雪と狐の物語お宮の障子窓から木漏れ日が差し込む。それに目を向けていた九尾狐の若者は、小さく漏らされた吐息に、その存在の方を見た。
先ほど拾った迷いの妖(あやかし)。姿形から、まだ幼い少女だ。青年が見たことも感じたこともない、凍りつくような冷気を纏っている。
森の中で見つけた時から、気を失って倒れていた。瞳を閉じていても分かるほど愛らしい造りをしていて、その装いも浮世離れした繊細で柔らかい衣で包まれている。
瞼が震え、そっ…と閉じられていた瞳が開かれた。少女は虚ろに視線を彷徨わせていたが、はっ、と身動ぎをして体を起こした。掛けていた布団がめくれ肩から落ちる。
「こっ、ここはっ…」
「気づいた? 体、大丈夫?」
できるだけ優しく声をかける。びくっ、とこちらを見た少女の顔は明らかに怯えていた。若者は自身の頭にある金色に輝く三角耳を倒して、笑ってみせた。経験則で、こうすると警戒心がやわらげられるのを、知っている。
それでも少女はその真っ白な面輪を震わせ、ハッ、としたように声を上げた。
「わ、私の、ベール……!」
「……薄衣ならそこにあるよ」
青年は少女の足元を指差した。少女を拾った時、少し離れたところに透き通るような大きな薄衣があった。
暖をとるには頼りないそれより、綿の詰まった布団を掛けてやったのだが。そんなにその衣が大事だったのだろうか。無論、その布団でも、少女の体を温めるには足りない様子だったが。
しかも、ベールとは。少女が纏う装束はひらひらと裾が舞ってはいるが、見るからに着物だ。襟の合わせも袂も帯もある。彼は自身の若人らしい甚平の装いを見た。見たことはない妖の子どもだが、共通点も感じていたのに。それだって、ベールというより羽衣のようなものだろう。
「あ……」
少女は薄衣に裂けている部分を見つけたようで、言葉を失っている。
青年は軽く頭を掻いて、言った。
「……布が心配なことは分かるけど。まずは自分の体を気にした方がいいよ。ずっと気を失っていたんだから」
少女は動きを止め、じっ…と彼の方を窺ってきた。少々呆れていた青年は、今度は息をつくようにして笑ってみせる。
すると、しゅん…と、少女は急にしおらしく俯いた。
「あなたが……助けてくれたの?」
「……うん。まあ。ここいらには邪悪な妖も棲んでいるから。それに見つからなくて良かったな」
言いながら、本当に良かったと、今更ながら安心する。だからと言って自分が邪なものではないとも言いきれないが。
彼にはここに仲間や家族がいるわけではない。妖の世界の争いや競い合いに身を置いて血気盛んな毎日を送っているが、他の物の怪の類いに比べると、邪気は無いことを自認しているくらいだ。
少女はこくっ…と頷き、でも不思議そうに首を傾げた。
「…よく、私を運べたわね?」
「え?…あ」
少女が言っている意味が一瞬分からなかったが、最初触ろうとした時恐ろしいほどの冷気に襲われたのを思い出して、彼は自分の後ろを振り返った。
そこにあるのはふさふさの九つの尻尾。黄金色に輝き、柔らかく揺れている。
それに気づいた少女が、大きな瞳を瞬かせた。
「これに、くるんで運んだ」
「……冷たく、なかったの?」
「うん。全然」
少女がうずうず、という様子でそれを見つめてくる。可愛い子だな。と、純粋に彼の心に温もりが灯った。
「……触っていいよ」
再度ひとつふたつ瞳を瞬いて、少女がはにかむように頷く。青年も眉尻を下げて笑った。
少女は初めは恐る恐るという様子で若者の尻尾の毛並みを撫で、もふもふとそれを楽しんでいたが、徐々に頬擦りをし、抱き締めるようにして体を埋めてくるようになった。なにせ九尾もあるのだ。彼はいくつもの尻尾で包み込み、無防備な子だな、と今度は心配になっていた。最初はあんな警戒を露にしていたのに。
だが、体がきついのだな、と思い至り、優しく慈しむように包む。それはそうだ。こんな小さな身体で倒れ込んでいたのだ。
