月下の夜想曲【二夜目】藍曦臣と江澄は、妓楼という共通の話ができて親しくなった。
「だから、江宗主の剣術は舞う様に美しかったのですね」
「い、一応、楼主だからな。指導するにも、私も解らなければ教えようもありませんので」
相変わらず鉄紺の旅装束を着ている藍曦臣は、蓮花塢に招かれていた。
「竜胆(ろんだん)の相手をしてくれたらしいので、よろしければ蓮花塢に来ませんか」と江澄が誘ったのだ。
「彼女は、あまり表にでないのですか?」
「そりゃぁ、高嶺の花にしておけば、彼女相手に会いたがって通う客が多いのですよ」
「そんな方のお相手をさせていただいたんですね」
ほわっと、耳を赤くして目を潤ませている藍曦臣を見つめた。
自分の事を高嶺の花だといったことに羞恥を感じているのに、恋をした乙女のような顔をされてはこちらが照れる。
「彼女を随分とお気に召したご様子で」
からかう様に告げると、藍氏には珍しくぼんと音を立てたように顔を赤くする。
そして恥じらう様に、顔を口で隠す。いつもならば大きな袖で顔を隠せただろうが、旅装束の為に手甲で絞られて袖もない。
ただまとめあげられていない前髪が、彼の顔にかかり儚さと色気を醸し出す。
「藍、藍宗主?」
「す、すみません。このような気持ちは、久しぶりだったので」
「久しぶり?」
手に持っていた茶杯を、うっかり落としそうになる。慌てて、卓に戻した。
「彼女と過ごせたのは、たった三日だったのですが、
貴方のように凛として美しく、貴方のように厳しくもあり思いやりと優しさがあって、貴方のように花やかなのです。
表情は覗くたびに代わる万華鏡のようで、私を楽しませてくれる。
もう胸が高鳴ってしまって」
「なんで、いちいち私のようだというのですか」
赤くなりたいのは、自分だ!と、江澄は藍曦臣を見つめる。
藍曦臣は、顔を隠していた手をおろしてこちらを見つめ返してきた。
「江宗主が女性だったら、私の好みなので」
にこっと笑いながら、とんでもない爆弾を彼は落とした。
しかしここは、江澄である。己が女性だったら、というならそれは母のような女性が好みだと思う。
「それは、私の母が好みだという事ですか??」
藍曦臣は、江澄に何を言われたのか一瞬解らないという顔をしてから、疑問を一度咀嚼してから答えを出した。
「いいえ、彼の紫蜘蛛の母君と江宗主は全く違いますよ」
「はぁあ?」
「例え世間が、母君にあなたが似ていると言っても別人です。
私の理想は、江宗主がそのまま女人であったならというモノです。
その点でいうと、本当に紫花殿は理想そのもの。私の心が揺らいだのは、久しぶりです」
目の前の男は、何を言い出しているのだろう?
まったくもって理解できない、江澄が女であったなら?
理想そのものというなら、紫花は江澄本人なんだからそのものだろうよ。
「ひ、久々というのはどういう事でしょうか?」
「そのままの意味ですよ。斜日の征の頃でしたか、私は一人の少女と出会ったんです」
「へぇ」
「家族も親族も故郷もを温氏に殺されて、生き別れた兄弟を探していたが、見つからない。
女で一人生きていくすべがないのだと泣いておられました」
「お優しい藍宗主は、助けたのですね」
「ええ、まぁ。なんせ裸で入水しようとしていたので」
心を落ち着かせるために、お茶を飲もうとした。
しかし、藍曦臣の言葉にお茶を吹き出してしまう。
「は、はだ、裸?」
「はい。ああ、丁度、貴方を保護する少し前でしたね。彼女自身もひどい怪我を負っていたのです」
江澄は、少しだけ眩暈がした。思い出した、ああ、思い出した。
あの頃は、金丹移植してからすぐだった。体調が変わって初めて女体化したんだ。
人気のない沢で確認していたら、藍曦臣が現れた。
自分でも混乱していて、誰にも知られたくなかった。必死で嘘をついた。
『だからと言って、死んではいけません!』
『は?あなたに、何が解るというんだ!というか、振り向くな!』
『す、すみません!!』
くるっと背をむけた藍曦臣は、言葉をつづけた。
『私は、貴方より喪ったものは少ない。けれど、故郷を襲撃され父や親戚を一族を多く失いました。
幸い、叔父や弟は無事だという知らせを受けています』
『……それは、よかったな。だから、それが何だというんだ』
『きっと、貴方のご兄弟も見つかります。特徴を教えていただければ、私も探します』
『……要らない。誰も、信じられない』
江澄は、そう告げた。拒絶をした。
探されても困る特徴を伝えれば、絵をたしなむ彼の事だすぐに誰の事かわかってしまうだろう。
当時、江澄も人を信じることができなかった。
『なら、これを』
差し出されたのは、簪と藍氏の校服の上着。
ご身分、隠す気あります?って、問いただしてやりたい品物であった。
江澄も温氏から指名手配されていたが、藍曦臣もまた追手に追われていた身だ。
『簪はわかるのですが……』
『こ、これは、貴方が裸だからっ』
あんたがさっさと離れてくれたら、着替えられるんだけどな?
