朝の水やり 閉じた瞼の奥に淡い光を感じ、微睡に揺蕩っていた意識がゆっくりと覚醒する。その緩やかな流れに身を任せ、ゆうるりと瞼を開く。
ぼんやりとした寝ぼけ眼の先、窓越しに差し込む淡い朝焼けに誘われるように、暁人は寝台を静かに抜け出した。未だ夢の中に留まっているらしい己が相棒を起こしてしまわないよう、細心の注意を払って。
カラカラと、静かに窓サッシをスライドさせてこじんまりとしたベランダに出る。真昼間ならウンザリするほどの暑苦しさに包まれる夏特有の空気も、早朝にあたる今の時間であればその鳴りを潜め。涼やかな風が、少し寝癖の付いた暁人の髪を撫で去って行く。
夏の暁、旱の朝曇。
東の空が白く明らみ、空全体を覆っていた闇夜は西の彼方へと追いやられていた。空にかかる靄のような曇り雲は、今日も厳しい暑さに見舞われることの証であろう。
本格的に猛暑がその力を振るいだすその前に、本日も朝の日課に取り掛かろうと。暁人は"ある物"を取りに一度部屋の中へと舞い戻る。再度、ベランダへと出で来た彼の手には小さな銀色のジョウロが握られていた。
「おはよう、今日もいい朝だね」
伏せられた瞼の先、其処には小さいながらも丸い植木鉢から力強く天へとその葉を伸ばす一つの樹木が鎮座していた。
鮮やかな濃い緑、少し肉厚で丸い葉っぱに足のような独特な形の幹を持つその樹木は南のある地方では"精霊の宿る木"として知られている。
幹の部分の形や、枝葉の別れ方など、個々一つ一つが個性的な形故、暁人とKKが二人してあーだこーだと言い合って選り抜いたものであった。
やや殺風景気味だと感じていたベランダに何か緑を飾りたいと言い出した暁人に『オレは枯らす自信しかねぇけどな』と本末転倒な事を話すKKの脇を小突いたのは記憶に新しい。
そんな事を言っていたKKであったが、暁人より早く目が覚めた時は彼に倣ってベランダの、この小さな隣人に水やりをする姿を幾度も目撃している。何だかんだと言いつつも面倒見が良いのだ、己が相棒殿は。
木の根元部分へとジョウロの先から水を注ぎながら、僅かな声音で暁人は小さな隣人へと声を掛ける。
「うん、今日も元気そうだね」
目の前の子が花を咲かせる事はないし返事を返してくれることはないけれど、折角同じ場所で暮らす生き物なのだから、伸び伸びと元気に育ってほしい。そんな心根の元、暁人はいつも朝の水やりと共にこの隣人にひっそりと声を掛けるのだ。
樹木をこの部屋に迎えたその日から、それが暁人の日課の一つとなっていた。残念ながら、自身の相棒が実際に話し掛けている場面を今の所見た事はないのだが……。
(僕が知らないだけで、KKも話し掛けてあげてたりするのかな?)
自身と同じく、この子に話し掛けるKKの姿を想像してくすりと微笑が溢れたその時だった。
「……なんだ、遂に返事でも返って来たのか?」
水やりをする暁人の背に、寝起き特有の掠れた声が掛けられる。振り仰いだその先には、腕を組みながら窓サッシに肩と頭を凭れ掛けて此方を見遣る相棒の姿があった。ぴょんと跳ねた寝癖が彼が今し方起きたばかりである事を伝えてくる。
「いや、返って来なかったよ。……おはよう、KK」
「おー、おはようさん。まぁ、その辺の犬猫程喋りはしねぇだろうからな」
よぉく耳を澄まさないと分かんねぇよ。
欠伸を噛み殺しながらそう溢すKKに、聞き流しそうになった暁人は思わず彼の顔を凝視する。相棒から突然向けられたその視線を怪訝そうな表情で受け止めたKKは「……なんだよ」と小さく呟いた。
「いや、あのさ、KK。もしかして、植物……というか、この木の言葉も分かるの…?」
「あ?あー……、分からんこともないこともない、ような……?」
「いやそれどっちなの」
「オレもよく分かんねぇんだっての。まぁ、オマエがよく話し掛けるから、コイツも時々何か返すようになったんだろうよ」
そこまで意識して聞いてねぇから分からんが、そのうちオマエにも聞こえるかもな。
暁人越しに植物を見遣りながら、KKは静かにそう宣った。
「それなら、やっぱ毎日話し掛けないとね。ふふ、新しい楽しみできちゃった」
「……程々にしろよ。ほら、水やり終わったんならちと早いが朝飯にしようぜ」
「うん、そうだね」
KKの後に続き、暁人はベランダから部屋の中へと戻り、カラカラと後ろ手に窓サッシを閉めた。
暁人とKK、そしてベランダの小さな隣人。
穏やかで爽やかな朝の空気の中。ほんの僅かなひと時に行われる水やりと、掛けられる柔らかな言の葉。
他者から見れば何の変哲もない、ただの慣習かもしれないが彼等にとっては大切な日課の一つ。
誰の姿も無くなったこじんまりとしたベランダ、其処には鈴を転がす様な小さな笑い声が朝風に乗ってころころと響いていた。