貴方に生かされる 人は本当に悲しいとき、涙が出ないのだと知った。
彼がこの家から出て行って三日が経つ。だが、俺は未だに泣けずにいた。別に強がる必要もない。この家には俺一人なのだから思う存分泣いたら良いのだ。それなのに涙は一滴も出なかった。
巷で〝泣ける〟と話題の映画を観ても涙は出なかった。それならば、と読む度に涙を流す歴史小説を試してみるがそれもまったくというほど涙が出なかった。
自分はおかしくなってしまったのだろうか。彼が俺の体の一部や機能さえも一緒に連れて行ってしまったのだろうか。もし、そうだとしたらいっそ体も心も魂でさえも全て奪い去ってくれて良かったのに。
もう初夏へと向かっているはずなのに自分の手は氷のように冷たく不快感を抱く。少しでも温めようと両手を擦り合わせるがあまり意味はなさそうだ。昼間なのに雨のせいかどんよりと暗い雰囲気が漂う。しとしとと鳴る雨音を聞きながら暫し目を閉じ彼のことを考えた。太陽みたいに明るい人なのに、どうしてこんな天気の日に思い浮かべてしまうのだろう。いや、雨だろうと晴れだろうと関係ない。ところ構わず彼のことを考えているじゃないか、と自分に物申す。
物思いに耽っていると突として呼び出し音が鳴り響いた。弾かれるように立ち上がりスマートフォンに飛びつく。ディスプレイに表示された名前を見て自覚出来るほどに頬が緩んだ。途端に全身に血が巡るような感覚。あんなに冷たかった手も一瞬にして温度を取り戻す。ああ、俺はまた貴方に生かされている。
『もっし〜!幻太郎、お久〜!電話出来なくてごめんね〜』
久しぶりに聞いたその声に込み上げるものがあり、ぐずっと鼻を啜る。
「別に構いませんよ。お忙しかったんでしょう」
『まあね〜!新装開店の準備ってすっげ〜大変でさ〜!朝から晩まで働き詰め〜幻太郎の声聞きてー!ってずっと思ってた」
「毎日、メッセージではやり取りしてたじゃないですか」
『それはそれ!やっぱ声聞きたいじゃん。幻太郎もそう思わない?』
その問いかけにいつものように虚言を吐き出そうか、とも考えたがそれはここでは不正解のような気がした。
「ええ、そうですね。声……聞きたかったです」
でっしょ〜!と得意げな声が電話の向こうから聞こえる。きっとからりとした笑顔で述べているのだろう。想像すると愛おしさと同時に寂しさも募った。早く会いたいな。
ぼんやりと考えていると彼が幻太郎の名を呼んだ。
『幻太郎……寂しい思いさせてごめんね。あと二週間もすれば帰れるからさ』
途端にポロポロと涙が頬を伝った。
ああ、やっと泣けた。貴方が連れて行って貴方が連れ戻した涙。
「まだ……三日しか離れてないのに、もう、寂しいんで、す。小生は、おかしく、なっちゃったん、でしょうか……」
嗚咽を漏らしながら喋る様子はきっと不恰好に違いない。それでも涙を止めようとはしなかった。彼の前で感情を繕うことなんて無理なのだ。
『おかしくないよ。俺っちもすっげぇ寂しいもん。早く会いたい』
「お、れもです……」
『なるべく毎日電話するようにするからさ。そしたら二週間なんてあっという間だって』
彼に見えるはずがないのにうんうん、と強く頷いた。俺はいつの間にこんなに弱くなってしまったのだろうか。護るべきものが、大切なものが増えれば増える度に人は弱くなってしまうのだな、と思い知らされてしまった。失うのが恐ろしいほどの大きな愛が確かにここに存在している。
『帰ったら幻太郎の好きな肉じゃが作ってあげんね!あ、オオサカ土産は何が良い?』
簡単に涙を拭うと彼の問いにあれこれ思案する。せっかくの電話だ。湿っぽいまま終わるのも勿体無い。
「そうですね……貴方が元気に帰って来てくれさえすれば何もいりません」
そう言うと電話の向こうから『ひゃ〜』というような形容し難い声が聞こえた。
「一二三?どうしました?」
『……俺っちの恋人が可愛すぎて困っちゃうんですけどー!どうしてくれんの!尚更会いたくなっちゃったじゃん!』
あはは、と声をあげて笑うと、笑い事じゃねーし!と非難されるが、彼も楽しそうだ。たまには嘘ではなく素直に気持ちを伝えるのも悪くない。
「大好きですよ、一二三」
『え……幻太郎、マジでどうしちゃったん?超デレるじゃん』
「……揶揄うなら今の言葉取り消しますが」
『わー!メンゴ、メンゴ!俺っちも大好きだよー!超愛してる!』
慌てた彼の様子に再びあはは、と声をあげて笑った。
他愛のない話を一時間ほどして通話は終わった。休憩時間だったらしい。夜も五分ぐらい電話出来そうだ、と彼は言った。たった五分。それだけでも俺の心は期待に躍る。
先程まで怠惰の念から抜け出せずにいたが一二三の声を聞いただけで意欲が湧いてくるのでつくづく現金な奴だと自分を揶揄する。まあ、それだけ彼に骨抜きにされてしまっているという証拠だろう。
意欲が湧いてきたついでにふと思い付いて、ごく自然に筆を執った。
彼に手紙を書こう。交際して随分長いし、同棲してからも時が経っているが、手紙を書くのは初めてかもしれない。普段ならこっぱ恥ずかしくて書けないが、こんなときだから。こんなときだからこそ書こう。嘘偽りない自分の気持ちを乗せて。
"拝啓 伊弉冉一二三様──