悪夢から転じて。 ぼんやりと、閉じていた瞼を持ち上げる。
途端に眼前に広がるは、一寸先すら危ぶまれる程の闇、闇、闇───
ただただ暗く、それでいて重い。
どろりと澱んだ重苦しい闇の蔓延る空間、その中を暁人はただ茫然と歩いていた。
行き先なんてものは端から分からない。そもそも終着点があるのかすら怪しい闇の中、それでも自身の両脚が止まる事はなく。
指先、ともすれば足先から深淵に呑み込まれてしまいそうな錯覚を覚える程の深い深い闇の中、其処はとてもではないが居心地が良いとは言えず。頭や両肩にずしりと圧し掛かる重苦しい空気が、まるで肺まで圧迫しているかの様に。一歩一歩、歩みを進める度に身体は息苦しさを覚え、知らぬ間に息が上がっていく。それでも暁人はその歩みを止めず、ずるずると引き摺る様に両脚を前へ前へと押し進めていく。
彼──暁人にはこの深い闇の世界に覚えがあった。
それもそう、此れは彼自身がみている夢、謂わば『悪夢』の一種であった。この暗く、重苦しい闇の世界は、暁人が気付かない内に自身の心の奥深くに溜め込んだ孤独感だとか寂寥感だとか。そういった感情に苛まれた時に現れるモノ、所謂深層心理的な括りから齎される夢であった。
人は誰しもがその胸の奥に大きさは違えど、翳りを抱えて生きている。
例えその『翳り』を乗り越えたとしても、其れは跡形も無く消えたという訳ではなく。大概が表層意識の遥か奥底、深層意識の根元へと押し込められているのだ。
そうしてそれは自身の意思には関係なく、ほんの僅かな切っ掛けや出来事で鎌首を擡げ始めるのだ。日常生活に於いてのフラッシュバックや、悪夢としての再来はそれのほんの一つの例に過ぎない。
大切な事であれ、辛苦な事であれ。心の奥底に刻み付けられた其れらのモノは基本的にコントロールが難しいものだ。強く在れる時もあれば、どうしていたって弱り参ってしまう時もある。しかしてそれが、人と云う者であろう。
だから彼も、弱る時が来てしまうのは仕方の無いことなのだ。たった一人の肉親に誓った『最後の最後まで生き抜く』という尊き誓言があったとしても。自身の中に宿したある魂との鮮烈で色褪せる事のない、大切な想い出があったとしても。
それこそが、彼自身が言葉に出して誓った『泣いてもみっともなくても生きていく』と云う事なのだから。
そう、頭と心で等しく理解していたとしても。
(……やっぱり独りは、寂しい……よ)
いつもならかぶりを振って諫めるその感情が、その心根が、一度夢の中になると途端に自制が効かなくなる。だからこれは悪夢なのだ。強くなるばかりの孤独感と寂寥感を誤魔化すことも出来ず、進み続ける両脚を止めることも出来ない。
何かに喚ばれる様な、誘われる様な。そんな漠然とした感覚を感じながら進み見遣るその先は、自身を真綿の様に包む深い闇と同等か……いや、それ以上の深潭で。このまま進むその先が何処へ続いているのだか知らないが、ただハッキリ言えるのは『きっと碌でも無い場所』であるという事だけ。
頭の片隅ではそう考え至っているのに、やはり脚は止まらない。胸にぽっかりと空いた穴に、どろどろとした澱みが溜まっていく様な。錯覚に違いない筈のその感覚が酷く不快であるのに、やはり脚は止まらない。
(……でも、もしも……)
この闇が、深淵が、深潭が。
この胸の空白を、空虚を、伽藍堂を。
埋めて、補って、満たしてくれるのなら───
(いっその事……呑まれて、融けて、一つに"混ざり"合えたなら……)
独りぼっちからも、この寂しさからも、胸中に湧き上がり続ける何もかもの感情から、解放されるんだろうか。
暁人は随分と重く感じる両脚で歩みながら、霞の掛かり始めた思考の中でぼうっとそんな事を考える。無論、肯定も否定も、そもそも自分自身の声以外は聞こえやしない。何故ならそれは、此処では自分は独りだからだ。いや、此処だけでは無い。夢の中でも、外であったとしても、自分は独りぼっちだ。独りぼっちになってしまったのだ。其れは変わらない、覆ることの無い残酷な真実であった。
暁人の身体を包む冥闇が彼の思考すらも絡め取る。そうして本来の彼ならまず転がることの無い、余り宜しく無い方向へとその思考を追い立てる。その事に暁人は気付けない、否、気付ける筈がないのだ。彼は正に今現在も、自分は『独りきり』だと心底から思ってしまっているのだから。其れを否定してくれる存在も、声も、もうこの世には居ないのだと。
そうして暁人が眼前に広がり続ける深潭を見詰め、その脚をもう一歩踏み出そうとした時だった。
『……オイオイ、そっちはダメだ』
呆れた様でいて、何処か柔らかさを帯びた声と共にするりと目元が何かで覆われた。途端に、今し方まで見ていたモノとは別の暗闇に視界が奪われる。
