩いて帰るのさえ酷く億劫だった。

    どうせ一人暮らしの侘しい家に帰っても眠れないのだ。それならもうここで眠ってしまいたい。回らない頭で、そんなことを考えた時。

    「漕いであげる。はい、ど〜ん」

    聞こえたと同時に、背中が勢いよく押される。ふわりと身体が宙に投げ出される感覚に、三ツ谷は慌てて持ち手を掴む。

    「は?」

    すぐさま背後を振り返れば、そこには髪を七三分けにしたスーツ姿の妖しい雰囲気の男がいて、三ツ谷は隠すことなく顔を顰めた。喧嘩三昧の日々から足を洗って数年経てど、そこいらの男に負けるつもりはない。しかし絡まれれば厄介なことも変わりない。

    ガっと踵を下ろせば、そう高くないヒールが地面を削る。三ツ谷は男を視界に入れないようにしながら、ブランコから飛び降りた。

    「あれ。もしかして三ツ谷ってば、気づいてねぇの?」

    聞きなれない声。だけど悪質なナンパだと言い切ってしまうには、男は『三ツ谷』と確かに名前を口にした。佐藤や鈴木のように、当てずっぽうで正解する名字じゃないのだ。

    一方的に自分のことを知っている、そのことは三ツ谷の警戒心を強くした。ゆっくり後ろを振り返る。公園の街灯は壊れかけていて、チカチカと男を照らす。夜闇に浮かんでは消える整った顔立ち、均等のとれた身体。

    「あ?」見覚えはない。
    「オレはすぐ分かったのに」

    長いコンパスで距離を瞬く間に詰められる。反応が遅れたのは平和ボケしたせいか。すりっと男の手のひらが三ツ谷の首筋から後頭部を軽く撫でた。

    「三ツ谷取ーり」

    これでもまだ分かんねぇ?と男が首を傾げた。瞬間、走馬灯のように駆け抜けたのは、いつかの記憶。もうすっかり忘れかけていた頭の傷が、じくりと存在を主張した。

    「灰谷、蘭・・・・・・!」
    「せいか〜い」

    灰谷は楽しそうに口角を上げた。何を考えているのかわからないその淡い藤色の瞳が、三ツ谷をじっと捉える。どうしてここにいるのか、どうして話しかけてきたのか。一体何が目的なのか。聞きたいことが多すぎて、動揺した脳内では上手く言葉にできない。

    そもそも二人の接点といえば、関東事変の時、背後から灰谷にコンクリートブロックで殴られた。たった、それだけだ。あれからもう八年は経つ。
    顔を引き攣らせる三ツ谷をよそに、灰谷はやはり楽しそうに口を開いた。

    「三ツ谷ってマジで女だったんだな」
    「は?」
    「オレあの時、三ツ谷が女だって知らなかったワ〜。まあでも、知ってても関係ねぇけど」

    言い切ると灰谷は免罪を示すかのようにパッと両手を上げて、三ツ谷から一歩だけ距離を置いた。そうして生まれた隙間に吹き抜ける風が、ふわりとムスクの甘い香りを纏って三ツ谷の鼻孔に届く。

    「・・・・・・なんでここいんの?」
    「お仕事帰り。三ツ谷ァ、癒してよ」

    灰谷はブランコを囲う鉄のポールに腰をかけ、三ツ谷を見上げた。組んだ足に肘を立てて、にっこり笑うその様は夜の闇によく馴染んでいた。

    「それとも癒してやろうか?」
    「な、んで」三ツ谷は思わず狼狽えた。
    「なにもねぇのに、こんなところで、こんな時間に、こんなことしてんの?」

    返す言葉がひとつもない。灰谷の伸びた指先が、三ツ谷の化粧で隠された隈をなぞる。眠れていないことは知らないだろうし、きっと頼りない街灯と月明かりじゃバレてもいないだろうに。

