導きの歌江晩吟は、目の前で起こっている事が信じられなかった。
蓮花塢に、事前の連絡もなしに藍啓仁がやってきた事にも驚いたというのに……。
二人の内弟子……小双璧を引き連れた、藍啓仁は朔月を江晩吟に捧げた形で頭を垂れている。
「頭をお上げください、藍先生」
目上の仙師に、嘗ての師にこんな事をされては、江晩吟はどうしていいのか解らない。
「江宗主、どうかお救いください」
「何があったのです。これは、朔月ですよね?」
朔月からは、清らかな仙気は感じられず淀んでいる。持ち主の仙気が穢れているのだ。
「藍宗主に、何かあったのですか?」
思いのほか、焦りの声が出てしまった。
藍啓仁は、顔を上げて事の顛末を離す。
藍曦臣が、この朔月を使って自害しようとしていた事。けれど、それは衝動的なモノであり本当に死のうとしていたわけではない事。
この朔月を取り上げたはいいけれど、己の爪で頬や首に胸元を傷つけるのだという。
それを止めに入って正気を取り戻すけれど、一人にすればそれは再び始めってしまう。
「……どうか、江宗主。貴殿が頼りなのです」
「ですが、私は……」
「あの子と、似たような境遇に近い貴殿だからお頼み申し上げるのです。
我が藍氏に外部の貴殿を巻き込む事は、心苦しい。けれど、それでも江宗主……いいや、江晩吟。どうか、声をかけてやって欲しい」
ああ、この人も人の親なのだな。
己も金凌を育ててきた経験もある、二人も育てあげて外部も内部も含めた弟子を導いてきた人だ。
「解りました。藍先生の頼みなら、仕方ありません」
「江晩吟……」
「ただし、寒室には私一人で入らせていただきます。それと、大声を出してしまう事をお許し願いたい」
「承知した」
藍啓仁の背後の二人も、安堵したように微笑み合っている。
そこまで期待されても困るんだがな……と思いつつ、朔月を見つめた。
(俺はまだ、許していないからな)
▽▲▽▲▽
首に、ひやりとした感触が突き当たる。
強く押しやると、白い首筋に赤い線をつけた。このまま、引き下ろせば朔月は主の首を切り裂く事ができた。
がたがたと手元が震えて、朔月を投げ捨てる。
死んでどうなる。
死ぬことで、宗主の務めを投げ捨てるのか?
己の命は、あの時にどれだけの命で守られて生かされたのか忘れたのか。
何より死ぬことが楽になる事なのか?
そんなわけがない、心残りが無いわけじゃない。弟にも叔父にも迷惑がかかる。
「うう……」
共に死んでくれと言われた時、本当に一緒に死ぬつもりだった。
あの子が望むのなら、それでもかまわないと思っていた。
もういい、もういいだろう……なんて、考える事も背負う事も投げ捨てて義兄弟と一緒に棺桶に封じられるのもいいとさえ思ったのだ。
(私は、父と同じだ。愛した相手に思われなくても、自分の手元に置きたい衝動にかられた)
そんな自分勝手な想いで、彼を襲って泣かせた。
それなのに、彼が助けを求めたのは誰だったか……。
耳のいい己は、あの時に小さく彼が誰を求めたかなんて聞き取るなんて容易な事だ。
『沢蕪君、助けて』
江晩吟の義兄が蘇った事により、彼の執着は強くなった。
恐れていたのだ。本当は、江晩吟は魏無羨を弟同様に愛していたのかもしれないと……。
そう感じえないほどに、彼は生気を取り戻していた。
自分では、どうにもできなかった事を魏無羨はやってのけた。
それがひどく妬ましくて憎らしくて、心など手に入らなくてもよい……そんな陰りが心を支配した。
(私は、なんてことを……)
がり…がり…と、頬を爪の先でかきむしる。古琴を奏でる事がないから、手入れをおろそかにした爪は鋭利なモノとなっていた。
乾いた音から、水音が混ざるほどに何度も何度もかきむしる。
泥水が思考を支配しており、こうでもしなければ自分が保てなかった。
なんて浅ましい。なんて汚らわしい。自分の心に、吐き気すらする。
「曦臣、何をしている!!!」
「……え?」
手を掴まれてはっとすると、叔父の藍啓仁が側にいた。
寒室に灯りがつけられている為に、灯りをともしに様子を見に来てくれたのだろう。
「私は、何を……」
戸惑いながら、手を見る。自分の爪先が赤黒く染まっており、爪の間に皮膚が詰まっている。
「……朔月は、預かる。よいな?」
「はい……」
剣を手放すなんて、仙師としてはあるまじきこと。
それなのに、あっさりと叔父に委ねてしまうのは自分が逃げてしまいたくなるからだ。
