あまやかし⑤【幕間二】
「あたしは死神ちゃんのことが嫌いだよ」
知っている。
そもそもが顔を合わせて数分足らずで殴り合いの蹴り合いになった相手だ。不倶戴天。本能的にそりが合わない。
お互いよく、知っている。
シデンの客室のシャワールームで汗を流して。しかし館内着ではない普通の服は手荷物鞄の中に入れたままであることには脱衣所で気がついた。
だから下着姿でバスルームを出たシンに対してもシデンは平然としていた。同性であるし。そもそもシデンとて着替えている途中であったし。
シンは己の手荷物鞄を探して、少し、瞼を細めた。ベッドの上に置いた覚えは無い。
シンの手荷物鞄を傍らに置いて。シデンはベッドの端に腰掛けている。――鍛え抜かれた鋼の硬質と肉食の獣のしなやかさを連想させる脚が黒いストッキングに包み込まれていく。
野生美、というやつだ。雨風に晒され研がれて磨かれた、在るがままのうつくしさ。
あと大体ぜんぶおおきい。
女性としてはかなり広い背中。大きな掌。大きな口。鋼のような筋肉で覆われつつも、黒い下着に包まれた膨らみはいっそ暴力的。同じ性別でもここまで身体の造りに違いがあるのだな、と思ってしまう。
控えめであることにコンプレックスを感じたことはないが、彼女にあってシンにはないものをこれ見よがしに見せびらかされると若干イラっとはする。
……まあ。シデンは自分の『持ち物』に対してかなり自覚的なので、その点はどこぞの腐れ縁よりマシかもしれないけれど。
「ふーん」
そしてシンが見ている以上はシデンも見ている。
色違いの双眸が眇められて、
「死神ちゃん、改めて見てもキレーな身体してるよな」
白くて華奢なお貴族様の身体だ、と。シデンが口笛を吹く。
シンは思いっきり顔を歪めた。
「触らせないぞ」
「触らねぇって」
赤くなる程度の可愛げもねぇのか、とシデンは唇を尖らせる。
はっ、とシンは鼻で笑った。
「そんなものあると思うか」
「それもそうだな」
薄い胸を張ったシンにシデンも頷く。
どう見るかは見た側の勝手であるし、勝手に見ようとした輩には相応の制裁をするだけだ。自身が薄着やら下着姿やら裸であるという理由で動けなくなるような可愛げはシンたちの世代の少女プロセッサーにはない。
……その点、レーナは可愛かった。もじもじと恥じらう姿はエイティシックスの少女たちには新鮮で、傷一つない肌なんてお目に掛かれるものではなくて。それが妖精像の陰からちらちらと覗いているのだからとんでもなかった。本物の妖精かと思った。
古来より秘されたものを暴きたくなるのが人の性だ。少女たちの結構な割合が獲物を狙う猛禽の眼差しをしていた。護りきったが。
あと、自然と密着する体勢になって。ぎゅうっ、とシンの腕を抱き締めてくるレーナの肌はすべすべだった。
「浴場で洗面器ぶつけられた仕返しをしてもいい感じかこれ?」
「あれはお前が悪い」
最低限の節度はある。
まあ、相手にしたせいでシャナ曰くのつけあがったシデンと何故か組み手をすることになって。互いに水着であったから。ちょっと男子側にはお見せ出来ない事態になるなどしたけれど。見えてはいないし。
……聞こえてんだよこの馬鹿、という腐れ縁のげんなりとした顔が脳裏に浮かんだ。
塞げ。
「で、おれを部屋に連れ込んでなんのつもりだ」
「言ったろ? オンナ同士のオハナシだよ」
ばしばしと。シデンの広い掌が傍らのスペースを叩く。
「座れよ」
シンは聞こえよがしに舌を打った。
だがこの程度で動じるような相手が八六区で号持ちに至れるわけもない。
どのみちシンの手荷物鞄はシデンの傍らに置かれている。仕方なしにシンもベッドに腰を下ろし、唯々諾々と従ってやるのも癪なので、仰向けに倒れ込んだ。