    「失恋でもした?」
    「・・・・・・それ聞くのかよ」
    「えー、兄ちゃんがハナシ聞いてやるのに」

    三ツ谷は目を瞬いた。たしか灰谷は弟がいる。兄の蘭と弟の竜胆。二人が六本木のカリスマ兄弟と呼ばれていたのを思い出した。今でも仲がいいのだろうか。

    「弟と似てるから?」
    「髪型は似てんな〜。でも、竜胆とオレは顔が似てる」
    「張り合うなよ。そりゃそうだろ」

    急に三歳上の顔を覗かせたと思ったら、幼子のような顔を覗かせる。三ツ谷はそれがおかしくて、くすくすと笑みを零した。いつの間にか灰谷に対する警戒心はなくなっていた。むしろ意外と面白いヤツじゃんと思って、そもそも判断するに足る関わりがなかったなと思い直す。

    と、その時。ポツリと雨粒が頬を濡らした。二人は空を見上げて、そうして一瞬、探り合うように視線を絡めた。もしも再会が今日じゃなければ。なんて考えて、三ツ谷は頭を振った。そんなの考えるだけ不毛だ。

    「・・・・・・ウチ、来る?」

    雨降ってきたし、酔ってるから。別にいつものワンナイトパートナーと同じ。そんな言い訳を並べたくせに、頭のどこか冷静なところで、ならば家に誘わないだろと否定する声が聞こえた。


    公園から徒歩五分。林田に紹介してもらったアパートは、アトリエからほど近く家賃も安い。その代わり、インターホンにカメラはないし、オートロック機能もない。周りには止められたが、リノベーションされた内装は綺麗で、ワンルームの作りも三ツ谷は気に入っていた。

    三ツ谷は玄関の鍵を回し、扉を開けて今日ばかりは客人である灰谷を先に招き入れる。午後十一時十八分。靴箱の上の時計を見て、ストラップに指をかける。カタカタと地面を鳴らす慣れないヒールに、足は悲鳴をあげていた。

    「先、風呂入れ」

    入って右側を指し示せば、灰谷はくるりと振り返った。上がり框に、先ほどよりも見上げる目線が高くなる。不思議そうな顔をした三ツ谷に、「一緒に入る?」と灰谷はニンマリ笑った。

    「入らねぇ」
    「えー、オレこんな提案めったにしねぇのに?」
    「そんなプレミアいらねぇよ」

    灰谷が歩くたび、ぺたぺたと水っぽい音がする。三ツ谷も同じ音を響かせながら、ストッキングを脱いで後に続く。少し肌寒い洗面台に着くと自分用にタオルを一枚取って頭に乗せ、備え付けのラックから新品の男用の下着を取り出す。

    「なにこれ」
    「パンツ。新品だから安心しろよ」

    飲み会の場が三ツ谷のアパートになると、マイキーを筆頭に泊まりコースは確定になる。ちょっとした下着屋くらい品揃えがある中で、至ってシンプルなやつを手渡せば、灰谷はふぅんと意味ありげに鼻を鳴らした。

    「なに? これじゃ嫌?」
    「違ぇよ。三ツ谷って結構遊んでるタイプなんだ?」
    「はあ?」

    結構遊んでるタイプ。頭の中で灰谷の言葉を反芻して、三ツ谷は動きを止めた。ぽたり、気がついたら随分と近い距離にいた灰谷の乱れた前髪から落ちた水滴が三ツ谷の頬をうつ。

    「・・・・・・そうだとしてオマエに関係ないだろ」
    「ウン。聞いただけ」
    「あっそ。はいこれバスタオル。着替えはこれな」

    一番大きなバスタオルと、サイズを見ることなく引っ掴んだスウェット上下を渡す。灰谷の顔を見ることなく後ろ手に閉めた扉は、逃げる三ツ谷を批難するようにけたたましい音をたてて閉まった。







