朱色の誓い「ふーふーちゃん」
浮奇の、零れるほどの愛に濡れた瞳が、ずっと好きだった。
その眼差しの矛先が自分であることを知った瞬間の喜びは、今でも忘れられない。
この瞳にずっと見つめられたかった。
でも、それももう諦めなくてはいけないもの。
今日浮奇は1日外出している。
俺はこの日のために1ヶ月も前からスケジュールを組んでいた。
俺は今日、浮奇とたくさんの時間を過ごしたこの場所を出ていく。
予め違和感を感じない程度に少しずつ自分の物は捨てていたから、持っていくものはボストンバックひとつ分に無理なく収まった。全てが予定通りだ。虚しさすら感じる。
どうしたって後ろ髪を引かれ、もう1時間も部屋でうろうろしてしまっている。
悔しいことに、この時間さえも1ヶ月前の自分の手の中なのだ。
浮奇がいつも一緒に寝ているひつじのぬいぐるみに挨拶をしてみたり、部屋中に溢れる思い出に想いを馳せてみたり。
それでももう、そろそろ時間だ。
すぅっとひとつ息を吸って、なんとはなしに笑う。
そして寂しい空気を払うように、大きな声で言った。
「浮奇、お前がこれから他の誰かを好きになっても、俺は一生お前だけを愛してる」
満足して、笑顔でドアを開けようと振り返ったとき。
「誰が、他の誰かを、好きになるって?」
そこには世界で一番愛しい恋人の、怒った顔があった。
本当は気が付いていた。
ふーふーちゃんのことは、誰よりもよく見ているから。
彼の物が、日に日に減っていっていること。
少しだけ、寂しそうな顔が増えたこと。
気付かないふりをしていた。
僕がそれに触れてしまえば、そのなにかただならない問題が、いよいよ現実味を帯びて僕たちの前に立ちはだかってしまう気がしたから。
その日は電車で片道1時間ほどかかる遠方のショッピングセンターに行ってくるよと、随分前から伝えてあった。
ふーふーちゃんの誕生日プレゼントを選ぶためだった。
そこにはちょっといい感じのお店があって、以前見かけたときにふーふーちゃんの好きそうな雰囲気だなとメモしていたのだ。
ビンゴだ!と彼の好きそうなデザインで溢れる店内に感動しながら、愛しい恋人で溢れる至高の時間を過ごしていた。
しかしふと、昨日のことが頭をよぎった。
それは、昨日の夜のこと。
彼は唐突に、こちらの方が照れてしまうような真剣な顔で僕に「愛してる」と言ったのだ。
それも本当になんでもないタイミングで。
確か、ふーふーちゃんがお風呂からあがったのを見計らって、着替えを持ってバスルームへ向かっていたときだった。
なぜそんなに驚くことがあるのかってそれは、ふーふーちゃんが僕に「愛してる」と言ってくれたのは今までたったの2回きりだったということだ。
1回目は、晴れて恋人になったとき。
2回目は、初めて夜を共にした去年のクリスマス。
大事な、貴重な3回目が、昨日唐突にやってきたのだ。
勿論、ふーふーちゃんから与えられるものはなんでも喜んで享受する。
それでもやっぱり、昨日は少し変だった。
見たことのないほど真剣な表情と、時折見せていた寂しそうな顔。
そんな記憶の破片が、僕の頭の中でゆっくりと、音を立てて結びついたとき、
僕は思わず駆け出していた。
電車に飛び乗る。拭えない不安が頭を占めていく。
どうしよう。間に合わなかったら。
僕は気付けなかった自分を一生恨むだろう。
息を切らせながらようやく家に着き、ふらつく足でなんとかドアノブまで辿り着く。鍵が開いていた。
不用心だなぁと眉をひそめながら、そっとドアを開ける。
そこで聴いたのは、愛しい人から贈られる、
4回目の I LOVE YOU だった。
「浮奇…!なぜここに」
