底のない愛だった嫌な夢を見た。
飛び起きた俺は焦った。
Sonnyが、いない。
昨日は確かに隣のあたたかな体温に安心して、身を預けて眠りに落ちたはずだ。
冷や汗が背を伝って、やがて白いTシャツを灰色に染めていく。
比例するように不安で泣き叫びたい気持ちが心を占めていく。
ああ、これもきっと全部悪夢のせいだ。
ここは…?
不思議に思うAlbanが座り込んでいたのは、冷たい路地裏の地面であった。
何とも言えないざらついた感触の冷え冷えとしたそれに、思い出したくなかった記憶が次々と襲ってくるのがわかった。
それでも、それらに必死で抗いながら蹲ってただ耐えることしかできない。
呼吸が浅い。
助けて、と蚊の鳴くような声で訴えることすら叶わず、すぐ近くでパトカーのサイレンの音が鳴り響いた。
はっ、と気がついた瞬間にはAlbanは駆け出していた。それらは全て、体が覚えていたことだった。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。見つからないところへ。
決死の思いで走った先にあったのは、昔よく逃走用に使っていた秘密基地だった。素早く中に駆け込み息を潜める。
段々と憎らしいあの音が遠ざかっていくのを確認したAlbanは、急に力が抜けてその場にまたへたり込んだ。
額には汗がびっしょり。動悸は治まることを知らない。
すると今度は唐突に、脳内で轟音が鳴り響いた。
予期せぬそれに思わず呻き声を上げる。
ただの偏頭痛のようにも思えるが、確実に何かの警鐘だった。
つまり、俺は何かを忘れている。それも、大切な何かを。
頭の痛みと、追われていることへの焦り。そして、発展途上にあるこの地の夏の酷暑の全てが、じりじりと彼を追い詰める材料となった。
これは、夢か?それとも今まで見ていたものこそ夢?
はは、と漏れ出た乾いた笑いを聴いた瞬間、視界がぐにゃりと曲がった。
全てが嫌で嫌で嫌でたまらなかった。
この寂しい日々を、すっかり忘れたつもりだった。
だけどそれはまだ、心の1番柔らかいところにずっと残っていたのだ。まるで張り付いて拭えない泥みたいに。
少しだけ外から光が差し込んだ気がした。
朦朧とする意識の中必死にその空へと手を伸ばした。
そこにあったのは、煌々と輝く太陽だけ。
絶望を拭うような優しい日差しに、ふいに頬を伝ったその想いが、濁った頭を覚醒させた。
唇は思わずある言葉をなぞるように吐いて、俺の顔は歪んだままニッと笑った。
夢でも、夢じゃなくても。
君といる世界が1番幸せなんだ──────────
ぱちん、と目の前が弾けて、Albanは自らが望みとったはずの世界へと意識を戻した。
朝、呻き声がして目が覚めた。
隣を見た瞬間、Sonnyの寝ぼけた頭は冷水を浴びたように覚醒を余儀なくされた。
そこには冷や汗をかいて悶え苦しんでいる恋人がいたからだ。
焦りながらも彼の額に手を当てると、そこに宿る自我を持ったような熱に気が付く。感情が顔色に出やすい彼は真っ青になった。
医療キットが自分の部屋にあることにすぐに思い至ったSonnyは、少しの間とはいえ苦しむ彼から離れることを不安に思いながらもそっと寝室を後にした。
Albanが運悪く目覚めたのは、その僅か2分後であった。
彼の名前を大声で叫びたかった。
だが喉が枯れているのかどうも声が出ない。
一生懸命やっても、掠れた息が喉を通るばかりだ。
ならば探しに出ようとベッドから降りようともしたが、体がふらつくあまり正常に歩くことすらできず、その上また座り込んでしまう。
どうしよう。どうしよう。
Albanはほとんどパニックであった。
それはきっとついさっき見た悪夢のせいで。
気付けば考える間もなくありったけの力で祈りを捧げていた。
神様、お願い。
どうか、どうか、彼を奪わないで。
ねえ、もう僕から沢山奪ってきただろう?