    ぐっすり眠ったなと大きな欠伸をして、カーテンの隙間から射し込む光に目を眇める。ベッドサイドに置いた時計は午前七時三十分。起きるにはちょうどいい時間だ。隣を見れば好みの顔立ちの男が眠っていて・・・・・・、と三ツ谷は壊れたブリキのおもちゃみたいに男を二度見した。

    まるで映画の予告のように、三ツ谷の脳内で断片的に上映される昨晩の記憶。忘れていない、忘れられるわけない。泥酔して奇行を犯しても記憶は失わない、ある意味で最悪のタイプなのだ。


    あのあと入れ違いで風呂から上がった三ツ谷を待っていたのは、我が物顔でソファに身を沈めた灰谷だった。冷蔵庫から勝手に盗んだであろう缶チューハイを手に、身につけているのは下着一枚のみ。

    寛ぎすぎだろと言いかけた三ツ谷を遮るように、灰谷が新しい缶チューハイのプルタブを起こし、プシュッと子気味良い音が部屋に響いた。

    『ぜ〜んぶ忘れちゃおうぜ、三ツ谷』

    甘やかな灰谷の声は媚薬のように、三ツ谷の脳内にとろりと溶け込んだ。もう何も考えられない。考えたくない。差し出されるまま缶チューハイを受け取って、美化された思い出と共に全部呑み干した。ぐらりと視界が瞬く間に混ざりあった。

    『二人の結婚を祝福する気持ちはホント』
    『でも、けど、好き』
    『ずっと。出会った頃から好きだった』
    『・・・・・・さみしい』

    うんうんと穏やかに打たれる相槌に、思わずぽろぽろと零れた三ツ谷の本音を、灰谷は残さず呑み干してくれた。肩書きを脱ぎ捨てて人に甘えることができたのは、二十三年生きてきて、もう随分と久しぶりのことだった。

    『なんで優しくすんの』

    灰谷のくせに。なんて続いて漏れた言葉は、八つ当たり以外の何物でもない。

    『えー。わかんない?』
    『・・・・・・わかんない。教えて』
    『下心があるからに決まってんじゃん』

    三ツ谷の氷のようにカチカチに固まった声を溶かすように、灰谷は柔く微笑んだ。それを額面通りに受け取るには、あまりにも甘やかだった。

    そして三ツ谷が思い出せる最後の記憶は、鍛えられている裸体を晒してベッドに寝転ぶ灰谷の姿だ。雨はとっくに止んでいて、カーテンの隙間から覗く月が煌々と半身を彩る刺青を照らしていた。

    『なにもしない』灰谷は言った。

    いくら酔っていようと、その言葉をそのまま受け取るほど、三ツ谷も純粋な人生を歩んじゃいない。胡乱な視線を向けると、灰谷は色っぽく微笑んだ。

    『・・・・・・嘘つき』三ツ谷は呟いた。

    ふっと灰谷は笑みを零した。場違いに感じるような、吐息混じりの優しい笑みだった。

    『じゃあ確かめてみなよ』

    ホラと広げられた灰谷の両手に、さながら花に誘われる蝶のように、ふらりと三ツ谷はベッドに飛び込んだ。


    さて、ここで三ツ谷には問題があった。謝るべきか、謝らぬべきか。もちろん灰谷に対して、である。正直、三ツ谷を酔わせたのは灰谷だし、過去の事件を差し引けば、絡み酒をしたのは謝る必要ないだろうと思っている。とはいえ恥ずかしくて居た堪れないので、可能であれば今すぐコンクリートブロックで灰谷の頭を殴って記憶を消してやりたいと思ってはいる。

    三ツ谷は腕、腹、ささやかな胸元に触れて、自分が愛用のスウェットを着ていることをわざわざ確認した。至って普通で汚れや乱れもない。ちなみに身体に痛みもない。むしろ慢性的な睡眠不足が解消され、今ならデザイン案も良いのが浮かぶだろう。