「どうか、朔月を預かってください。このままでは、私は死を選びかねない」
「曦臣」
「どうか、どうか、お願いします。私は、父のようになりたくない!!!叔父上、どうか…どうかぁ」
「わかった、解った…落ち着きなさい」
子供の頃のように叔父に縋りつくと、強い力で支えられる。
この手を縛って欲しいとさえ懇願したけれど、それは叶えられなかった。
藍啓仁は、冷泉の水を汲んできて首や顔の血を拭う。薬草を拭う叔父の手は、優しかった。
「申し訳ございません、叔父上」
縋った時に気づいてしまった。細くなった。優しい指も覚えていた時とは違い骨ばっている。
「私が、執務を放棄しているから」
「大丈夫だ。長老たちも、内弟子たちも居る」
「……」
「景義もよく働いてくれる」
「それは、よかった」
はらはらと涙が、零れ落ちる。己が居なくても世界は、回るのだ。
藍曦臣が、後継ぎと定めた少年の成長を聞けて心が安堵する。
「……」
「……」
「曦臣」
「はい」
「お前が必要だ。それは、忘れるな」
「ありがとうございます」
一度、家宴に出たのだが、その時に思考が纏まらずにあべこべな事を言ってしまう自分がいる事に、衝撃を受けた。
叔父や兄弟弟子の補佐が無ければ、自分は何もできない。むしろ、足を引っ張っただけだ。
きっと叔父は、長老たちから責められただろう。
早く回復しなければ、元に戻らなければと思えば思う程に、今までどうしていたのかあやふやになる。
気付けば、金光瑶に手紙を書こうとして筆を投げ捨てた。
こんな事、今までなかったのだ。
「……曦臣」
「はい」
叔父の声で字を呼ばれれば、返事をする以外に言葉が浮かばない。
顔を上げれば、叔父の方が今にも泣きそうだ。
まったく親兄弟揃って、この人に迷惑をかけどうしだなんて、笑えない。
「……はい、叔父上」
腕を伸ばされ、強く抱きしめられた。それから、すぐに離れて寒室から出ていく。
(叔父上……どうか、私を捨ててください。もう、貴方の期待に応えられない)
灯された明かりを、ぼんやりと見つめる。
そう言えば、江晩吟は不夜天の時に魏無羨にとどめを刺したと聞いた。
彼にとっては、最後の家族だった。拠り所だったはずだ。それ以前から仲違えをしていたけれど、今までの絆は断ち切れなかったはずだ。
自他ともに厳しくて苛烈な性格の内側には、傷つきやすく優しい心があるのだから。
ふさぎ込んだ様子も見せずに、激務をこなしていた。
いや、心を見ないようにして激務をこなしていたのだろう。休めと言っても休めなかったのは、休むことができずにいたに違いない。
(はは、無責任にもほどがある)
未だにひりひりと痛む頬に、涙が伝う。
彼のように、誰かのために生きれたならどれだけよかったことだろう。
彼のように、誰にも頼らずに……頼れずに立ち上がる事ができたなら……。
(叔父に棄てられる事を願うしか、私にはできない)
なんて、甘ったれなのだろう。何も考えて生きてこなかったわけでないけれど、えり好みはしてきたのだ。
(そう言えば、兄様と阿瑶は…どうしているだろう。懐桑に任せたけれど……)
―――がたがたと、扉が開かれる。ハッと我に返る。叔父が来てからどれだけ経ったのか。
扉の方を見ると、月明りを背負ってその人は立っていた。
「本当にひどいな」
「……江宗主?」
そう言って、ずかずかと寒室に入ってくる。
そして、無理やり顎を掴んで顔を上に向かせた。
「俺は!」
「!」
まるで藍曦臣を現実に連れ戻すかのように、江晩吟は声を張り上げた。
瞬きをして、藍曦臣が己を認識したと解ると口を動かす。
「美しい顔が好きだ」
「……」
なんの話だろう???
「勝手に傷をつけないでもらおうか」
「江晩吟?」
ああ、頬の傷か……。無意識に、また引っ掻いていたようで意識を戻せばひやりとした。
頬に自分の手を添えようとすると、ぱしんとはじかれた。再び自傷をするかと思ったのか、襟を掴まれ引き寄せられる。
「貴方は、あいつより俺が好きなんだろう?」
「……そ、れは…」
「俺が好いのだろう?」
「はい、貴方が好きです」
はっきりと言えば、ふんと鼻で笑って見下ろしてくる。
「俺を諦めるのか?」
「……」
「俺を手に入れるために、生きろよ」
「……」
ぐいっとさらに、襟を引き寄せられる。鼻が突きそうな距離で、雷の様な鋭い瞳が見つめている。
「俺が憧れた沢蕪君が、こんな所でくすぶるな!!!」
「っ」
「ちゃんと生きろよ!!!あの日、どうやって生き延びた!!
