月 今夜の月はやけに綺麗に見える。暦を見ればちょうど満月らしい。
俺は窓の隙間から見える空に浮かんだ月を見て、今日の公演の柊の姿を思い出していた。
古典文学の一つ、竹取物語。「かぐや姫」の名前で、広い世代に知られている有名な御伽噺だ。劇団の座長であり主演を務める恋人に、今日その舞台が千秋楽を迎えるのでぜひ見にきてほしいと言われれば、断る理由はない。
(柊の演じたかぐや姫、さすがだったな……)
舞台の上で輝いていた柊を思い出す。
じっと夜空をみつめていると、月の輪郭がぼんやりと滲んでくるようだ。
――――物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、どんな事を思っていたのだろうか。生まれ育った地球を離れ、見知らぬ故郷へと帰還して、そのまま幸せになったのだろうか。
舞台の終焉からずっと、そんなことを考えている。
子供の頃の俺にとって、9000キロは月のように遠い場所だったんだ。
日本に帰るために搭乗した飛行機の座席で感じた、あのなんとも言えない不思議な感覚が忘れられない。月へ帰るために必要だったのは、たった一枚のチケットだったという現実も、あいつに再開するまではまるで実感が湧かなかった。
(……。柊、遅いな)
なんとなく気が滅入ってきて考えを中断する。この思考に着地点なんて最初からない。ふと時計を見ると、もうそろそろ解放されてもいい時間になっていた。
公演の後に部屋に来てほしいと言われ待っているのだが、千秋楽のあとに主演がさっさと解放されるはずもなく、こうして待ちぼうけを食らっているというわけだ。柊自身も分かっているのか、遅くなるかもしれないのでゆっくりしていて欲しいと言っていた。
部屋に用意されていた浴衣に着替え、すでに準備は万端だ。いくら夜とはいえ人の部屋で寝転がるのはさすがに気が引けるので、座ったままぼんやりと窓枠の空を見上げる。
「お待たせしました」
程なくして、微かに足音がして人の気配を感じたかと思うと、待ち人である柊が返事も待たずに入ってきた。所作はいつも通り丁寧なはずなのに、どこか慌てたような表情を見せている。急いで来てくれたのだろう。部屋着の浴衣が少しだけよれている。
柊が現れたことにどこかほっとしている自分がいる。
(……?)
月に帰ったのはかぐや姫だ。こいつじゃない。
それくらいわかっている。
「お疲れ。そんなに急いできたのか?」
「すみません、遅くなってしまいました」
確かに待たされはしたが怒っているわけではない。ましてや恋人にこんな顔を見せられては、怒れるはずがないのに。
申し訳なさそうにする柊に笑いかけ、着物を整えてやる。
「ほら、月見、したかったんだろ。しようぜ」
「はい……」
放っておくといつまでも謝り倒しそうな柊を促し、並んで腰を落ち着ける。
柊が空を見上げた。俺はその横顔を見つめる。
「明日は休みだし、ゆっくりできるんだろ?」
「はい。もちろん」
柊が月から視線を外してこちらを向いた。そのまま流れるような所作で俺の手を握り「楽しみだね」と微笑んだ。
「……まだ何も言ってないけどな?」
「あれ。君も僕と同じ気持ちなのかと思ってたけど、違った?」
「まぁ、違わないけど……」
高校卒業後も何かと忙しくしている俺たちだ、一緒に過ごせる時間はそう多くはない。だからこうして二人きりの夜は、普段のスマートさからは想像できないほどの熱量で求められる。
(きっと今夜も……)
そう思うと、胸の奥がずくりと疼く。期待してないわけがない。俺だって、早くこうしたかった。重ねられた手が熱い。かすかに指を動かすと、逃がさないとでも言うように強く握られた。
「風真君」
「うん?」
「月が綺麗ですね」
「あ、ああ……」
改めてそんなことを言われるとは思わず無難な返事をしてしまった。なのに柊は気にしたふうもなく、ただ満足気に微笑むだけだった。
真っ直ぐな瞳に全てを見透かされているような気がしてしまい、気恥ずかしくなった俺は窓の向こうに視線を戻す。
しかし、そう思ったのも束の間。柊が体ごとこちらを向いて俺の前に身を乗り出した。ほぼ強制的に柊の方を向くことになる。
「……っ」
「そんなに月が恋しいんですか?」
「なに、言って……」
「気づいていますか? 君は時々、そんなふうに、どこか遠い場所に心を向けてしまう」
ハッとした。
そんな俺を見て、柊は寂しそうに目を細めた。
「君にとっての月がどこなのか、誰なのかはわかりません。でも、もう返すつもりはない」
「……ぁ……」
「君は僕のものだ。……そうですね?」
どこまでも優しい声と眼差しに、心までも縛られるようだ。
こくりと頷くと、まるでいい子だと言うようにそっと頬を撫でられた。
「……舞台の上で、月に帰ってしまう君が浮かんだんです」
「そうか」
ここに来た時の、柊の慌てた表情を思い出す。
「なら、ちゃんと確かめろよ。俺はここにいるって」
囁くと、月明かりに照らされた二つの影が重なった。