    ついでに駄目押しで、そばに置いてあるゴミ箱を確認し、三ツ谷はいよいよ溜め息をついた。到底言葉にはできないような複雑な気分だった。昨日あんな言葉を交わしておいて、灰谷とセックスしていないのだ。

    理由は簡単。三ツ谷が寝たからだ。灰谷に抱きしめられて、子どものようにスヤスヤと朝まで眠ったのだ。コンクリートブロックで背後から殴ってくるくせに。ここで寝ている女に手を出さないタイプなんだと、灰谷を見直さないと、それなりに罪悪感で胃が痛くなる。

    「なにしてんの?」不意に隣から声が聞こえた。
    「は、灰谷・・・・・・。えーっと、オハヨウゴザイマス」
    「んー。オハヨ」

    灰谷がまだ少し眠そうに目を細めて、三ツ谷の方に身体を向ける。シーツの擦れる音が、やけに生々しい。二人の間には何もなかったというのに、言いようのない甘い雰囲気に、少し居心地が悪い。

    「で、なに?」
    「えっ」
    「百面相してたろ、三ツ谷。ウケる」

    どうやら灰谷は起きてからしばらく三ツ谷の脳内葛藤を見ていたらしい。文句のひとつやふたつ言ってやりたいが、もちろん言えるわけもなく、「あー、朝ごはん。なににしようかなって考えてた」と全く違うことを口にした。

    「ああ。三ツ谷、なに作れんの?」
    「まあ大体は作れっかな」
    「三ツ谷の手料理、オレにも食わせてよ」

    三ツ谷は目を瞬いた。どうやら灰谷が昨晩のことを気にしている様子はないので、朝食をご馳走することで勝手に謝罪とさせてもらおうなんて算段をたてる。

    「今から買い物行くけど」
    「マジ?」
    「だからリクエストあるなら聞けるよ」

    すると灰谷は唇を尖らせて唸ってから、「三ツ谷の得意なやつ」と目尻を下げた。三ツ谷がわかったと頷くと、灰谷はのそりと上半身を起こした。

    「つーか、買い物どこ行くの?」
    「そこのスーパー。八時から開いてっから」
    「ふーん。オレも行く」

    身につけていたスーツが有名ブランドの高級ものだったので、灰谷もスーパーとか行くんだと内心で驚きながら、三ツ谷は「三十分後に出発な」と言って洗面台へ向かう。

    三ツ谷が顔を洗い終わり、歯を磨いている頃になって、灰谷はようやく洗面台にやって来た。タオルとこれまた予備で置いてある新品の歯ブラシを渡す。

    「そういえば服、昨日渡したやつ着ろよ。近所のスーパーだし、スウェットでいいだろ」
    「いいけど。三ツ谷さ、昨日オレに渡す時にサイズ確認した?」
    「・・・・・・してねぇな」
    「だよね。つんつるてんなんだけど」

    たぶん同時に二人の脳内に浮かんだのは、つんつるてんのスウェットを着た灰谷の姿だ。ぷっと三ツ谷は耐えきれず吹き出し、灰谷はそれに不服そうな顔をしたけど、結局「着てみせようか?」なんて笑った。

    「ワリ。じゃあコレなら着れっか?」
    「おー。いけそうじゃん」

    今度はちゃんと目採寸で灰谷のサイズに合ったスウェットを手渡す。小窓から見える外は昨日の雨が嘘のように、青い空には雲ひとつない。梅雨時には珍しく、洗濯物を干すにはうってつけの日和だった。


    午前八時三分。予定より少し遅れて、三ツ谷は灰谷とアパートを出発した。足元の水溜まりを避けながら、公園とは逆の方向に徒歩五分。安さが売りのスーパーはもうすでに盛況していた。

    「食えないもんある?」
    「ねぇかな〜」

    ならば、フレンチトーストにしよう。なんだか少し甘いものが食べたい気分だった。まずはハムが売っている場所へカートをガラガラと押していくと、灰谷は子鴨のように三ツ谷の後ろを着いてくる。