どれだけの犠牲のもとで貴方は、生き抜いた!!!貴方が姑蘇藍氏の宗主だから、俺はここまでこれたんだ!!!
貴方がっ!!貴方達、三尊が!!!俺を、江氏を認めてくれたから!!!ここまで来れたんだぞ!!!!
それなのに、貴方は死のうとするのか!!!逃げるのか!!!貴方が死ねば、俺は二度と貴方を追いかけられない!!!」
ぱらぱらと……涙の雨が、降り注ぐ。
観音堂で見た涙と似ているように思う、ゆっくりと手を伸ばしてそれを拭う。
「私が、怖くないの?」
「……」
「私は、貴方を襲ったんですよ」
「……」
あふれる涙をぬぐえば、赤く汚れる。爪についていた己の血が、彼を汚していく。
それなのに、涙があふれてくる瞳は竜胆のように美しかった。
「なんて、酷い人だ……。受け入れてくれないのに、諦めるなだなんて……ひどい人なんだろう」
それでも、貴方が私を見てくれる。それだけが、嬉しくて恋しくて愛おしい……。
身長差は誤差ほどなのに、細い腰に腕を回して抱き寄せる。
「ひどい人」
「……ふん、あんたが惚れた相手だ」
「諦めて差し上げられませんよ」
「いいと言っている」
「貴方がお見合いをしたら、女装でもして乗り込みます」
「それは楽しみだな。どんな仙子よりも、美しいだろう」
「また身勝手に、貴方を襲ってしまうやも」
「返り討ちにしてやる」
この人は、本当に暗い晩で彷徨っていれば導いてくれる歌を吟じる人なんだな。
「貴方は、私の導きです」
▽▲▽▲▽
聶懐桑の許に、一通の手紙が届いた。
それは、漆喰の文箱で蘭陵金氏の紋付だ。
現段階で金凌が、聶懐桑にこんな仰々しい手紙を出す理由はない。
どうせ、彼を失脚させようとかそういう密書かなんかだろうと、興味なく机に置こうとした。
けれど、執務室に置かれた汚れた帽子を見にとまる。
「三哥……」
何となく、気まぐれだ。
文箱を開くと、ふわりと懐かしい香りがあふれた。
忌々しい匂いであるはずなのに、懐かしくてもう二度と嗅ぐことはできないモノだった。
「……」
恐る恐る文箱から、文を取り出す。ご丁寧に、彼が愛用していた紙だ。
芸事に長けている聶懐桑には、それだけで差出人が誰なのか解る。
優しくて甘い筆で書かれたのは、聶懐桑が知らない文章だった。
「死んでからも、手紙をよこすだなんて……」
ずるずると、その場に座り込むと一文字一文字読み始める。
しかし読み進めるうちに、色んな意味で絶望しかない内容だという事が読み解けた。
この手紙は、金光瑶が死ぬか意識不明だったり再起不能になったら、聶懐桑に送られる仕組みになっていた。
つまりは、金光瑶から聶懐桑に対しての遺言だ。
気遣う文面や懺悔の様な文章もある中で、最後の最後に綴られた内容に脱力していく。
文の内容を要約すれば、
藍曦臣と江晩吟の仲を、自分の代わりに取り持ってほしいという事。
藍曦臣と出会った時に『江晩吟が好きだ』という事を告白されていた。
それ以来、彼らの仲を取り持とうとしたのだけれど、頑なに江晩吟が受け入れようとしない。
子孫を残さねばならないのは仕方ないし、愛のない結婚は望まないだろうという事も書かれていた。
「どこまで調べたんだか、気持ち悪い」
文句を垂れながら、読み進めていく。
『三哥は、十年以上頑張ったんですけど無理でした。
いつ私が死ぬのかはわかりませんが、二人の仲が結ばれていたらこの手紙は破棄するつもりでした。
もしこの手紙が届いているのなら、私が憎いだろうけれどどうか二人を取り持ってほしい。
これが、最期の願いです。ちなみに、大哥もこの計画に参加してました』
断らせる気がさらさらない事に、破り捨ててしまおうか!という感情が込み上げたけれど、
対価なのだろうか、文箱の中に聶懐桑が欲しがっていた藍曦臣の描いた絵が入っていた。
しかも彼が、一番大切にしていた絵だ。
「ああ、もう……忌々しいなぁ」
甘ったるいけれど品のある匂いが、聶懐桑の鼻腔を擽る。ぽたり、ぽたりと涙の雨が零れた。
「対価が、十分すぎるよ……三哥」
貴方はいつも、大哥だけしか見ていなかった。隣にいた私なんて見えていなかったでしょう。
「……丸投げなんてさせてあげないんだからね」