僕ももう二度と誰かの大切を奪ったりしないから。
なんでもするよ。いい子になるよ。だからお願い。
僕から、僕から、
「太陽を奪わないで」
かちゃ、と、ドアが開くのと同時に、己の口からその願いが音となって発されたことを認識した。
そっと、祈りの儀式の延長線のように瞼を開けると、そこにはきょとんとした顔の恋人が立っていた。
手には救急箱を持っている。そのまま心配そうに駆け寄ってきてくれた彼をAlbanは力いっぱい抱き寄せた。
頬を静かに涙が伝った。
ますますそれを見られたくなくて、その腕にぎゅっと力を入れた。
「どうしたのAlban?」
Sonnyは嬉しくて堪らないという声色の裏に、隠しきれない優しさを滲ませていた。
彼のこういうところが、友人でいたときからずっと好きだった。
そのまま大きな手のひらが、小さく震えてしまっていた背中を宥めるようにさすってくれる。
暫くそのままでいるうちに、耳元で聴こえるその不規則な息遣いに違和感を覚えたSonnyはそっと体を離し、Albanの顔を見ることに成功した。
彼はぽろぽろと、止まらない大粒の涙を流していた。
驚いてまたすぐに抱きしめる。その腕には図らずとも力が籠もった。
再度与えられたその安心する体温に、Albanはまた一層涙が止まらなくなる。
Sonnyはそんな彼に、少し反省の色を感じさせる声で言った。
「ごめんね。やっぱり起きたとき俺がいなかったから、驚かせちゃったかな」
Albanは違うんだ、と懸命に首を振った。
そして嗚咽を漏らしながら、息も絶え絶えに話し始めた。
「Sonny、Sonny、僕は、君が好きだ。間違っているって知っていたんだ。僕が君を好きになったことも、君をここに縛り付けることも」
Albanは泣きじゃくりながらも、精一杯伝えたい想いを言葉にすることを選んだ。もうどうしようもなく傷付いていたからだ。
「でも、でも僕は、好きで好きでどうしようもなくて、君を絆したんだよ」
最後の言葉は、濁らず妙にはっきりと響いて聴こえた。
それは彼にとって、消したくても消せなかった、どうしようもない真実だったから。
Sonnyはそれらを黙って聴いていたが、最後の言葉にひとつ溜め息を吐いてから、優しくうん、と言った。
そして名残惜しむ様子で、ほんの少しだけ体を離した。
「ごめん、本当にごめん、僕は、」
泣きじゃくりながら話し続けるAlbanの唇を、Sonnyはいとも簡単に奪ってみせた。
その手慣れた様子はなんだか怪盗みたいで、そう思ったAlbanはほんの少しだけ愉快な気持ちになる。
Albanのその一瞬の表情はSonnyに余裕と見なされ、キスがまた一段と激しくなる。
Albanは必死で彼を抱き締めながらそれに応えた。
一通りのそれが終わると彼はSonnyの肩に倒れ込み、まずは息を整えることに尽力した。
「どうしたの…?」
唐突な、しかも彼にしてはちょっと荒々しいキスに驚いてどこにそんなスイッチがあっただろうかと、考えながらも素直に尋ねてみる。
Sonnyは頬を真っ赤に染めながら、射るように俺の瞳を見つめていた。そしてその僅かに赤く染まった唇が開かれる。
「知ってるよ、全部」
その眉は少しつり上がっているようで、どうやら怒っているみたいだ。
ちっとも怖くはないが、とてもかわいらしい。
「Albanが俺の前でだけ自分のこと“僕”って言ってるのも、俺と付き合ってることを後ろめたく思ってるのも、俺の前では一切そんなふうに見えないようにしてたことも!」
大きな声が響く。その言葉に力なく笑ってしまう。やっぱりバレてたか。
それでもその後の言葉は少し予想外だった。
「だから必死で、全力で、俺が君を心から愛していることが伝わるようにって頑張ってたのに!こんなの…あんまりじゃないか!」
Sonnyはありったけの力を込めて叫ぶせいで、ついに首元まで真っ赤になる。
