俺は今日塀の外に出た。
もうくるなよ、なんてドラマで聞いたことのあるようなことを言われながらギイイ、と重い鉄格子が開く。
数年ぶりに見上げた空は俺の心に反してそれはそれは見事な青空だった。
獄中どう過ごしていたかはあまり覚えていない。毎日規則正しく決められた生活。何をするにも監視され、自由のない生活。
ただ、同室の奴らには恵まれたというか、少なくとも反社会的勢力の人間と同じ部屋にはされなかった。
人との会話もほとんどなく、決められたことを、決められた通りにやる。まるで自分が機械になったかのようだ。
なので、所謂「娑婆の空気」というものはさぞかし美味しいのだろう、獄中にいるときはそう思っていた。
だが実際外に出ると、突然知らない場所に放り出された迷子のような気分だ。数年いなかっただけの世界なのに酷い疎外感。浦島太郎もこんな気持ちなんだろうか。
外の世界に出たとして家族には会えない。面会には何度か来てくれたが、自分という人間が情けなくて、目を合わせられなかった。
出る日には連絡を寄越すように、といった旨の連絡が手紙にてきたものの、俺は一度も返事をしなかった。
家族に合わせる顔なんてない。アイドルのマネージャーになって、担当をトップアイドルにするんだなどとのたまい、金銭的な支援もしてもらったのに、このざまだ。
生きる目的もない。生きる価値もない。
端的にいうと、俺は死んでもよかった。
だが、一つだけ。一つだけ、俺には心残りがあった。
今井旬という男。
宝くじで10億円を当て、そのせいで危ない人間に狙われてしまった男。
明るくて素直で、俺とは全然違うタイプの人間。
俺と同じように、ミステリーキッスを愛してくれた男。ミステリーキッスのメンバーより、俺と彼は、ミステリーキッスを大切に思っていただろう。
勿論今やミステリーキッスなどというものは存在しない。
和田垣は三矢を殺した犯人として起訴された。
二階堂は殺人の罪は晴れたものの、もうアイドルとしては復帰不可能。
市村は…市村には、悪いことをした。もう芸能界と関わりたくはないだろう。
今井は当然ミステリーキッスのことなんてもう愛していないと思う。記憶からも消えているかもしれない。
だが、当時、確かに俺の心の支えの一端を担っていた。俺の愛するアイドルを愛してくれる男。どんなに心が救われたか。
そんな彼に、恩を仇で返すような真似をした。
どうしても彼に一言だけ謝りたかった。
いくら人がいい男であるとはいえ、罵られるだろう。暴力を振るわれても当然だ。どうせ長くはない命だ。どう扱われても構わない。
俺の足はホワイトドルフィン…彼の勤務先にフラフラと向かっていた。
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「あー!暑い暑い!もう暑いのか寒いのかわかんないなあ最近!でも夜はめちゃくちゃ冷えるんだよなあ」
大きな独り言を言いながら俺は勤務先であるキャバクラに向かっていた。半年前アルバイトから契約社員になり、ある程度の業務を任されるようになった俺は今日のオープン作業のためいつもより少し早めに出社していた。午後16時。開店1時間前。
「ん?」
店の近くに、明らかに不審な動きをしている人影が見えた。(こんな時間にもう酔っ払いか?)と思ったが、人影に近付くにつれてその人間が見知った男であることに気づき大声を出してしまった。
「マネージャーさん!?」
そう呼ばれた男は記憶よりかなり細くなった肩をビクリと揺らし、ゆっくりと怯えたようにこちらを見た。
ああやっぱりそうだ。
俺が大好きで大好きでたまらなかった、いや、今も愛してやまないアイドルの、マネージャーだ。
「わー!お久しぶりですね!あっオツトメゴクロウサマデス?だっけ、いつ出られたんですか?」
「あ、あの、今日…」
「すごい!出たてホヤホヤじゃないですか!お祝いしましょ!」
「あの、ちょっと、声抑えてもらえますか…」
眉を下げて小さな声で言うマネージャーさん。よく見ると顔色は悪く唇もカサカサで真っ青だ。
まつ毛の長い切長の瞳の下には色濃くクマができていた。
しまった。浮かれすぎて無神経な態度をとってしまった。刑務所なんて場所に入ったことはないが気分がいいわけがない。
「すみません、俺、騒ぎすぎました…」