すぐあとに、藍曦臣を探しに来た人の所にそれらを置いて行ってしまった。
江澄は、すぐに着替えて立ち去ろうとしたが、このまま外衣と簪を置いていくわけにはいかなかった。
藍曦臣が来たことで沢に服を落としてしまったから、水浸しで結局その外衣を借りた。
女人となった事で、温氏からの追手からも免れた。
男に戻ってから、町に出て聞き込みをしたところ藍曦臣に保護された。
「それで顔つきは、やはり貴方にそっくりでした。
もしかしたら、竜胆は彼女なのかもしれません」
「へ、へぇ?」
竜胆で三日間過ごしたが、鉄紺の衣装や髪型だけではない。
ものすごく、藍曦臣に違和感を感じていた。
「閉関を解いてから、藍宗主はお代わりになられましたか?」
「そうですか?」
「モノを考えずに、馬鹿正直にお話をなされて……いや、素直な物言いをなさるなと」
以前の藍曦臣ならば、言わないようなことを話しているのだ。
「決めたのです」
「え?」
「心に素直になろうと」
藍曦臣の言葉に、江晩吟は瞬きをした。
「だって、いくら考えても解らないのです。そして、いくら以前の私に戻ろうとしても戻れないのです。
見まいとしていた事が、この目に写ってしまうのですよ。
見て見ぬふりをしてきた事が見えてしまうのです。
見えてしまっては、見なかった事にできなくなってしまった」
まず最初に見えたのは、自分の心だった。
無意識に見てこなかった藍曦臣の心を、気づいてしまったのだと藍曦臣は言った。
「今まで、藍氏の教えに従っていればよいと思っていたのですよ。
だけど、弟夫夫を見て違うのだと気づきました。いえ、すべてが違うのではありません。
妄信的に信じる事を辞めたのです。
言いたいことを言ってみたら、地に足がつくような心地がしたのです。
今まで、義兄上や阿瑶に支えられていた道を自分で歩んでいるような気持ちになりました」
金光瑶は、天人のようだった人を地におろしたのか。
なんて、うらやましいことだろう。
「だから、あなたが女性だったら私の好みだし、紫花殿はそういう事で私の的を射ています」
この人は、気づいているのだろうか。
(それ、俺が好きだって言ってるようなもので、紫花は俺の代わりなんだって言っているようなものだが?)
嬉しそうに笑う藍曦臣は、やはりどこか変だった。
何が変なのかと言えば、考えると少しだけ背中がうすら寒く感じた。
******
閉関を解いた事を公開するのは、藍曦臣の莫大に膨れ上がった霊力を糸を編む様に制御できるまでは行われない。
それまでは、つなぎは来るが雲深不知処に帰る事はしないと言うと、江澄は蓮花塢にとどまればいいと言ってくれた。
各地を放浪して夜狩りをする必要もあるのならば、拠点の一つにするといいとも言ってくれた。
その日の晩、藍曦臣は蓮花塢の江澄の私邸と言える場所で泊まらせてもらう事にした。
雲夢は広大であり、その地を守る仙府の蓮花塢も広い。
仙師や門下生を住まわせている地区もあったり、重鎮が暮らす屋敷も存在する。
それらすべてが入り組んだ渡り廊下や橋で繋がっているというのだ。
まるで迷路だと思うが、焼き討ちにあった為か宗主の私邸が解りにくくするためらしい。
「蓮花塢は、賑やかですからね。宗主の屋敷が、一番静かですよ」
そう言って、案内してくれたのは梓観世だ。
「あなたの屋敷もあるのですか?」
「ええ。というか、私たち一家も宗主のお屋敷で暮らしていますね」
「え?」
「主管の補佐をしておりますが、私は我が君の従者でもあるので」
行く先を、笑顔で指さした。
家令なのかと聞けば、彼は首を横に振った。
「我が君のご厚意で」
「そうですか」
他家の事には、口出しすることはできない為に深くは話を聞かない。
「そうだ、紫の花は満月の前後にしか咲きませんので、その日以外は店に行っても会えませんよ」
「え?」
