2.たった一度のキス優しい嘘と残酷な本音、どちらを選ぶべきなのか。普段の俺なら迷わず前者を選ぶと思っていた──
あれは確か、俺たちにとって初めての厄災が来る少し前の夜だった。
少しずつ大きくなる月と、ゾワゾワとした『何か』が背筋を這い上がるような感覚。寒気は無い、熱もないと自身の体を確認する。
この震えはそう、厄災の影響による『身震い』だ。心がソワソワして落ち着かない。魔法使いは多かれ少なかれそういった影響を受ける。特に厄災が近いここ最近はそれが強いのだ。
「……大丈夫ですか?」
「あー、いや、大丈夫って言いたい所だけど……なんか落ち着かねえや」
「やっぱり厄災が近いから、ですよね」
「そうだろうな」
こればかりはどうしようも無い。魔法使いとして生まれた者の体質みたいなモンだと思っている。症状は人それぞれだが、魔法舎の連中も皆落ち着かない様子だった。
「私に何か、出来ることはありますか?」
真夜中、様子を見に来たという賢者さんがそう言った。彼女は賢者として、魔法使いの身を案じてここへ来ているのだ。
どう間違っても男女の何かを意図して来ているなどとは到底有り得ないわけで。リケやシノがここに来るのと同じように、ただ純粋に親しみを込めてそうしているのだ。
だから手を出したりなんて事は今のところ全くありえないはずなのだが、それが俺の本心かと問われれば答えに詰まるような心地を抱えている自覚はある。
ブラッドには「生温い遊びしてんじゃねえよ」と笑われたが、自分なりに考えた結果がこれなのだからどうしようも無い。
流石に六百年も生きてたらそれなりに色々あるものだが、それを賢者とはいえども人間の彼女に求めるのは畏れ多い行為だろう。女神の前に立つ罪人はこんな気分じゃないだろうか、などと言えばまた笑われるのがオチだ。
俺はとにかくアイツに何を言われようが、黙って彼女に合わせる事にしているのだけれど。
こんな時でも一番にこちらの事を気遣う彼女の優しさには心底尊敬する。その誠意に応えるために──俺は正直に話した。
「そうだな……強いて言えば、俺から離れた方がいいかも」
「えっ」
彼女は目を丸くしてこっちを見る。そんなに驚かなくても、と思ったが彼女にとっては予想外の返事だったようだ。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「あっ、そ、そうですよね。ネロもこういう時はひとりで居たいですよね。すみません何だか押しかけてしまって」
「ああ、いや、そういう訳じゃ」
──傷つけた。彼女の表情を見て咄嗟にそう察した。そんなつもりは毛頭ない、むしろ下品に茶化しただけなのだが。低俗な冗談は上手く伝わらないどころか、突き放すような言葉に聞こえたらしい。
「すみません、失礼します!」
「ストップ!」
立ち上がり部屋を出ようとした彼女の腕を慌てて咄嗟に掴む。
「……ごめん」
「いや、謝るのは私の方で」
「違うよ、賢者さん。あんたは本当によくやってる」
普段ならこんなこと絶対しないんだけどな、と頭の片隅で冷静な自分が居るのだけれど──やっぱり今夜はどうかしている。
俺は彼女の腕を引き寄せ、胸の中に閉じ込めた。
「……ネロ?」
「厄災なんて訳も分からねえモン、怖いに決まってるよな。不安だよな……魔法使いたちもこんな感じだしさ」
「……」
「それなのに、突き放すような言い方して悪かったよ」
「ネロは悪くないですよ」
ここで、この状況で。そう言える彼女の強さと優しさは一体どこから湧き出て来るのだろうか。
全く頭が上がらないとはこのことを言うのかもしれない。俺は観念してその肩に顔を埋めた。
