SECRET ERROR「何か俺に隠してることあるよなあ? ネロ」
ワインレッドの双眸が、じっとネロを見据える。見られたくない機械の心の奥底までを容赦なく暴くようなその視線に、ネロはひくりと口端を震わせた。
──ネロがその異常に気付いたのは、朝食の支度をしている時だった。
いつも通りにオーナーであるブラッドリーと、ついでに自分の分の弁当のおかずを作り終え、最後に念の為に味見をしたのだ。
「……?」
おかしい。確かにいつも通りに作った卵焼きが、まるで粘土を噛んでいるかのように味がしない。自ずと導き出された答えは味覚センサーの故障。調理用アシストロイドとしては致命的な不具合である。
本来ならすぐに修理の必要がある事態だ。それでもネロがそのことをブラッドリーに伝えなかったのは、シティポリスの署長として毎日多忙なオーナーの手をこれ以上煩わせたくなかったから。
幸い、料理は毎日していたこともあって、火加減や匙加減は記録として叩き込まれている。不安な素振りさえ見せなければバレないだろうと高を括って早一週間。ちょっと遠くまで買い出しに行きたいからと理由をつけて、ネロは半休を取った。
午前のパトロールを済ませた後、署を出たネロが単身向かったのはフォルモーント・ラボラトリーだった。
ボディの外的な故障ならともかく、内部のセンサーが壊れてしまえば、通常のメンテナンスショップに行くわけにはいかない。その理由はネロが違法製造されたアシストロイドということも勿論あるが、カルディアシステムという特殊なプログラムを組み込まれていることが何より大きかった。ラボラトリーの企業秘密である其れを外部のメンテナンスショップに晒すのは禁止されているのだ。
だだっ広いエントランスホールで受付のアシストロイドに声をかけ、故障の旨を伝える。暫く待つと、上階の部屋へと案内された。
案内役のアシストロイドが居なくなると、部屋の奥からネロの名前を呼ぶ声がする。聞き覚えのあるそのトーンに、ネロは小さく目を見開いた。
「あれ。先生、人型アシストロイドは専門外じゃなかった?」
「専門外だよ。いつもの担当者が急な病欠で、代わりに駆り出されたんだ。全く……いい迷惑だよ」
溜息まじりにそう言った男はファウストといって、普段はペットロイドの研究や修理を担当している。それにしても、こんな風に急に任せられるということは、意外にもファウストは人型アシストロイドについても一定以上の知識があるようだ。
ファウストからすればとんだ災難だったかもしれないが、ネロ的には面識のある人物にみてもらえるのは安心要素が大きかった。ふ、と口端を緩めていれば、ファウストはふわりとウェーブのかかった茶髪をゆらしてネロを見た。
「そこに座って。故障だって? 場所は?」
「味覚センサー。味が全くしなくなっちゃってさ。ちょうど一週間前の朝からかな」
「……どうしてすぐに来なかったの」
「あ〜……ほら、仕事はそんなにすぐに休めねえし……料理については記録通りにやってればなんとかなるかなって」
なんとも言い難い表情とじとりとした視線をファウストから向けられ、ネロは軽く肩を竦めた。
いくつかの問診と味覚センサーの動作確認の後、ネロはベッドに転がされた。ラボラトリーのベッドは例えるならば病院と同じような其れで、マットレスが薄い上に硬くてあまり好きではない。
ファウストから修理中はスイッチを落とすか聞かれ、ネロは瞬時に首を縦に振った。意識のある状態で、よりによって口内にある内部センサーを修理されるなど、とんだ羞恥プレイである。
言葉通りに電源を落とされてから、次にネロが目を覚ましたのは、同じように寝台の上だった。
「終わったよ。これ、噛んでみてくれる?」
ファウストから差し出されたのは、薄い桃色をしたガムのようなものだった。言われた通りに口に放り込むと、かわいらしい見た目とは裏腹にレモンにそのまま齧りついたような酸味がガツンとネロを襲う。
「すっっぱ……!」