少女はふわふわに体を委ねながら、ぽつぽつと自身のことを話してくれた。
自分は雪女であること。突発的な事象でたぶんここに現れたこと。帰るには、あのベールが必要なこと。
なるほど。ベールの損傷にあれだけショックを受けるはずだ。
「……直るの、あれ」
「うん……時間はかかるけど。私の霊力を注いで」
「……まずは体を治してからだね」
どうやらうとうとしてきたような少女に優しく言うと、ふにゃ、と彼女は笑った。
「……良かった……あなたが助けてくれて」
思わず彼の頬に紅が差す。急に心を許しすぎだと注意したくもなるが、くすぐったい思いにふわふわと浮き立つ。このたまに隠れるのに邪魔になる尻尾たちに、これほど感謝したのは初めてだった。
少女との暮らしは。思いがけず穏やかで和やかなものになった。
九尾狐の青年の住拠であるお宮は、雑木林に囲まれそもそもひんやりとした場所であったことも幸いしたようだが、さらに冷気に包まれた。彼は自身の霊力でもそれに重ねて護りを強化し、保護に務めた。
ただ、この少女は自身の妖力と、とても近づけない冷気で、自らをきちんと守れているようにも思った。なら自分は必要ないのでは、なんて思うが、少女がすごく青年を頼りにして懐いてくれるので。彼の心は満たされた。
「あなたは寒くないの? 大丈夫?」
と、事に触れ少女は心配してくれるが、彼は至って平気だった。もふもふが最強なのね、と少女は呟きながら若者の尻尾に喜んで抱きつく。小さな手で丁寧に毛繕いをしてくれたり、嬉しそうに顔を擦り寄せてきたりするので、青年は自分の姿形を、初めて大好きになった。
拾った子どもを助けたつもりだけど。自分の方が、癒されている。
実際、色んな妖とやり合って出来た生傷を、雪女の少女は、優しく治してくれた。
腫れたり熱を持っていると、ひんやりした柔らかい手で氷の粒を出して冷やしてくれる。キラキラ輝く雪の結晶はそれはそれは、綺麗だった。切り傷や擦り傷まで、薄い冷気で包むように癒してくれる。青年からは少女に触れられないのに、少女の指先が触れるぐらいは、大丈夫だった。
「どうしてケンカするの?」
柔らかな声で不思議そうに、聞かれる。若者は首を傾げながら言った。
「…どうも見た目で。甘く見られるんだ。よくケンカを吹っ掛けられる」
「フフ。分かる気がするわ。あなたとてもキレイで、侮られそうだもの」
軽やかに返されたが。何だそれ。褒められたとは思えないが、何か悪くもない気がする。
複雑そうな顔をした青年に、少女は無邪気に続けた。
「でも、それだけじゃないんじゃない。ここまでケンカするのは」
涼やかで優しい声と手つきに、若者も穏やかな気分になり、答える。
「…そうだな。性悪なことをやっている者がいると、許せなくなるんだ。特に偉ぶってる者とか」
「フフフ。さすが九尾狐さまね」
明るく言う少女。確かに九尾狐は、瑞獣と呼ばれ現れるのは吉兆とも言われているようだが。若者自身にはその自覚はあまりなかった。今まで、仲間に恵まれずにきているからかもしれない。
「私のことも……守ってくれるし」
小さな声でささやく少女の頭を、青年は尻尾で撫でた。
「当然だろ。困っている者を助けるのは」
「成敗しようとは、思わなかったの?」
「どうして。君には何の邪気もない」
「時と場合によるのよ。この冷気は凶器にもなるわ」
「物騒なこと言うね」
「でも、妖って、みんなそんなものなんじゃないかしら。あなたは自身の信条でその霊力をコントロールできているだけ。素晴らしいことだわ。だったら、ケンカばっかりじゃなくて、いろんな妖と共存もできそう」
クスクスと笑うようにして言う、小さな妖の、雪女。
こんな可憐でいとけないのに。賢くて、優しい。
若者は感動していた。この子の、言う通りかもしれない。自分の頭が凝り固まっていたことを、思い知った。