    「欲しいものがあんじゃねぇの?」
    「ないよ。なんで?」灰谷は首を傾げた。
    「いや、別に・・・・・・」

    てっきり欲しいものがあってスーパーに来たと思っていたのに。そういうわけじゃないらしい。かと思えば、三ツ谷が牛乳を選んでいる時に姿を消した灰谷は、ちょっとお高めのコーヒーを抱えて戻ってきた。

    「オイ、カゴ入れんなよ」
    「これオレのお気に入りのやつ。覚えろよ〜」
    「はあ?」

    なんて言い合いをしていたら、そばを通った顔見知りの主婦に「あら、みっちゃん。彼氏ぃ?」と好奇心を微塵も隠さず聞かれた。咄嗟のことで口ごもった三ツ谷に対して、灰谷は外面よく頷いた。

    「そうで〜す。彼氏です」
    「ちょ、」
    「あらあら。いいわねぇ」

    三ツ谷の訂正しようとする声は、主婦の甲高い声にかき消されてしまった。もう今日の夕方には三ツ谷に彼氏ができたと噂が近所で広まるだろう。

    「適当なこと言うなよ」

    嵐のように去っていく主婦の背中を見送りながら、三ツ谷は肩を小突くも灰谷は楽しそうに笑うだけだった。

    レジではスマートに支払いをされ、荷物はさりげなく重い方を持ってくれ、灰谷の優しさが浮き彫りになるたびに、三ツ谷は昨日の記憶が蘇る。下心があるから、か。

    ぼけっとしながら、キッチンでフレンチトーストを作る。ちらりと後ろを振り返ると、灰谷はソファでスマートフォンを弄っていた。その背中に声をかける。

    「できたぞ、灰谷」
    「オレ、フレンチトースト好きなんだよな〜」

    折りたたみ式の小さなテーブルを向かいあわせで囲んで、いただきますと手を合わせて、ひとくち。灰谷はぴたりと動きをとめた。だけどすぐに何もなかったかのように、「美味いじゃん」と食べ始める。

    「なに?」
    「・・・・・・竜胆の作るやつと全然ちげぇな。三ツ谷の作るやつの方が甘い」
    「牛乳入ってるからかもな」

    ふぅんと灰谷は興味なさげに鼻を鳴らした。フォークで突き刺したフレンチトーストを目の前に持ってきて、じっと見つめては口に放る。美味しいという言葉に偽りはなかったようで、皿の上はあっという間になくなった。

    「・・・・・・喧嘩でもしたのか?」
    「えー?」
    「弟、竜胆となにかあった?」

    灰谷は目を瞬いた。そして、ふっと口元を緩めた。今度は三ツ谷が目を瞬く番だった。

    「オレと竜胆が喧嘩するわけねぇじゃん。うーん、蘭ちゃん弟離れできてなくて寂しいって感じ?」
    「なんで疑問形なんだよ」
    「寂しいって思ってたんだけどな〜」

    言うと灰谷は机の上に肘を置いて、手のひらを組むとそこに顎を乗せた。こてんと首を傾げられて、三ツ谷は嫌な予感に頬をひくつかせた。

    「三ツ谷ァ、オレで妥協しない?」
    「はあ?」
    「さっきのおばさんにも嘘つきにならねぇよ」
    「あほか。そんな理由かよ」
    「あとフレンチトースト美味かったし」
    「ついでかよ。しばくぞ」

    はーっと肺に溜まった息を全て吐いたあとで三ツ谷は、「・・・・・・付き合いはしねぇ」と言った。でも少なくとも昨夜、自身の前に現れたのが灰谷で良かったと思っている。それで、もしもの未来を考えるくらいには絆されてもいる。