掴まれた肩は少しばかり痛いが、全部彼の愛なのだと思うと心が愛しさで満ち溢れていくのを感じた。
彼にはそれがまた余裕そうに見えたようで、一層ムッとした顔でこちらを見つめてくる。
ああもう。全てが愛しくて堪らない。
Albanはそっと、慈しむように彼に唇を寄せた。触れ合ってすぐ離す。
そしてポカンとしている目の前の、世界一愛しい人の手を握った。
ほんの少しだけ目を伏せて、決意を固めるように震える息をした。
それが伝わったのか、Sonnyはほんの少しだけ体を強張らせながらも手を力強く握り返してくれた。
この人はいつも格好いいな、と心の中で笑いながら告げる。
「伝わってたよ。ちゃんと伝わってた。僕のこと、本当に愛してくれているんだって。充分すぎるくらいね」
その言葉に、今度はSonnyが驚いた顔をする番だった。
Albanはその表情もまた愛しく思いながら続ける。
「でも、だからこそ怖かったんだ。もう戻れないって」
はーっ、と震えを抑えるように息を長く吐いた。
そしてまたしっかり、瞳を見つめた。諭すような目で。
「Sonny。やっぱりこれは駄目なことだ。僕は………俺は間違ったんだ。君を間違った道へ誘った」
Sonnyは黙っていたが、握っていた手がもう一度、今度は優しく包まれたのを感じた。
その拙い些細な動作にまた勇気を貰う。
「それでも、それでもさ、」
迷ったように動いていた首が固定されて、Albanの顔はまっすぐSonnyを向いた。
そして、願いを言葉にするように、言った。
「この愛だけは本物なんだ」
Albanは泣き笑いみたいな顔をした。
苦しそうで、堪らなく、幸せそうで。
Sonnyは胸がきゅっと締め付けられるのをじっと耐えながらも、必死に次の言葉を待った。
その健気な動作に少しだけ微笑んで、彼は言った。
「だから、これからも俺と、一緒にいてくれる?」
こてん、と意図的に傾げられたであろう首に、まんまとしてやられたSonnyは短い呻き声をあげた。クリーンヒットだった。
口に片手を当てて暫し戦慄する。これは、彼が自分の要求を確実に飲ませたいときの立ちふるまい。前にもこれでお高めな財布を強請られてしまい、全く断れなかった記憶がある。
一体誰が彼をこんな風にしてしまったんだと嘆きたくもなったが、そんなの自分以外の誰でもないことに思い至ってしまいすぐにやめる。
それでも、してやったりとでも言うように目の前でにやにや笑う彼が愛しくて、どうしようもなくて。
Sonnyは今までの降り注ぐような幸福を、また唐突に思い出した。
ずっと、手を伸ばせば消えてしまうと思っていた。
初めて会ったときから変わらない、全て諦めたような笑顔。
それを変えたくて、心から笑った顔が見たくて、傲慢だと知りながら思わず手を伸ばしたんだ。
それも、確実に届く距離で。つまりこれは、俺の過ちだった。
そしてその真実はまた、俺が墓まで持っていくと決めたことだった。
だったら、俺が今言うべきことは。
短い息を吸った。自然と彼の視線がこちらに向く。
「病めるときも、健やかなるときも、」
そっと彼の美しく白い左手を掬い上げ、その甲に唇を這わせた。
美しい瞳に照準を合わせてニッと笑ってみせる。
「君のそばにいるよ。誓って」
Albanの色の違う左右の瞳が大きく開かれた。
そしてその端正な顔が少し崩れて愛らしくなったかと思えば、急に睨まれる。
そのまま流れるようにどちらともなくひとつキスを交わした後、一言だけ告げられた。
「ずるい」
可愛すぎる恋人の糾弾に笑みが溢れてしまう。
「ごめん。言ってみたかったんだ」
温度の低い澄まし顔でニコッと笑いかけると、彼は一瞬ぎょっとして、ちらちらとこちらを窺いながら複雑そうな顔をしている。
その一連の動作に思わずニヤニヤしてしまう。