「お気に召したのでは?」
穏やかに細められた黒曜の瞳を、藍曦臣は見つめ返した。
それから、静かに頷いた。
「私も、我が君のお供で店に行くのは、妻の手前居心地が悪くて……上司が義理の兄っていうのも困りものですよね」
屋敷の扉を開く前に、梓観世は紐を引っ張る。
屋敷内に鈴の音が響いているのが、藍曦臣の耳に届いた。
しばらくして扉を開くと、出迎えた女性を見て息を飲む。
そこにいたのは、江厭離……に似た女性だった。外見的に似ているというよりかは、雰囲気だ。
凛として穏やかな雰囲気は、江澄の姉に似ていた。
「妻の江春桜(じゃんちゅんいん)です。こちらが、この屋敷の家令ですね」
女性の家令とは、珍しい。
藍氏には、家僕はいない。すべてが修業であるため、自分たちでできる事はするのだ。
長老たちもいれば、年若い内弟子もいる。一族で全てが、賄えるのだ。
その為に、あまり家僕の事は知識ではあるがよくわからない。
「お世話になります」
「初めまして、藍宗主。今は、沢蕪君とおよびした方がよろしいですか?」
「ええ、そうしてください」
役職でも号でもどちらでも構わないが、今の藍曦臣は宗主の仕事をしていない為、号で呼ばれる方が心が楽だった。
「あ、お父さんだ!おかえりなさい!!!」
「おかえいなしゃい」
活発そうな子供とおとなしそうな子供が手をつないでやってくる。
梓観世に飛びつくと、彼はよろけることなく抱き留めた。
「ただいまぁ。いい子にしていましたか?今日から、晩吟様のお客さんが来たので仲良くできますか?」
「できるよ!星星もできるよね!」
「できゆ」
二人同時に抱き上げて、梓観世は振り向いた。
「この子たちは、梓露と梓星です。私の娘と息子です」
「よろしく」
「阿露、知ってる!たくぶくん!」
「よくご存じですね」
「晩吟さまが、よくお話してくれるの!」
娘として紹介された子は、一見男の子のように見えた。
大人しい子の方が、娘のように見えたが違うらしい。
紫水晶のような瞳はキラキラと輝いており、屈託のない笑顔と手を向けてくれた。
「昔の阿願みたいだな」
「?」
差し出された小さな手を握って、ぽつりとつぶやいた言葉に梓観世は首を傾げた。
「内弟子……いや、甥でしてね。今は、小双璧と呼ばれていますが、人懐っこい子だったんですよ」
「んー……と、それはもしかして大人しい方?」
梓観世の言葉に、藍曦臣はくすっと笑った。
そういえば、江澄は小双璧を『大人しい方』と『騒がしい方』などと呼んでいた。
藍景儀なんかは、何度も名乗っているのに覚えてくれないと怒っていた。
まぁ、他家の内弟子まで把握はできないだろう。
「あの子も、奇数な運命を辿っておりますよね」
「……」
「愛されているようで何よりです」
ふふっと笑っていると、息子が藍曦臣のほうに両手を伸ばしてくる。
抱っこをせがまれているようで、彼の両親に目配せをした。
許可を出したのは、細君の方である。
手を伸ばすと、父親から藍曦臣へと移動してきた。
「抱き方が板についてますね」
ははっと、梓観世は笑った。
そろそろ立ち話も失礼だと細君に注意されて、梓一家に客坊に案内された。
「金凌もこちらで?」
「ええ、坊ちゃんはこの子達のよき兄のようですね。我が君が、子を成さなかったら坊ちゃんの従者とするのもよいかと」
梓観世の言葉に、一瞬だけ体がこわばる。
子を成す。そうだ、宗主なのだから当たり前の期待だ。
それなのに、ちくりと胸に針を刺されたように小さく痛んだ。
客坊に通されて、梓一家が居なくなると針を抜くようにため息をついた。
―――客坊から離れると、江春桜は夫の太ももをつねる。
「いじわるを言わないの」
「いじわるじゃありませんよ。ちょっとした橋渡しです」
妻の耳元で、梓観世はささやいた。
「我が君の初恋を実らせたいじゃないですか」と―――