    「でもウチに来たら飯は御馳走してやるよ」
    「まあそれでいっか、とりあえず」

    はい、と差し出された灰谷の拳。三ツ谷がその下に手のひらを広げれば、落ちたのは銀色に煌めく鍵だった。

    「なにこれ」
    「オレんちの鍵。六本木にあっから来いよ」

    そして灰谷は手馴れた様子で三ツ谷の携帯に『蘭ちゃん』と自身の連絡先を追加した。最初に送られてきたのは六本木のマンションの住所と、かわいらしいクマのスタンプだった。桃色のハートが周りに飛び交っている。

    「かわいい・・・・・・」
    「ウン。かわい〜な」

    にんまり。灰谷は満足そうに微笑んだ。







    いつだって、きっかけは些細なことだ。他人には理解できないような所以で、人生は簡単に変わる。寂しさを埋めるだけなのだから、相手は誰でも良い。そう思っていた。それなのに、あの日以来、三ツ谷は夜遊びをしなくなった。目の下の隈を化粧で無理やり隠す必要もなくなった。

    セフレの定義をセックスするだけの関係というのならば、三ツ谷と灰谷を結ぶ糸を何と呼ぶべきか。セックスをする。そして互いの家に行き合い、同じものを食べて美味しいねと笑い合う。隣で並んで体温を分け合って眠る。たぶん世の中の恋人同士と違うのは、交わし合う言葉に好きという単語がない、ただそれだけだ。


    灰谷と再会してから、夏を見送り、もうすでに秋が終わろうとしていた。かつて心の奥底に隠し続け、灰谷によって呑み干された感情が、再び銀杏並木と共に色づいていくのを三ツ谷はきちんと自覚していた。

    だけど、灰谷にその気持ちを伝えることはできない。そもそもが互いに誰かの代わりを求めて始まった関係なのだ。せめてアンモラルな糸にでも縋りたいなら、一方的な好意は邪魔ものになる。三ツ谷にとって感情を隠し通すことは慣れたことだった。


    今日の始まりもきっかけは、ヒートアップした頭では思い出せないような些細なものだった。アレをしたから、コレをしなかったから。たぶんそんなちっぽけな小競り合いは、三ツ谷が灰谷の頬を打った音で空気を変えた。

    「もう終わりにしよう」

    俯いて三ツ谷は呟いた。きっと潮時だったのだ。

    「もともと誰かの代わりなんだし、別にお互い他の相手でも――」
    「へぇ?」言いながら、灰谷は髪をかきあげた。

    凄んだわけじゃないのに、灰谷のその唄うような声音は三ツ谷の背筋を凍らせた。喧嘩だってそれなりにしてきた。この六本木のマンションの一室を半壊させたこともある。互いに容赦なく殴り合うので、揃って病院に行ったこともある。それでも、ここまで恐怖を覚えたことはなかった。

    「誰が、誰の、代わりだって?」
    「・・・・・・弟の代わりにしたろ」
    「は? オレが三ツ谷を竜胆の代わりに?」

    眉間に皺を寄せたことで、灰谷の普段は柔和な顔立ちが険しくなる。三ツ谷は無意識のうちに唾を飲み込んだ。じりと右足を一歩後ろに下げる。

    「じゃあ三ツ谷は?」
    「あ?」
    「三ツ谷はオレを誰の代わりにした? あの辮髪ヤロウ? それとも他の奴?」

    がっと髪の毛を掴まれ、そのまま引き摺られる。能面のように表情をなくした灰谷の向かう先はベッドの上だった。柔いスプリングに三ツ谷の身体がバウンドする。

    逃げるまもなく馬乗りになった灰谷が、冷たい手のひらで三ツ谷の首筋を圧迫する。視界が暗くなって意識を手放す寸前、灰谷はようやくパッと手を離した。ひゅーひゅーと必死に空気を吸う三ツ谷の荒い呼吸音が、だだっ広い部屋に響く。