Albanが俺の好みをよく知っているのと同じように、俺だって彼に漬け込む方法をもう沢山知っている。
以前、女の子とふたりきりで毎日のように平気で出掛けてしまうAlbanに、つい嫉妬が爆発して貼り付けたような笑顔を向けてしまったことがあった。
しかし、俺が後悔に苛まれたその瞬間、彼は余裕そうだった顔を一転させて体ごと後ずさり、最後は壁に激突してそのままずるずると床に座り込んでしまったのだ。
そして蚊の鳴くような声で「…わかった。やめる、やめる、からもうそんな顔しないで………」と真っ赤な耳をして訴えかけてきた。あの日のことは一生忘れない。
「なに考えてるの!」
かわいいAlbanを思い返してつい笑っていると、今度はしかめっつらに頬をつねられた。
「あぅばーん、いひゃい」
抵抗するが当然間抜けな声しか出ない。
だがそれで気が済んだようで、満足そうな顔に手を離される。
彼はこんなふうに、いつもころころと表情を変える。
怪盗の仕事にぴったりな個性なんだよね、と泣きそうな顔で言った彼を思い出した。
初めてそれを聞いたとき、彼の最高に素敵な個性を哀しいことにつかわせてしまった環境が許せなかった。
ふ、とひとつ呼吸をした。
Albanはそれにびくっとして、窺うようにこちらを見ている。
安心させるようにいつも通り笑うと、彼は少しだけ表情を和らげてくれた。そこまで確認してから言った。
「あのねAlban、俺は警察なんだ。間違ったことはしないと、神に誓ってこの職業に就いた。そして俺はこう思ってる。俺たちが愛し合うことは、決して間違いなんかじゃない」
強く、まっすぐ告げるSonnyにAlbanは少し驚いた。
彼がこんなにも自信に満ち溢れて物を言うのは珍しかったからだ。
「俺の言うこと、信じてくれるかな」
少し不安げに尋ねられ、Albanは懸命に何度も首を縦に振った。
Sonnyは花が咲いたように顔を綻ばせた。
「だから大丈夫だよ。俺の側にいて。ずっとね」
そして手をまた握った。Albanはその動作に酷くときめいてしまった。
「うん。わかったよ。Sonnyはすごいね」
目を輝かせて言うAlbanに、笑顔で答える。
「ふふ。VSFは正義の味方だからね」
それを聞いてまた楽しそうにけらけら笑う彼の姿に目を細めながら、Sonnyは心の中でひとつ懺悔をした。
神様、嘘つきな俺をどうか許してください。
彼の笑顔を守りたいんです。
そのためならなんだってします。
間違ったことでも、罪でも。
だってそれが、俺の人生なんです。
Albanが隣で笑って生きていてくれるなら、もう何も要らない。
「Alban」
「なーに?」
その眩い笑顔に、少しだけ泣きそうになった。
「愛してるよ」
ほとんど泣き笑いで言った俺を見て、彼はふと真面目な顔になった。
そしてすぐに表情を緩ませ、困ったような顔で笑った。
それはまた、彼が初めて見せる笑顔であった。
「俺も愛してるよ。きっと、Sonnyよりももっと」
それを聞いて必死に保っていた顔がみるみる崩れていくのがわかった。
違うんだよAlban。俺は、君よりもっと醜いんだ。
そしてそれを隠しているんだよ。
「Sonny」
俺よりも細くて小さくて、それでも一番優しい腕に守られるように抱きしめられる。
もうほとんど泣いていた。
全てをこの身体に吐き出してしまいたくなった。
でも、この嘘は、隠し通すと決めたから。
彼の笑顔を守る。ただ、それだけのために。
「Alban、愛してるよ、この世の何よりも」
「…うん、知ってるよ」
今夜もまた、夜を分け合おう。
傷の舐め合いでもなんでもいいから。
君の痛みが、半分になるなら。
だから、だから、お願い。
「俺の側にいて、ね」
「…約束するよ」
覚悟を持ったその言葉が響いた瞬間、世界が反転した。
真っ白な天井が、瞳を突き刺すように光って見えた。