本当はさっさと部屋を後にするつもりだったので、髪は乾かしている。
「別にいいけど遠慮がなさすぎるだろ」
シデンの呆れた声。しかし遠慮してやる道理がない。ごろごろと。広いベッドの上でシンは転がる。――シデンが愛用しているらしい香水が鼻腔を擽った。シンにとっては馴染みのない、けれど嫌いではないと感じる香りであることが少し腹立たしい。
身嗜みを保つこと。香水や化粧も連邦に保護されたプロセッサーたちに課せられた『教育』の一環ではあった。シンとて例外ではない。
しない方が面倒くさいことが増えるから。という理由が、しておきたい、に変わったのはレーナに逢う日を想ってのことだったけれど。
「……」
シンは寝そべったまま手荷物鞄に手を突っ込んで漁り、メイクポーチを取り出す。
「先に服着ねぇのかよ」
シデンが呟くが、今すぐここで化粧をするつもりもない。取り出したメイクポーチをぽいと放って。シンはシーツに突っ伏した。
「話すっつったろ。寝るなよ」
「……ん、」
大浴場でも大広間でも。それなりに動いたから確かに眠気はあるけれど。別に異能による過剰な眠気ではないし。月のものの時期でもないし。
シンは寝返りを打って、天井の木目を見上げた。頬に自身の髪が張りついている。――先の溶岩地帯での戦闘で傷んでしまったから、少し切って、けれどなおも八六区の戦場にいた頃よりは長い髪。
あの頃。
シンの髪を切っていたのは、シンの副長であるライデンだった。
「……」
漆黒の髪越しに視線を動かす。
短く切られた、くるくるとした赤毛。
「……お前の副長は?」
「ん? まだ戻ってこねぇだろ」
シデンと同室の、彼女の副長であるシャナは部屋にいない。大広間で勃発した賭けの胴元をしていたというのもあるだろうし――副長というのは気を回すことが上手い者が多いというか。
「言っとくけど死神ちゃんのところの副長は例外だからな? なんだアレ」
アレとか言われている。
シンはくつりと肩を揺らした。
シデンはシンの様子を気にするでもなく、引き上げたストッキングをガーターで留めている。シンプルな黒。衣服に隠れて見えない留め具。……再開した当初のレーナは黒染めの軍服を纏っていたな、と。ふいに思い出す。
「……東部戦線の“死神”に従う人狼。どんな野郎かと思っていたけどよ、」
長い脚が組まれて。
ぎしりと鳴るベッドのスプリング。
色違いの双眸がシンを見下ろす。
「人狼なんて名乗っているわりに、随分と甘ったるい色男じゃねぇか」
「おれの名付けだ。ぴったりの良い男だろう?」
シンは声だけでわらう。
実のところ。当初は単なる悪口だったわけだけれど。――出逢った頃は、今思えば、お互いまだまだ子供で。ライデンとて口うるさい、ぎゃんぎゃんと喚いてばかりの仔犬も同然だったけれど。
すっかり、狼の名前が似合う青年になってしまって。
「……」
シンは己の額に手の甲を押しつけた。
つい先ほど、大広間でシンの手首を掴んだ掌を思い出す。おおきなてのひら。
十代における数年間はあまりに大きい。あの頃はあるとも思っていなかった未来の姿。お互いに。成長期を経て、記憶にあったそれよりもずっと広くなっていた手指。
シデンが口の端を持ち上げた。
「腹立つよなぁ。自分だけが傷ついたみたいな顔しやがって」
「……知ったような口を利くな」
お前があいつの何を、と。
言いかけて、口を噤む。
「……」
別に。
知っていたからなんだという話だ。
顔を知っていた。名前を知っていた。年齢を知っていた。誕生日を知っていた。育った環境を知っていた。世話好きな性格を知っていた。料理が好きなことを知っていた。綺麗な字を書くことを知っていた。得意とする戦法を知っていた。……ベッドの中で、呼ばれる声の熱さを知っていた。