青年の傷を手当てした後少女は、またたくさんの尻尾に埋まって頬擦りしている。彼は、自分の手のひらで少女に触れられないのを、すごく残念に思った。
部屋の隅に掛けられている、大きな薄衣。その裂けた傷も、少しずつ少女が自ら放つ氷の霊力で直していっていた。
「……君には仲間や家族が、いるんだろ」
そこにきっと帰りたくてたまらないはずだ。
すると少女は、尻尾のもふもふに顔を埋めたまま、かすかに呻いた。
しばしの間の後。ぼそぼそと、言う。
「……仲間は、いるけど。家族は、いないわ」
「え?」
「……私、ひとりぼっちなの。仲間がいるからそこで過ごすことはできるけど、あまり居心地は良くないわ。こんな温かいぬくもりなんて、あそこにはない」
そう言って彼の毛並みに擦り擦りする。若者の心はときめいた。雪女だから温かさが恋しいなんてなさそうだけど、別の意味で、きっとこの子は自分の元でぬくもりを感じてくれている。
それは。自分と、一緒。
だったら、と。ここにずっと居ていいんだよ、と。喉まで出掛かった時に、少女の澄んだ声が言葉を紡いだ。
「でも。私はあそこでしか生きていけないの。雪と氷と冷気で覆われていないと。妖力も衰えていく、ばかりだわ」
ずんっ、と。青年の心に鈍い痛みが広がる。
それは分かっていたこと、なのに。
あの衣が直ったら。少女は、いなくなる。帰って、しまう。
衣紋掛けにかかった薄衣は、もう裂けていた痕も分からないほど、綺麗に隅々まで輝き光を放っている。
キラキラと零れる雪の結晶。少女を、元いた世界へと、戻してしまう。
若者は。幾度かこの衣を隠したい衝動にも、また壊したい衝動にも、駆られた。
でも決してその境は越えなかった。少女が生きて健やかに過ごすこと。それに代わるものは何一つもない。
ベールを被った少女は。さらに愛らしくそして崇高に見えた。彼は唇を噛みしめながら。必死に笑顔を、作る。
「……気をつけて、帰るんだよ。どうか、元気で」
そう声を絞り出す九尾狐の若者を、少女はじっ、と見つめた。
「…本当に、ありがとう。助かった、わ」
「……うん」
「……私、戻っても今までよりもきちんと過ごせるような気がするの」
「…ああ。僕もだ」
「フフ、何人かお友達ができてたものね」
「うん、君のおかげだ」
彼は優しく瞳を細めて答えながら、一番ずっとそばにいてほしい友達は離れていってしまうけどな、と思った。…友達? 少し違う気がする。…そうだな、この子とは。家族になりたかった。
…家族?
自分の思考に戸惑いながら、最後、ふわふわの尻尾で少女を包み込む。
この手で抱き締めることも叶わない相手に。切なさが、募るだけだと、言い聞かせながら。
離れ際、優しく尻尾を撫でてくれた少女が。囁くように、言った。
「……16に、なったらね」
「………え?」
「16才に、なったら。自由に外に出られるようになるの。この霊力も、もっときちんと自分で操れるようになる。そ、そうしたら。そしたら」
少女の真っ白な頬に紅が差す。初めて見るような、鮮やかな、表情。
「また、会いにきていい?」
キラキラと。若者の目の前が輝いた。
「うん、もちろん。ぜひ。ぜ、絶対、に」
力が入りすぎて声が震えた。少女は花が綻ぶように晴れやかに笑った。
「うん。あと10年。私ちゃんと大人になるわ」
ちゃんと大人になるとはどういうことか? でも彼にも分かる気がした。
「僕も。もっと道義にかなった大人になる」
彼女が来てくれた時に。もっと堂々と守れる、力も信念も培っていきたい。
きっと。そうしてまた、会える。
10年後。それぞれに、成長して。
それだけのものを。与え合った。
この、出会いで。
思わず彼の手が伸びる。眩しい少女の姿が、ベールに包まれ消えていく。
さよならは、無かった。誓った約束だけを、胸に。
散りばめられ残った雪の結晶が煌めく様を。いつまでも、力強い思いで若者は見つめ、見送っていた。