「……はは、優しいな賢者さんは」
「優しいのはネロの方です」
「俺は優しくなんかないよ」
今だってほら、あんたをこうして逃すまいと腕の中に閉じ込めている。全ては俺の都合でこうなっているんだ。
「なあ、賢者さん」
「?」
「……もう少しだけ、このままでもいい?」
「えっ」
「あ、いや。無理にとは言わないけど」
自分でも何を言っているのだろうかと思う。本当は一刻も早く彼女を部屋に返した方が良い。そう、なんだけど。
「……はい」
「……ありがとう」
この時間を惜しむように、彼女を抱きしめる腕の力を強めた。
厄災のせいにして、不安を煽るようなことをして。都合のいいように話を運ぶ自分の無責任さに罪悪感を抱きつつ、それでもそれを許してくれる彼女の懐の広さに結局は甘えてしまう。
「賢者さんは、さ。厄災を倒したら、元の世界に帰れるんだよな」
「……過去の流れからすると、そうらしいです」
「それじゃ……本当にあと少し、なんだな」
「そう、ですね」
「……」
帰れる故郷があるのはいい事だ。きっと、彼女のように真っ直ぐで純粋な子が育った環境はとても良い所なのだろう。俺とは違って、帰る場所があるならこれ以上喜ばしい事はない。
だけど。
「……惜しいな」
「え?」
「あ、悪い。独り言」
「……」
きゅ、と胸元の服が手繰り寄せられる感覚がする。彼女が俺のシャツを握りこんでいるようだ。
「賢者、さん?」
「はじめは、知らない世界にひとりで来て何も分からず不安でしたけど……皆さんの事を少しずつ知りながら過ごすうちに、そんな気持ちはどこかへ行ってしまいました」
「そっか……」
「今は、離れるのが寂しいくらいです」
「……」
俺も、寂しいよ。
声には出さないけれど、正直に認めよう。
賢者さんが俺を真っ直ぐ見ようとしてくれたから、俺も少しずつだけどあんたを見ようとしたよ。変わってるなと思ったり、幼いな、若いなとも思ったけど。
何より、あんたはいつも眩しい程に真っ直ぐだった。
「ネロは、寂しくないですか」
その質問に答えてしまったら、俺はどうなっちまうんだろうな。そんな事を考えるくらいには厄災の力が自分自身に強く影響しているのだと頭では分かってはいる。
そう、頭では。
こちらの世界に何の未練も抱かず長い旅を終え、無事に笑顔で家に帰れるように。俺は優しい嘘で彼女を送り出すべきなのだ。
「……魔法使いは、さ。長生きだから、全てを抱えては生きていけねえよ」
「……そう、ですよね」
「でもさ」
彼女の頭を撫で、前髪に顔を近付ける。唇が前髪越しにその額へと触れた。
「あんたが居なくなった後、胸に空くだろう穴を埋める術を俺は知らない。それが怖いんだ」
自分でも何を言っているのだと思う。そんな事を言うために俺はここに居るのかと自問自答するが、頭より胸の奥から込み上げるものが言うことを聞かない。
「ネロ……」
「忘れたくねえな、あんたの事」
「私は、ネロを忘れませんよ」
彼女は顔を上げた。やけに自信に満ちた声にだったが、その表情は正反対だ。ぐちゃぐちゃじゃないか。それなのに、真っ直ぐこちらを見る強さは変わらずで。
「……ありがとう」
思わずその顔を両手に包み、額をコツンと合わせる。
「ネロ……ネロ……」
「俺はここに居るよ」
「うう……ネロ……」
堪えきれず目からボロボロと流れる彼女の涙を、親指で拭うも追いつかない。
降参だ。俺は思わず笑って、素直に告げた。
「賢者さん、あんたが好きだよ」
「ネロ……私も、私もっ」
「うん」
「私も、ネロが……っ、好きです」
その声を聞くと同時に、俺は彼女の唇を塞いだ。
あの涙の味は、忘れたくない。
それが俺たちの、たった一度のキスだった。