    「三ツ谷ァ、本気で言ってる?」
    「な、にをッ」
    「オマエ、本気で自分が竜胆の代わりだと思ってんの?」

    頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。灰谷に穴を埋めてもらった三ツ谷は勘違いしてたのだ。自分はそれまでずっと、誰かに代わりを求めては、結局その誰かが龍宮寺の代わりになれたことなんてなかったのに。

    息が苦しい。首を絞められたせいか。それとも残酷な真実を突きつけられたせいか。酸素の薄い脳じゃ何も分からなかった。心ともなく三ツ谷の頬をつたった涙に、灰谷は口づけた。その唇は冷たいのに、まるで慈しむように柔く触れてくる。

    「は、」

    三ツ谷は息を飲んだ。灰谷が腰を上げて重りがなくなったというのに動けないまま、降りそそぐキスを受け入れる。その時、脳内に浮かんだ不確定要素を多分に孕んだそれは、やけに都合が良く自惚れのような気がした。

    「言ったよな? 三ツ谷は竜胆と髪型しか似てねぇって」

    言ってねぇよ、と叫びたかったのに、灰谷の唇がついに三ツ谷の口を塞ぐので喉の奥で言葉は消えた。当然のように僅かな隙間を割って入る舌は、優しくだけど的確に三ツ谷の好いところを辿っていく。

    「は、いたに」
    「ハハ。いーじゃん」

    潤む瞳で灰谷を見上げれば、その濡れた唇をぺろりと赤い舌がなぞる。いつもは平静な淡い藤色の瞳が、欲でゆらゆらと揺れていた。三ツ谷の腰が甘く痺れを覚える。

    「まあ、最初に声かけた理由はそうだけどな〜」
    「そ、なんじゃん」
    「今は違う、って言って欲しい?」

    あまりにも卑怯な質問だった。あの日、三ツ谷の本音を呑み干して、着飾った嘘を脱がしてしまったのは灰谷だというのに。言葉なく小さく頷く。

    「三ツ谷は?」
    「なに?」
    「オレを誰かの代わりにした?」

    真正面から絡み合った淡い藤色の瞳には、全くの不安も迷いもなかった。答えは聞かなくても分かってる。そんな灰谷の面持ちに、三ツ谷はふっと息を吐いた。

    「してねぇよ。灰谷は灰谷だろ」
    「三ツ谷さ、よくよく見れば竜胆の恋人に似てるかも」

    いつもより少し温かい灰谷の手のひらが、両頬を包み込む。唐突に変わった話題に、三ツ谷は口をすぼませながら頭上にクエスチョンマークを浮かべた。

    「はあ?」
    「兄弟ってそういうとこも似んのか〜」

    三ツ谷がその言葉を理解するよりも先に、灰谷は見惚れるほど美しく微笑んだ。

    「三ツ谷ァ、オレで妥協しない?」
    「・・・・・・最初っから妥協だなんて思ってねぇくせに」
    「当然でしょ」











    冬の冷たい夜風に吹き曝され、三ツ谷は灰谷から貰ったマフラーに顔を埋めた。無理難題をおしつけてくるクライアントのせいで、ここ一週間はまともに寝ていなかった。ほんの少し覚めた頭に、もうひと踏ん張りと活を入れて帰路を急ぐ。

    きっと、今日は帰れると連絡を入れたからだろう。錆だらけのアパートの二階角部屋。窓から煌々と光が漏れていて、三ツ谷は自然と顔を綻ばせた。裸の木々の隙間から満月の光がその表情を優しく照らす。

    「ただいま」
    「お、おかえり〜」

    玄関を開けると廊下の先でひょこりとエプロンを着けた灰谷が、オタマ片手に顔を覗かせる。その相変わらずのミスマッチさに三ツ谷はくつくつと笑った。最初は料理なんて全然できなくて、喧嘩しながらキッチンに並んだ日々が懐かしい。