「それがちゃんと酸っぱく感じるなら大丈夫だな。今回の故障の原因だけど、味覚センサーの感知部分に余計なものが溜まってた。調べてみたけど主な成分はベンゾ[a]ピレン、ニトロソアミン類、芳香族アミン類……あとまあわかり易いところで言うとニコチン。ネロ、これが何かわかる?」
「…………なにそれ、呪文?」
へらりとネロが眉尻を下げて笑ってみせると、ファウストは呆れたように溜息をついた。
「煙草のタール。ヤニとも言われてるけど……そういえばきみのオーナーは愛煙家だったな」
「あ、ああ……えっと」
「人型アシストロイドは繊細な感知式のセンサーが多く搭載されてる分、こういう外的な阻害因子はできるだけ避けないといけないんだけど……とりあえずこちらできみのオーナーには報告しておくから」
「あー! 先生、先生! 頼むからそれは勘弁してくれ」
ネロが突然悲鳴のような声をあげると、ファウストは驚いたようにゴーグル越しの瞳を見開いた。
「は? どうして」
「いや、あの、多分それ、オーナーのせいじゃねえっていうか……ほら、修理費とかは俺が自分で払うから、なんとかブラッド……オーナーには黙っててくんない? 頼むよほんと」
必死の懇願に、ファウストがネロに向ける視線がじわじわと険を帯びてくる。
「きみはアシストロイドだから、オーナーを庇いたいのは分かる。それでも、アシストロイドの状態管理はオーナーの仕事だ。それに、アシストロイドの修理やメンテナンス内容はこちらからオーナーへ報告する義務がある」
ファウストの菫色の瞳は全く譲る気がないとばかりにネロをじっと見据えている。ネロはその圧に困ったように眉尻を下げると、降参しましたとばかりに両手を上げてみせる。
そしてそのまま、身のうちに抱え込んでいた小さな秘密を大人しく白状した。
ネロがラボでの修理を終えて帰宅すると、アパートには既に灯りがついていた。まだ日が落ちきっていないこの時間にオーナーであるブラッドリーが家に居るのは珍しい。慣れた手つきで玄関の扉を開くと、其処にはブラッドリー愛用の質の良い革靴が並んでいた。
「ただいま。ブラッド、今日早かったんだな」
ネロがダイニングのソファーに身を預けているブラッドリーに声をかけると、ブラッドリーは閉じていた瞳をゆるりと開いた。
「まあな」とそれだけ呟いて、ブラッドリーは再び瞼を閉じる。そんなオーナーを余所にネロはいつも通りにキッチンに立った。
冷蔵庫を覗き込み、夕飯の献立を考える。そこでネロは、己の失態に気がついた。
──あ、そういえば買い出し行くの忘れてた。
半休をとった理由としてなんとか買い出しを捻り出したというのに、ネロはラボから特に店に寄ることもなく直帰してしまったのだ。夕飯を作るだけなら問題ない食材が冷蔵庫には揃っていたが、それとこれとは話が別。半日休みをとったくせに何も持たずに帰ってきたことをブラッドリーに怪しまれているかもしれない。
「えっと……ちょっとハイクラス・エリアの方まで買い物に行ってたんだけどさ。あんまり掘り出し物もなかったからそのまま帰ってきちまった」
思えば特に何も聞かれなかったのだから、黙っていればよかったのだ。それなのに、慌てたネロの口からはしどろもどろな言葉ばかりが滑り落ちて行く。
ブラッドリーはそんなネロの方に一度だけちらりと視線を遣って、そのまま大きく伸びをした。
「そうかよ。本当に何も無かったのか? 例えば、そうだな……最新のアタッチメントとか」
ソファーが大きく軋んだ音をたてて、代わりに足音がネロの背後に近づいてくる。冷蔵庫をなんとか閉めたまま、取っ手から手を離すこともできずにネロは固まっていた。
──ああ、どうしよう。もしかしなくても全部バレてんなこれ。
「先生、言わないでって言ったじゃん!」と此処にはいない細身の男に問い詰めたい気分だったが、今更どうすることもできやしない。背後に忍び寄る気配に、ネロは小さく息を呑んだ。
「今大人しく白状するならこれ以上追及しねえよ。だがまあ……しらを切るつもりならそれ相応の態度はとらせてもらうぜ」
