繋いだのは花の色汚い嗚咽とともに、口から何かが溢れた。
嘔吐物しかないはずだと高を括って視線をやった俺は、酷く驚いた。
「………は?」
そこにあったのは、数枚の黄色い花びら。
しゃがみ込んでつまんでみると、それは微かに濡れていて。
灰色の路地裏に似合わないその色は、まるで現実的ではない事実を形作ろうとしていた。
*
「嘔吐中枢花被性疾患です」
「………は?」
藁にもすがる思いで、たまたま目に入ったぼろぼろの病院に駆け込んだ。
そこにいたのは受付の看護師と、妙に奇妙なオーラを纏った医者のふたりだけであった。
信じてもらえるとは少しも思っていなかったが、念のため先ほどの黄色い花びらを掻き集めて袋に入れてきたのが功を奏したのか、何でもないことのようにカルテを渡され、診察室まで通された。
そこで唐突に言われたのが、その言葉であった。
「えっと、それは、診断名…?」
医者は俺の言葉を聞いているのかいないのか、口角だけ中途半端に上がって固まってしまったような笑顔でまた話し出す。
「嘔吐中枢花被性疾患は、口から花を吐く病です。かつて室町頃急速に広まったとされていて、今でも密かに潜伏と流行を繰り返しています」
その張り付いたような笑顔と、すらすら溢れる言葉がどうしても気持ち悪くて、軽く嘔吐いた。
しかし、それすら次の言葉に全て吹っ飛んでしまった。
「嘔吐中枢花被性疾患のほとんどの原因は、片想いです」
「は………?どういうこと?」
医者は高い唸り声をあげて、わざとらしく考える素振りを見せてから、こちらに人差し指を突きつけてくる。
「つまり、あなたは今誰かに片想いをしていて、そのせいでこの病を発症してしまったというわけです」
もうさっさと帰ろう、これは悪い夢だ、と考えて会話のスピードを早める。
「治すには?」
「薬などありませんよ。その想い人と両想いになるか、あとは」
そのまま黙って下を向いてしまった。
終始人と会話してることを忘れているような調子で、やはり気味が悪い。
かと思えばその青白い顔は長考を経て急にこちらを向いた。
「実例は見たことがないのですが、死ぬこともあるそうですよ」
そう言い放って彼は口角をあと5度ほどあげると、短く気味の悪い笑い声をあげた。
「帰ります。いくらですか」
気分が悪くなり、極めて冷淡に仏頂面で言う。
「災難なお客様から金などいただきませんよ」
後で莫大な金額を要求されたりしないだろうな、と牽制も兼ねて睨みつけたが、意にも介していないようだったのでため息をつくに留まる。
「失礼します」
お気に入りのバッグを地面に置いてしまっていたことに気が付いて、行き場のない怒りをまた視線に込めながら走るようにして診察室を出ると、その背中に大きな声が掛かった。
「お客様!この黄色い花はストックと言います!花言葉は─────」
医者にかかったらそれは患者様だろうが、と、こんな状況でさえなければ笑い話にもなったようなそれを尻目に、俺は家まで全速力で走った。
玄関に駆け込んで鍵を閉める。
ガチャン、という音に安心したその瞬間。
おぇ、と不自然な音が喉元で鳴った。
まただ。先程と全く同じ感覚だった。
そのままむせるような咳とともに吐き出したのは、青い花。
名前も知らないその花を掻き集め、俺は少しだけ泣いた。
俺は、あの医者が言った通り、片想いをしていた。
そしてその人には、想い人がいる。
叶わない、恋。
思考を巡らせた瞬間に、2度目の波が体を揺さぶる。
先程よりも沢山の花びらを、散らすようにして吐き出した。
「ふー、ふー、ちゃん」
思わず呼んだ、涙に濡れたその音色が、
小さな箱に虚しく響いた。
俺はそのまま、呆気なく意識を手を放してしまった。
温もりを感じる。
暖かい光と温度に包まれたような世界で、微睡みながらその名前を呼んだ。
「浮奇?」
その瞬間、叩き起こされたように目が醒めた。
「ふーふーちゃん?」
キッチンから覗いたのは、他でもない想い人の姿だった。
慌てて布団をかぶる。こんなだらしない格好を見られるわけにはいかない。
そう考えてから気が付いた。
状況から察するに、彼がここまで運んで、着替えまでさせてくれたのだと。
そして、何やら良い匂いもする。料理まで作ってくれているみたいだ。
その自分に対する数々の施しに、地に足がつかないほど舞い上がりながら、俺は元気に起き上がった。
途端に足元がふらついて、駆けつけてきた彼に支えられる。
「ご、めん」
腰に回された手に動揺する。この程度でどきまぎしてどうする。
「大丈夫だ。具合が悪いんだろう。何もしなくていいからまだ寝ていろ」
そう言ってまた布団に寝かされる。
彼に与えられる胸の高鳴りをうまく逃がせず、俺は目をきゅっと瞑った。
その瞬間、唐突に吐き気を催した。
どうしよう。今は彼がいるのに。
焦れば焦るほど、それは抑え込めないほどひどくなった。
やがて激しく咳き込んだ。せめて隠そうと口を抑えた両手から、花びらが溢れる。
「浮奇…!?」
その声を聞いて、涙も同時に流れ始める。
本当に苦しいのはこんな嗚咽じゃなくて。
君の目に、俺が映らないことだ。
朦朧とする意識の中でそんなことを考えながらも、想いと同じように溢れ落ちる花びらは止まらない。
彼はきっと信じられないその状況に慌てながらも、一生懸命に背中を擦ってくれた。
「浮奇、大丈夫だ。落ち着いて息をしろ」