言葉の途中で唇を奪われた。
驚きながらも、この強引なところは嫌いではないので黙って受け入れる。
熱烈なキスが終わり顔が離れると、浮奇の整った顔は未だ怒りに歪んでいた。
ああ、どうしてこんなにかわいいのだろう。
「僕が、世界で一番大切な恋人の変化に気が付かないとでも思ってたの?」
ぎろっと、まるで不本意だと言うように睨まれる。
「それは、すまなかった。甘く見ていた」
「謝るのはいいから説明して。何がどうして君は今、ここを出ようとしてるの?」
浮奇が俺を"君"と呼ぶのは、本気で怒っているときだけだ。
以前まだ恋人になる前に、俺が勘違いをして浮奇の告白から逃げたとき、初めてそう呼ばれて驚いたのを鮮明に覚えている。
あまりの剣幕に少ししゅんとしながらも、とても逃げられそうにはないので本当のことを話すことにする。
ひとつ溜息を吐いて、浮奇の綺麗な瞳を見た。とても落ち着く。
「どうなるか、わからないんだ」
浮奇は黙って、俺の言葉を待ってくれている。
俺の手を確かめるように握ってくれる浮奇の手は、いつもあたたかい。
「そろそろ、身体が持たないだろうと思ってさ」
心配するなとでも言うように、ニカッと笑ってみせる。
浮奇はそんな俺の仕草にも眉をひそめる。
誤魔化しは効かないようだ。
また息を整えて、今度は一息に言う。これが本音だった。
「哀しいだろ。恋人が側で死ぬなんて。いっそ消えてくれたほうが」
「Shut up!黙って。誰がそんなことを言った?」
浮奇が耐え兼ねたように立ち上がって遮る。
その顔には、憤りと、哀しみの色が窺える。
「俺はふーふーちゃんを愛してる。地獄まで一緒だと思ってるよ」
またその瞳。どうしようもなく好きで、きっともう逃れられない。
「消えたりしないで。お願い。ずっと、死んでも、一緒にいようよ」
浮奇の声が震えている。
正しくないってわかってる。
でも、それでも俺たちはそれを望んだんだ。
「わかった。わかったよ浮奇。消えたりなんてしない。俺たちは地獄まで一緒だ。だから泣かないでくれ」
降参したように言ってみせる。
浮奇ははっと、意図せず流れたようだった涙を拭った。
そしてまたこちらに視線を向ける。
「言ったね?約束は絶対だよ」
有無を言わさない圧に思わず笑ってしまう。
「笑わないで。僕は真剣なんだ」
「わかった。All right。約束する」
浮奇はそれを聞くやいなや、有無を言わさず俺をぎゅっと抱き締めた。俺より少し小さい体が、どこにも逃さないと言わんばかりにしがみついてくる。この浮奇のハグが俺は大好きだった。
時間がとても長く感じた。感じたかっただけかもしれない。
少し体が離れて、顔を見合わせると浮奇は驚いた顔をした。
「ふーふーちゃん?泣いてるの?」
その言葉に今度は俺が驚く番だ。
「うわ、本当だ。なんでだろうな」
手でごしごし拭う。
それをやめさせるように俺の右手を捕まえて、代わりに浮奇の小さな手が優しく拭ってくれた。
ふと顔をあげて目を合わせると、浮奇もまた泣いていた。
なんだかおかしくなって笑い合う。
俺たちはこんな時間が、永遠では無いことを知っている。
だって、きっと間違っていた。
それは最初の一歩目から。
それでも、地獄だってどこだって、ふたりなら。
「浮奇、愛してる」
浮奇は照れたように笑った。
俺が愛してるを告げたときにだけ見せてくれる、この顔が好きだった。
「ふーふーちゃん、僕も愛してる」
浮奇はそっと目を伏せて、俺の唇に優しく口吻をした。
睫毛に透ける綺麗な瞳を心から愛しく思った。
「だからずっと、僕のそばにいてね」
それはもう何度目かの誓い。
今日も、貼り付くような夜が、すぐそこ。