ぐっ、とブラッドリーの指が、恐る恐る振り返ったネロの顎を掴む。強制的に交わった視線が緊張感を増長していくようだった。
「何か俺に隠してることあるよなあ? ネロ」
どうやらブラッドリーが知っていたのはネロが『何らかの理由でフォルモーント・ラボラトリーを訪れていた』という事実だけだったらしい。
そのことにネロが気がついたのは、味覚センサーの修理に行っていたと大人しく打ち明けた後のことだった。深く息を吐き出したブラッドリーは、ネロの顎を掴んでいた手を離すと、代わりとばかりに指先でネロのまっさらな額を弾く。
「調子が悪かったんなら早く言えよ。何一人で勝手に対処してんだ」
「いや、でも……」
あんた、そんな暇無さそうだったじゃん。そんな言葉が喉まで出かかって、すんでのところで飲み込んだ。ネロがそのまま言葉を詰まらせていると、ブラッドリーの眉間に皺が深く刻まれていく。
わかりやすく機嫌を損ねているらしいオーナーに、ネロはどうすることもできずにただ視線をうろうろと泳がせた。
「はあ……で、原因はなんだったんだよ」
来た。実を言うとネロは先程からこの質問に対する回答を必死に頭の中で組み上げていた。導き出されたいくつものパターンの中から最適と思われる解を探し、ネロは蜜色の瞳をブラッドリーの方へと向ける。
「……っ」
しかし、自信満々に吐き出そうとした返答は呆気なく霧散する羽目になる。
──いや、なに、その顔。
例えるならば、好物を目の前で取り上げられて拗ねた子供のような。
横柄ながら基本的にはスマートな振る舞いのオーナーが、普段ならば決して他人に見せないであろう表情を目の前にして、考えていたはずの言葉も何もかもがネロの中から吹き飛んでしまった。
対するブラッドリーは、口を開いたまま固まってしまったネロを訝しげに見ると、その頬を長い指先でつまんでみせる。ブラッドリーの色素の薄い肌を青白く照らすのは、ネロの左胸でぴかぴかと輝く白百合の紋様だ。
「ネロ。おい……故障か?」
違う、と口にすることもなく、ネロはふるりと首を横に振った。ブラッドリーはつまんだ頬がほの赤く染まっているのを見て、やはり何もわからないとばかりに小首を傾げる。
ネロはそんな己のオーナーの姿を見て、やがて小さく笑いだした。
「ふふ……いや、センサーの感知部分になんか溜まってたみたいでさ。もう元通りだし、何も問題ないよ」
「はあ? ……そうかよ。もう大丈夫なんだな?」
ネロがこくりと頷くと、ブラッドリーは深く息を吐き出した。溜息というよりは柔らかな安堵のような気色を孕んだ其れに、ネロはくすぐったいような居た堪れないようななんともいえないむず痒さに眉を下げた。
また、知らない感情だ。きっと、インストールされたカルディアシステムは、このオーナーのそばに居る限りはずっとアップデートされていくのだろう。そんな予感めいたものに身を委ね、ネロはひとつだけ隠したままの事実を胸に、ほっと息を吐き出した。
オーナーが寝静まった夜更けのアパート。項に充電ケーブルを繋いだままだったネロは、自分でそれを引き抜くと、ゆっくりとその身を起こした。
なるべく物音を立てないように物色しだしたのは引き出しの中。人間でいう物欲というものが食材や料理に関わるものに偏っているネロは、私物が大して多くはない。当然引き出しの中身もスカスカで、しかし『其れ』はそんな中でも奥の奥へと身を隠すように確かに存在していた。
「もう捨て……ねえとなあ」
シンプルなブラックのパッケージに、白文字で書かれた警告の文字。ネロは流れるようにその蓋を開けると棒状の中身を一本だけ取り出した。
同じく引き出しから取り出したライターの火を近づけるとチリ、と先だけが赤くなる。遅れて立ち上る灰色の煙を見上げながら、ネロは「これで最後にしよう」と心の中で呟いた。
機械化が進んだフォルモーント・シティ。その最たる例であるアシストロイドが隠れるように嗜んだのは、奇しくも彼のオーナーと同じ銘柄の葉巻だった。