夏五版ワンドロワンライ第76回お題「生体認証」 住人を失った巨大な寺院は、ひっそりと静まり返っていた。
長い廊下を、ひとりでのんびり進んでいく。供は断った。ひとりで行くべきだと思ったからだ。あるいは、感傷的になっていたのかもしれない。
あの新宿の戦い以後、こちらの陣営へ降った異人から内部の構造について一通り聞いていた。最新のセキュリティで守られていたと聞いたが今は効いていないようで、ところどころ窓が割られ何者かが侵入した形跡がある。
しかし、五条にとってはどうでもいいことだ。
五条は呪術師であって警察ではない。残されていたお宝が盗まれていたとしても興味はなかった。
用事があるのは一か所だけだ。
「ここ――かな」
長い廊下の突き当りにある観音開きの扉を開ける。
あの異人――ミゲルという呪術師の話によれば、ここから先は限られた「家族」しか足を踏み入れることが許されなかった領域であるという。さらにその奥――と、片言の日本語を思い出しながら、まだ数々の調度品が無事に残っている部屋を突っ切って2つ目の扉へ近づく。
一応施錠されていたが、五条の前に普通の鍵は無意味だ。術式を使えばあっという間に頑丈な扉は豆粒ほどのゴミに変貌した。
先には、地下へと繋がる螺旋状の階段があった。明かりひとつなく真っ暗な空間が口を開いているが、迷うことなく進んでいく。階段自体はさほど長くはない。すぐにまた扉があり、鍵もかかっていなかった。
ここは教団の教祖――先の未曽有の呪霊テロを起こした夏油傑のプライベート空間だった。
入ってすぐのスイッチを入れると、電気はまだ生きているようで仄かなオレンジ色の明かりが室内を照らす。あくどい商売で儲けていたにしては狭く、生活していたというにはあまりに殺風景な場所だ。ベッドと、机だけが置かれており、テレビの類もない。壁と一体となっているクローゼットには、最低限の服しかなかった。
そのクローゼット中に、目的のモノがある。夏油にしか開けられないという、金庫である。五条がわざわざこんなところまで自ら足を運んだ理由がここにあった。
夏油傑は幾千もの呪霊を身の内飼っていたが、数多くの呪具も収集していたという噂があった。最後の乙骨憂太との戦いで使用した游雲は高専の敷地内に残されていたが、それ以外の呪具を収納していたと思われる呪霊も乙骨によって祓われてしまったため、大半は消滅したと思われた。
しかし教団の寺院内に、夏油の秘密の金庫があるという。そこにはもしかしたら名だたる呪具が残されているかもしれないと期待した腐った蜜柑ども――もとい上層部のお偉い方に命じられて、こうしてやってきたというわけである。
別に、五条自身が引き受けるような仕事ではないが、あの戦いによって大勢の呪術師が負傷し疲弊していることも事実だった。大きすぎる傷が癒えるには、まだまだ時間が必要なのである。
もっとも、そんな理由がなくとも、断るつもりはなかった。
「何度も言うガ、あれは特注で、ゲトウにしカ開けられないゾ」
ミゲルはそう言っていた。特注の金庫は呪力によって常に守られ、鍵も特殊なものだという。ドロボウが部屋に踏み込めたとしても絶対に開けられないし、持ち運びにも適さない大きさと重さだった。
それでも、五条にとっては問題はない。
触れると確かに夏油の残穢を感じて、思わず頬が緩んだ。
開けるまでもなく、ここに呪具は保管されていないとわかっていた。あの男が、「非術師」が作った金庫を頼りにするはずはない。
ならば、ここに後生大事にしまってあるお宝は何だろうか。興味がない、と言えば嘘になる。同時に知るのが怖いとも思った。
1番いいのは、中を開けずにこのまま潰してしまうことである。夏油の秘密を跡形も消し去ってしまう――蜜柑どもにはどうとでも言い訳はできる。
冷たく硬い金庫の側面を手のひらで辿る。隅々まで、懐かしい呪力が感じられる。間もなく消えてしまうはずの――もう二度と触れられないはずの。
「――――すぐる」
かちゃりと、無機質な音が静かな部屋に響いた。最新式らしい電子ロックはその後も何度か機械音をたてて、そして。
固く閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。
「っ、ハ」
――お前、バカじゃねぇの。
中を確認して、思わず笑ってしまう。バカでかい金庫の中に入っていたのは、たったひとつだけ。
どこかで見たことがあるフォルムの。
今や絶滅危惧種となった、スライド式の。
なんでこんなもの大事にしまってんだよ。
なんで僕の―――俺の声で開くようになってんの。
手にした絶滅危惧種はとっくにバッテリーが切れていて、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。
でももしかしたら、中にデータは残っているのかもしれない。そうじゃなければ、五条の音声をキーとして使用できないはずだ。
「全部、捨てたんじゃなかったのかよ」
懐かしい、けれど手に馴染んだ機体を握りしめる。少し力を籠めれば、さっきの扉と同じようにあっという間に消えてしまうだろう。
迷って、悩んで――結局は力を緩めて、ポケットへ滑りこませる。そうして、空になって金庫に指を向けた。
「証拠隠滅ってね」