その優しくて大好きな声が、あたたかさを持ったまま耳元で囁く。
呼吸の波が緩やかに変わっていく。
俺専用の特効薬みたいだ、なんて考えてふと笑った頃には、それはもうすっかり収まっていた。
「浮奇、大丈夫か?」
目の前の心配そうに眉を顰めた顔が愛しくて、思わず抱きついた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「これは………花、なのか?」
すっかり失念していたそれに慌てて体を離す。
「え、っと、そう、花びら…だね」
「…何か知っているのか?」
鋭い彼に詰め寄られて目が泳ぐ。
突然の出来事にうまいでたらめを考える時間もなく、俺は正直に話してしまうことにした。
「……病院に行ったんだけど、こういう病気なんだって」
「これは……どうすれば治るんだ?まず発症の原因は?」
冷静な彼から質問攻めを食らうが、そのどれもがトップシークレットで慌てる。
「え、っと、その、」
「教えてくれ浮奇。昨夜たまたま立ち寄ったらお前が玄関で気を失ってたから、俺死ぬほど心配したんだぞ」
その真剣な眼差しに、この人に隠しごとなんてできないのだと悟った。
諦めたような息で、真実を言葉にした。
「これは……片想いをしてるとなる病気なんだって。治すには、両想いになるか、……死ぬかだって医者が」
目の前の彼はそれを聞くなり顔面蒼白になった。
暫く俯いて、息すらしていないのかと思うほど動かなかったので心配して声を掛ける。
「ふーふーちゃん…?」
「浮奇、」
かつてないほど真剣な眼差しだった。
「好きなやつがいるのか?」
気圧されるようにして簡単に頷いてしまった。
慌てて取り消そうかとも思ったが、事実なのでもうどうしようもない。
黙って静かな時間を耐えていると。
「俺が、力になるよ」
「へ…?」
彼は俺の目をまた射抜くように見つめて言った。
「だから、それが誰なのか教えてくれ」
心音が走るように速くなる。
「無理だよ。それだけはできない」
だって君だから。なんて勿論言えず、半泣きで断る。
「浮奇、」
諭すように言われて、心臓が痛くなった。
「…君には、叶えられないよ。だってその人、好きな人いるから」
目を逸らして、責めるように言った。
またしんとしてしまった空気を不安に思って窺うと、彼は唇を強く噛み締めていた。
「浮奇」
名前を呼ばれる。
この人が呼ぶ自分の名前が、一番好きだった。
「なに?」
どんなときでも嬉しくなってしまうそれに僅かに微笑んで返事をした。
「俺を好きになってくれないか」
「………え?」
どういうことだ。好きになってくれないか?
もう既に好きだけど、とかきっとそういうことではなくて。
「俺は、浮奇が好きなんだ」
彼は唇を噛み締めたまま、苦しそうに言った。
俺はまだ何ひとつそれが処理できないままで。
「え…?だって、ふーふーちゃんは、シュウさんのことが好きなんじゃなかったの…?」
混乱している頭をフル回転して質問を投げかける。
共通の知り合いで俺たちの一個上である、彼の優しい笑顔が脳裏に浮かんでいた。
「彼は確かに大切な友人だが、恋愛感情を抱いたことは一度もない。第一、シュウには出会ったときから恋人がいるぞ」
電撃が走ったようなショックを受けた。
そんな、2年余りの俺の悩みは一体。
短時間で与えられすぎた情報は、未だ脳内をくるくると回っている。
「俺は、出会ってほんの1週間くらいの頃からずっと、浮奇が好きだったんだ」
哀しい色を湛えた瞳で笑った彼が、視界に映った。
その瞬間、俺は全ての思考を放棄して勢いよくキスをした。
驚いたような息の数秒後には腰に彼の右手が回された。
俺の唇はそのまま簡単に侵入を許した。
呼吸すら溶けて奪われて、それでいいかと思ったそのとき。
あの感覚が、胃の上の方からせり上がってきた。
反射的に唇を離して、吐き出した。
目の前の彼が両手で受け止めてくれたそれは、先程までとはまるで様相が違った。
それは、なんと一輪の花であった。
白銀に輝く美しいそれに、どちらともなく感嘆の息が漏れる。
俺は不思議と軽く感じられる体に気がつき、直感的に、ああ、終わったんだなと悟った。
「ふーふーちゃん、聴いて」
喜びそのまま、にこっと笑って彼の耳に口を寄せた。
「僕、出会った瞬間から、君に恋に落ちたんだ」
それは、他の何にも勝る合図で。
嬉しそうに目を細めた彼が、苦しいほどに抱きしめた。
その腕も、体も、大きな愛も、
もう全部、僕のもの。
*
「お世話になりました!」
浮奇になんとなくの住所を教えてもらい、無料で診断をしてくれたという病院にお礼を言いに来ていた。
その日、院内に一人しかいなかったおそらく医者であろうその人は、元気に告げたお礼によくわからない笑みを浮かべて頷いた。
菓子折りだけ押し付けるように渡すと、ぎこちない動作で受け取ってもらえた。
「白銀の百合の前、彼が最後に吐いたのは何色のどんな花だったか覚えているかい?」
奇妙な笑顔で、唐突にそう聞かれる。
これは浮奇がもう二度と行かないと言い張ったわけだ、と苦笑しながら記憶を辿る。
「確か、白くて、花びらが5枚の…」
そう言うと、目の前のその人は見違えるほど柔和に笑った。
驚いている俺に、彼は言った。
「それはリナリアだね。花言葉は─────」
俺は、寂しがりな愛しいあの人を、
この腕の中で一生守り続けることを、心から誓った。