それがなんだったというのか。
終わった話だ。
シンは瞼を伏せる。
「……ライデンが、今更そんなことに傷ついたのは、」
“死神”と。
当初はありふれた悪口に過ぎなかったはずの言葉が次第に縋るかのような響きを帯びていくことに、勿論気づいていた。理由だって察しがつく。
号持ちとは生き延びた者のことだ。そして八六区の戦場において生き延びるとは亡くしていくことと同義。
ライデンの傍で。シン以外の全員が死んでいく時期が――あって。
シンは強かったから。
ライデンよりも強かったから。
「……おれが呪いを掛けたせいだ」
誰も彼もが死んでいく戦場で。
それはシン自身とて例外ではないと本当は分かっていたのに。
誰もを最後まで連れて行く死神で在れと自らに定義してしまっていて。
一番長い付き合いだったライデンは――引き摺られて。
だから、
「はっ」
シデンがわらった。
「傲慢だなァ」
誰かさんにそっくりだ、と。
鼻先で笑い飛ばすかのような言葉。
思わず睨みつけた先、色違いの双眸はいっそ軽やかに弧を描く。
「あたしは死神ちゃんのことが嫌いだよ」
「知っている」
そもそもが顔を合わせて数分足らずで殴り合いの蹴り合いになった相手だ。不倶戴天。本能的にそりが合わない。
お互いよく、知っている。
……世界のうつくしさを信じる穢れのない白銀に焦がれたシンと、世界の残酷さを知ってなお前に進もうとした血染めの白銀に惹かれたシデンだ。同じ相手の違う側面を好きになった。
そりが合うわけがない。
なによりも。
「シデン」
シンのように“死神”の役目に縋ることなく立つことが出来た相手。気さくな笑顔。ただ在るがままである相手。……大攻勢の最中にあって、彼女の“女王陛下”を守り抜いた家臣団の〈単眼姫〉。
だから、
「おれだってお前が嫌いだ」
「知ってる」
同じだろ、と。シデンはなおも笑みを浮かべたまま。
やけに耳当たりの良いハスキィボイス。
「特に、優しすぎて恨ませてもくれないところとかが大嫌いだよ」
なんだそれは。
優しいというのなら、お前の方が、よほど。
「……」
唇を閉ざしたシンにシデンは肩を竦めた。
「……まあ。死神ちゃんのことは嫌いだけどよ」
シデンはシンが放り投げたメイクポーチを手繰るように拾い上げ、ひっくり返す。
シーツの上に散らばる化粧品類。きらきらと。照明を弾いて光沢を帯びるパッケージ。――ネイビーブラックのアイライナー。銀粉のようなアイシャドウ。――瞳が印象的だから引き立ててみようと。当時、店員に勧められるがままに購入したものを一式使い続けていて。
けれど。
一つだけ。
口紅だけは自分で選んだ。
夜黒種の――黒系種の。黒い髪に映える赤い色。
長い黒髪に似合うなら――この色だと。思った。
ともすれば血のようにすら見える真紅を、シデンの指先が掬う。
「ふぅん」
色違いの双眸が薬指に乗せた真紅をしげしげと眺める。
シデンの髪も瞳も肌の色もシンとは全く異なるから。彼女にその口紅は似合わない。
シデンとて分かっているだろう。
だから口紅を乗せた指先は、シンの口元へと押し付けられる。
「ん、」
つぃ、と。
紅を引かれて。
「良い色だな」
シデンは呟く。
「笑っていてくれていた方が、良いもんな」
彼女にしては珍しく、とても静かな声で。
「……」
赤く塗られた唇を引き結んだシンに、シデンはからりと喉を揺らした。
「死神ちゃんのことは嫌いだけど、死神ちゃんの趣味は好きだぜ?」
「……つくづく仲良くなれないな。おれたちは」