    ふふと笑みを零しながら、熱いシャワーを浴びる。本当は湯船に浸かりたかったが、異常なほど重い瞼に本能が死を感じて諦めた。それでも幾分もスッキリした頭で今日は久々にセックスするかな、ゴムはあったかな、なんて思いながらキッチンにいる灰谷の元へと向かう。

    「なに作ってんの?」
    「オムライス。蘭ちゃんが特別にハート書いてやるよ」

    なんて灰谷が得意げな顔をするので、三ツ谷は幼い妹たちのオムライスに犬や猫、ハートを書いたことを思い出した。あの頃、飛び跳ねて喜んでいた妹たちの気持ちが、今になって分かる気がした。

    ちょっぴりペチャペチャのオムライスに、ほんの少しのアルコール。疲れからすっかり酩酊した三ツ谷は、さっきまでの思考がしゅわしゅわ炭酸と一緒に弾けてしまう。

    「ハイハイ今日は姉ちゃんが一緒に寝てやるからな」
    「三ツ谷ベロベロじゃん」
    「そんなことねぇよ」

    言いながら、三ツ谷はベッドに飛び込む。ふわふわと柔らかな毛布に包まれて、嗅ぎなれた甘いムスクの香りに夢へと誘われる。もう限界だった。

    が、しかし。ひたり。スウェットの隙間から悪戯に腹をなぞる冷えた手のひらに、三ツ谷は目を見開いた。もちろん犯人は灰谷だ。

    「やだ」
    「三ツ谷は寝てていいよ」
    「はあ? 寝てる奴に手ぇ出さないんじゃなかったのかよ・・・・・・」

    三ツ谷の言葉に、灰谷は手を止めることなく首を傾げた。そんなこと言ったっけ、なんて呟く。

    「最初の時ッ!」
    「・・・・・・ああ。あの時と今は違うからな。今は三ツ谷、ちゃんと誰に抱かれてっかもう分かるだろ?」

    すりと首筋をなぞられ、その指先に導かれるように、三ツ谷は灰谷の名前を呼んだ。腕を伸ばして後頭部に回し、甘えるように唇を寄せる。

    「ハイハイ兄ちゃんが脱がしてやるからな」

    にんまり。灰谷は満足そうに微笑んだ。


    かつてコンクリートブロックで背後から殴られたことを忘れたわけじゃない。それでも三ツ谷は、灰谷が肌に触れてくることをこれから先もきっと許すだろう。


    二人はそれを愛と呼ぶ。
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    Hana_Sakuhin_

    MOURNING『昨夜未明、東京都のとあるアパートで男性の遺体が見つかりました。男性は数日前から連絡がつかないと家族から届けが出されておりました。また、部屋のクローゼットからは複数の女性を盗撮した写真が見つかり、そばにあった遺書にはそれらを悔やむような内容が書かれていたといいます。状況から警察は自殺の可能性が高いと――「三ツ谷ぁ。今日の晩飯、焼肉にしよーぜ。蘭ちゃんが奢ってやるよ」
    死人に口なしどうしてこうなった。なんて、記憶を辿ってみようとしても、果たしてどこまで遡れば良いのか。

    三ツ谷はフライパンの上で油と踊るウインナーをそつなく皿に移しながら、ちらりと視線をダイニングに向ける。そこに広がる光景に、思わずうーんと唸ってしまって慌てて誤魔化すように欠伸を零す。

    「まだねみぃの?」

    朝の光が燦々と降りそそぐ室内で、机に頬杖をついた男はくすりと笑った。藤色の淡い瞳が美しく煌めく。ほんのちょっと揶揄うように細められた目は、ふとしたら勘違いしてしまいそうになるくらい優しい。

    「寝らんなかったか?」

    返事をしなかったからだろう、男はおもむろに首を傾げた。まだセットされていない髪がひとふさ、さらりと額に落ちる。つくづく朝が似合わないヤツ、なんて思いながら三ツ谷は首を横に振った。
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