『ンなもん見詰めてたって、何にも良い事なんてねぇぞ』
しかしそれは決して重苦しいモノなどでは無く、酷く温かくて、それでいて随分と懐かしさを感じさせるモノで。その温かな何かが、覆われた目元を起点にじんわりと身体中に広がっていく。圧し掛かっていた空気も、両脚に纏わりついていた重さも、この温かさが広がるに連れてまるで嘘だったかの様に消え去った。
そうして先の澱みの代わりと言わんばかりに、胸の空白へと温かな何かがじわじわと蓄えられていくのを暁人は感じていた。自分独りだと思い込んでいた世界に、自分以外の確かな気配と響く声に彼の眦から一筋の滴が零れ落ちる。
『しっかりしろよ。オマエはこんなモンに引き摺られる程、弱いヤツじゃあねぇだろ?』
いっそ挑発的にさえ聞こえるその声は、あの雨降り頻る夜の街で、誰よりも近い距離で、己の内側から響いていた相棒の声だ。もう二度と相見える事はないと思い込んでいた、唯一無二の己が片割れの、変わらないその声だった。目元を覆っている温かさは、少し節くれだった彼の掌だった。
思わず息を呑んだ暁人が小さく発した彼の相棒の呼び名は、しかして音にはならなかった。けれど、囁きよりも小さな其れを、紛う方なく己の呼び名であると聞き取った声の主は吐息だけの笑みを溢す。
『別に、強く在れなんて言うつもりはねぇよ。独りだと思っちまうのも、寂しいのも、オマエの正直な気持ちだ。それを否定するつもりもねぇ』
耳心地の良い低い声が耳元に落ちる。知らぬ間に目元からずらされた掌が、まるで壊れ物に触れるかの様に柔らかく暁人の頬を何度も撫でた。こうして触れられるのは初めてである筈なのに、妙に懐かしさを感じるのはこの身に彼を宿していたからだろうか。
『立ち止まってもいい、振り返ったっていい。先は長ぇんだから、休み休みでいいんだよ。人間、突っ走り過ぎたらその内ガタが来るモンだからな』
「ふはっ、それは……実体験……?」
思わず漏れ出た笑い声に、相棒が不満げな気配を纏ったのが目に見えずとも分かった。
『……やっと喋ったかと思えば、失礼なヤツだな』
それでも、変わらず頬を撫でる手の柔らかさが自身を包み込む温かさが、彼の機嫌が全く損なわれていない事を示していた。暁人はそっと自身の右手を頬を撫でる手に重ね合わせ、そおっと頬擦りする。男らしい無骨な彼の手に触れたのも、そう云えばこれが初めてだった。
『例え見えなくても、聞こえなくても、感じなかったとしても。オレ達は、オマエのことをずっと見守ってるよ』
頬を撫で、時折梳く様に髪を掠める指先が酷く心地良くて。自身の意識が微睡みに融けかかっている事に気付いた暁人は、緩く首を振って其れを拒絶しようとした。此処で保っていた意識を落としてしまうことは、等しく彼との別離を意味する。それは嫌だと、かぶりを振る暁人だったがその行動すら宥める様に、柔らかく頬を撫で、小さく笑みを溢されては暁人に為す術は無かった。
『ははっ、今日のお暁人くんは随分と甘えただな。オレとしてはもっと甘やかしてやりたい所だが、遺憾せんなかなか自由が効かない身なんでな。……これで勘弁しといてくれ』
「……十分、だよ。もう、逢えないと思ってた……から」
『謙虚なヤツだ』
「ふふ……良いこころがけ、でしょ?」
本格的に微睡み始めた意識の中、辿々しくも言葉を紡ぐ。さっき迄両脚で立っていた筈なのに、いつの間にか身体は浮遊感に包まれていた。
『もうこんな所に嵌るんじゃあねぇぞ?』
「また、落っこちたら……?」
『……そうだな、そん時は蹴り出すかもな?』
「蹴られる……のは、ちょっと……」
『ははっ!ならもう落ちねぇことだな』
快活に笑う相棒に連られて、自然と口角が持ち上がる。逃れられないと思っていた悪夢が、いつの間にか随分と温かな夢に変わっていた。それは偏に、相棒たるこの男の存在が大きく影響しているのだろう。
『いいか、暁人。これだけは覚えとけ。
オマエは、決して独りじゃねぇってことを。……オレが傍にいるってことを』
その事を、忘れるんじゃあねぇぞ。
泣きたくなるほどの優しい声と額に触れた柔らかな熱を感じた後、暁人の意識は眩い光の中へと押し上げられていった。
⬜︎⬜︎
自室のベッドの上で静かに目を覚ました暁人の、その胸の内には夢の中で蓄えられた確かな熱が。頬と額、そして右手には彼の相棒と触れ合った時の確かな感触が残っていた。
「……絶対に、忘れないよ。皆んなが見守ってくれていることを。……貴方が、傍にいることを」
掠れた声で溢されたその言葉に返事が返される事はない。だとしても暁人が孤独感に、寂寥感に苛まれる事は無かった。
東の空から覗き始めた眩い暁の光が、寄り添う様に彼のことを柔らかく照らしていた。