カンタループ 繁華街の一角にある『カンタループ』には今夜も様々な客が訪れる。元々は両親が経営していた居酒屋を改装してバーにした店で、その際に一新した内装もなかなか気に入っており、その落ち着いた雰囲気とマスターの人柄が人気の秘密だともっぱらの噂である。
カウンター席でウイスキーの氷を転がしながら、少し離れた場所の一際賑やかなグループを横目で見つめる男がいる。学生時代からの友人である氷室零一は、店を開いた頃からの常連だ。
こいつとは小学生の頃からの付き合いで、お互いに大抵のことなら知っている関係である。
しかし、こんな零一はあまり見た事がない。注文してだいぶ経つのに、グラスの中身は半分も減っていなかった。余程気を引かれる存在が視線の先にいるらしい。
「気になるなら、あっち行ったらどうだ?」
見かねてそう声をかけると、零一はふっと視線をグラスに戻した。
「……他の客に迷惑をかけていないか確認していただけだ」
相変わらず嘘が下手だ。はいはい、と軽く返事をして、賑やかな方へと視線を向ける。
そこでは零一の同僚らしき数人が飲み会をしていた。背が高くて髪の長い、若い男性教師を中心に盛り上がっている。人好きのする気さくな印象を受ける、零一とは正反対のタイプのようだ。なんとなく自分の学生時代を思い出し、柄にもなくノスタルジックな気分になる。自分にもあんな時代があった、なんて、年寄りみたいなことを考えてしまった。
「苦労してそうだな」
「まったくだ」
眉間にしわを寄せた友人に、向こうのことだ、とは言わないでおく。
「だが……私がいては、彼らも楽しめないだろう」
「そういうもんかね。考えすぎじゃないのか? おまえだって誘われて来たんだろ」
思うところがあるのか、零一は黙ったままグラスに口をつけた。飲んでいるのかは怪しい。
その時だった。
「氷室先生、飲んでますか~?」
と、先ほど人の輪の中にいた若い男性教師がカウンター席にやってきた。ぱっと見の印象で若いだろうとは思ったが、近くで見ると新卒というわけでもないように見える。
なぜか零一がむせた。
「おいおい、大丈夫か?」
おしぼりを渡してやると、その隙に隣に陣取られていた。手にグラスを持っているがすでに空に近い。向こうでだいぶ飲んだようだ。
酒の席で零一に絡みに来るやつなんて初めて見た……。なんて命知らずな。
「こじっ……ゴホン! 御影先生、少々、飲みすぎではないですか。教師としての自覚を持ち、ほどほどに――」
「まぁまぁそうかたいこと言わずに。せっかくの打ち上げなんですから、先生も楽しみましょうよ」
かなり気さくな人物なのかと思ったが、先ほどまでいた場所に目線を移すとハラハラとした空気が漂っていた。なるほど、酔って気が大きくなっているだけなのかもしれない。これは雷くらいは覚悟した方がよさそうだ。
昔からこのパターンでキレるこいつを何度も見てきた。条件反射的に身構えていたが、意外にも零一お得意の説教は飛び出なかった。
それどころか、さっきよりも表情が柔らかくなったような……? 気のせいか?
「彼の言うとおりだ。付き合いも大事だぞ、飲んでやれよ」
「益田、余計なことを言うな……」
昔から堅物が服着て歩いているような友人の珍しい姿を拝み、ついからかってやりたくなった。追撃を食らわせると零一は視線を鋭くして、アルコールで頬を染めた若い教師は人懐っこい笑顔を見せる。
「マスター、わかってますねぇ!」
なかなか可愛げのある人物のようだ。零一でなくとも、気にかけてしまうのもわかる。
この街に店を構えて長いが、御影という名前は聞き覚えがない。地元の人間ではないのかもしれない。
「え、もしかしてお知り合いですか?」
「こいつとは学生時代からの友人でね。付き合いだけは長いんですよ」
「へぇ~、氷室教頭の学生時代か……」
「今とそんなに変わりませんよ。零一は子供の頃から先生みたいでしたから」
そう言うと、御影先生は吹き出して、おもむろに零一の肩に腕を回した。
「ははっ! さすが氷室教頭、期待を裏切らねぇ~!」
「!」
これには零一も驚きを隠せない様子だった。少し離れた場所でしばらく成り行きを見守っていた教師陣はいつの間にか飲み会を再開しており、こちらを見ている人はいない。
若い教師に絡まれる零一、なんてレアな光景だろう。抵抗しないのには何か理由があるのだろうか。なにはともあれ滅多にみられない光景を焼き付けるよう御影先生に話を振る。零一が何か言いたげな顔をしているが無視した。
「子供らしいこいつなんて想像できないでしょう」
「そりゃそうですけど、まさか友人の前でもそうだったとは」
「いやいや、散々叱られました。私生活でもキッチリしないと気が済まないやつで」
その時、御影先生が何かを思い出したように声を大きくした。
「あ、わかります。この間も家で――――」
「御影先生ッ!」
……と、何かを言いかけた御影先生の台詞を、零一の鋭い声が遮る。
名前を呼ばれた御影先生は目を丸くしたかと思うと、ハッとして手を離し、小さく「あ、ヤベ……」と呟いた。
少し離れた場所にいる教師たちも、何事かとこちらを見ている。
「大事な話があります。ただちに、店の外に出なさい」
「あ、いや、えっとぉ……」
一瞬で酔いがさめたらしい。ほんのり上気していた青年の顔が見る見るうちに青褪めていく。その光景に己の学生時代を思い出してしまう。鏡がないから分からないが、今まさに自分も同じ顔をしているかもしれなかった。
うろたえる御影先生に鋭利な瞳を向ける零一。
はばたき学園の卒業生なら問答無用で言うことを聞いてしまう。教師だって例外ではない。
「ただちに」
「は、ぃ……っ」
これは相当きつめのお説教が待っているに違いない。代金を置いていく零一に「ほどほどにしてやれよ」と声をかけたが、返事はなかった。
大の男の耳を摘まんで颯爽と立ち去っていく背中を見送る。ご愁傷様。彼とはもう少し話をしたかった気もするが、もう二度と来ることはないかもしれない。
バー『カンタループ』には今夜も様々な客が訪れる。後日、改めて友人の恋人として紹介された青年は、どこか気恥ずかしそうにしながらも、やはり人好きのする笑顔を浮かべていた。