「謝らないで……… ひ、一言だけ、伝えに来たので。迷惑にならないんで。すぐ帰ります」
「ん?」
声が小さすぎて何を言ったか聞き取れず首を傾げるとマネージャーさんは突然その場に土下座をした。指を揃え、額をアスファルトに擦り付けた、綺麗な土下座だ。
「えっ!?ちょ、ちょっと、」
「申し訳ございませんでした」
「いやいや、何やっちゃってるんですか!やめてください!」
「本当に、多大なるご迷惑をかけ……なんとお詫びをしたらいいのか、」
「マネージャーさん!」
可哀想なほどに悲痛な声。人が少ない時間帯とはいえ、店の前で騒いでいるときっと人が来てしまうだろう。
「わ、わかりました!とりあえず中、中入りましょ」
「……」
肩を掴むと怯えたように体の震えが大きくなる。違う、怯えさせたいわけじゃないのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「やめてくださいって…」
俺に怯えたような態度をとるマネージャーさん。俺がこの場から離れた方が彼にとってはいいのかと一瞬思ったが、今の彼を放ってはいけないと本能で思った。
「顔色悪いですよ、店の中に休める場所あるんで使ってください」
俺がそう言うと彼は一瞬だけ眉を顰め、「わかりました」と存外素直に従った。
契約社員といえど、俺はこの店の中ではベテランの部類に入るのである程度の融通は効く。
その立場を生かし、何室かある救護室の、一番フロアから遠いところにマネージャーさんを連れて行った。幸い店にはまだ俺たち以外誰も来ていない。
「飲んで潰れちゃうお客さんとか結構いるんで、うち救護室があるんですよ」
「……はあ」
「ここ、使ってください」
「………」
マネージャーさんは部屋に置かれた質素なベッドを見て「なるほど」と小さく呟いた。休んで欲しいという意図が伝わったようで安心する。
「本当は1人にしない方がいいんでしょうけど、俺が帰っちゃうと開店できないんですよね、すみません」
「え?」
「マネージャーさん死にそうな顔してますよ。この部屋の鍵、俺が家に忘れちゃったことにして誰にも入らせないのでゆっくりしててください」
「…?」
何を言っているのかわからない、というような顔で見つめられる。あれ?伝わってなかったかな。
「俺、家族の体調が悪い?とか適当な理由つけてすぐ仕事切り上げられるようにするんで…それまでここで休んでてください!」
「……」
マネージャーさんは頭の中で俺の話を整理しているようで難しい顔をしている。走って自動販売機でスポーツドリンクとお茶を買い、彼に押し付ける。
そのタイミングで他のボーイが出社してくる声が聞こえたので俺は慌ててドアを閉める。
「じゃあ、少し待っててくださいね!寝ててもいいですよ!」
「え?」
「じゃ!開店準備と、とりあえず諸々、俺がいなくても回るようにだけしてきますんで!」
「え、」
ちょっと、と声をかけられたが、他のボーイに見つかってしまってはいけないと慌てて部屋の鍵をかけて俺はフロアに向かった。
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何が起こっているんだろう。
土下座しただけでは許さないと、部屋に連れていかれ、暴力を振るわれる、あるいは性行為を強要されるかと思った。
だが今井は俺に休めと言い、部屋に1人取り残していった。
何が起こっているのか理解できない。
わかった。これは俺にとって都合のいい夢だ。
命なんてどうなってもいいといいながらこんな夢を見るなんて、本当に俺は救いようのない馬鹿だ。
どうしたらこの夢から覚めるだろうか。やはり順当に、寝て起きたら現実になるだろうか。
こんな馬鹿げた夢は見るだけ不毛だ。
俺はいそいそと質素なベッドに入る。すごく上等、という代物ではなかったが刑務所の布団よりも幾分かフカフカで柔らかくて少し涙が出た。
目を閉じて先程までここにいた男のことを思い出す。
夢にしてははっきりと感触があったな。昔二階堂を追いかけていた時よりも少し体つきががっしりして顔つきも大人びていたように思う。数年経っているのだから変わっていて当たり前か。
以前の彼と、今の彼の笑顔を、目蓋の裏で比べていると、俺は自然と眠りに落ちていた。