【夏五】見えない楔 そういえば今日の星座占いは最下位だった。穏やかな声で告げられた内容はろくに覚えちゃいない。BGM代わりに流していたテレビで、番組もそろそろ終わりという頃に必ず始まる短いコーナー。右から左へ流していたのに、最後の部分だけをやけにはっきり覚えている。
「本日のラッキーカラーは、紫です!」
へぇ、じゃあ景気付けに茈でもぶっ放そうか、なんて冗談を口にしながらテレビの電源を消して、時間通り、真面目に、お仕事へ出かけたのである。
今日の目的地は隣県にある小さな寺だった。観光地の片隅にありながらも観光客もほとんど訪れない静かな古刹だ。
境内へ続く階段の両脇にはびっしりと紫陽花が植えられていて、年に一度梅雨の時季だけ賑わうと聞いたが、今は木々の葉っぱも全て落ちてしまう肌寒い季節である。名物の紫陽花も丸裸になり、むき出しの細長い枝が四方八方に伸びているだけだ。
そういえばこの前祓った呪霊は、こんな姿をしていたなと思い出す。無数の足がうねうね畝って、色もグロテスクで、最高にキショイヤツだった。
他に人の姿はない。元から参拝者が少ない季節とはいえ奇特な誰かが入り込んでしまうと困るので、最初から立ち入り禁止にしてもらっている。寺の関係者もどこかへ避難済みで、ここにいるのは五条だけだった。
今回のターゲットは、寺の裏にあった。
有名な階段から一株逸れてしまったかのようにひっそりと植えられている紫陽花が、いつまで経っても枯れないのだという。梅雨の頃に咲き始めてから約半年、今でも瑞々しい花をつけながら日々成長中なのだそうだ。関係者以外立ち入り禁止の庭なので、一般参拝者には知られることはなかったが、さすがに気味が悪いとあちこちに相談してまわり、最終的に呪術高専へ話が来た。どうも呪霊の仕業ではないかと、近所に住む窓が通報してきたのである。
そんなわけで、五条は今問題の庭にいた。人払いしておいてなんだが、実は祓うために来たのではない。呪術師ではなく高専教師としての仕事である。今年の新入生たちが対処できる案件かどうか、自ら確認しに来たのだ。大丈夫そうなら実習として生徒を連れてきて祓わせるつもりだった。もちろん、無理そうならさっさと祓除するだけだ。
さてさてどんなものかと問題の紫陽花と対面して――今朝の占いを思い出したのである。
紫陽花は、鮮やかな紫色をしていた。
一株だというのにやけに大きく、五条ですら隠れてしまいそうなほどに縦にも横にも広がっている。
色を失いつつある庭の中で、その紫陽花だけが確かに異質だった。
全体にまとわりつくような呪力を感じる。しかもひとつだけではなく、複数の。
まるで呪力の集合住宅だ。花ひとつひとつが纏う呪力が異なる。呪力が大きければ花弁も大きく、色も鮮やかだ。
真ん中の、ひときわ大きな花に伸ばした手に、突然ポツリと雫が落ちる。ポツリ、ポツリ。一粒だった雫は、あっという間に土砂降りに変わった。
もちろん、当たり前のように五条の体には届かない。髪の毛1本すら濡れることはない。反対に、目の前の紫陽花は遮るものもなく濡れて、色を一層濃くしていく。
無意識に、胸元を握りしめていた。
ここにずっと、抜けない棘がある。棘は同時に、楔でもある。五条を「ここ」に繋ぎとめている、ほんのわずかなきっかけで抜け落ちそうな頼りない欠片。
―――なにがラッキーカラーだ。
「お前の仕業だったってわけね」
巨大な紫陽花の株に話しかける。正確には、ほんの少し前に現れた気配に向かって。見えなくても、相手が笑ったのがわかる。
「綺麗だろう?私の家族に、呪霊や呪力を蓄えることができる子がいてね。あちこちから集めてきて、こうして育てているんだ」
「んなの、自分家でやれよ、迷惑なヤツだな」
「ハハ、君に言われるなんてね」
最後に見た姿は、新宿の雑踏の中だった。
あれから数年、時折上がってくる報告書には写真は添付されていないので、五条の中ではずっと、10代のままである。
その男が、今、禍々しい紫陽花の向こう側にいる。
「呪力が足りない子に分けることもできるから重宝してたんだけど…ここまでかな」
まさか君が来るとはね。別れたときよりも幾分上ずった楽し気な声だ、と感じるのは、願望のせいだろうか。
「こっちも残念だよ。折角生徒たちのいい実習になると思ったのに」
特級呪詛師が関わっていたとなれば、今すぐ処分しなければならない。いくらかサンプルでも持ち帰れば上のヤツラは喜ぶだろうが、あいにく五条はそこまで親切ではなかった。
「なんの冗談かと思ってたけど、案外上手くやってるじゃないか、”先生”」
「うるさいよ」
印を結んだ指を、紫陽花へ向ける。
あの日と同じように。
「相変わらずセッカチだなぁ。ちゃんと帳を下ろさないと、またあの学長に拳骨喰らうんじゃない?」
危機感のない呑気な笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
いっそ紫陽花ごと吹き飛ばしてしまおうか――なんて、できもしないことを考え、止めた。
前に向けていた指を、口元へ移動する。お決まりの呪文を唱えて、帳を下ろす。
やっぱり景気づけに茈ぶっ放してやろうか。
なにもかも破壊して、そして。
徐々に暗くなっていく庭で、五条は自嘲する。考えるだけならタダだ。楔はまだ辛うじて、五条をこちら側に繋ぎ止めていた。