部屋中を満たす、湿った、かすかに甘い匂い。
様々な色の花びらや、見たこともない形の葉を持つ植物。
溢れんばかりの花を包み、あちこちに陳列されている花束。
どこから入ってきたのか、耳元を掠めた蜜蜂の羽音。
棚にずらりと並べられている、華やかな模様のついたリボンと紙。
王都で一番の品揃えを誇るという花屋は、建物の中に突然現れた森のようで、しかし自然にある風景とは全く異なっている。
そう、人の手で管理されている、という意味では、あの研究所とも少し似ているかもしれない。ここの方がずっと明るいけれど。
「花を受け取りに来たのだけど。これ、注文の控え」
「ああ、ムーンクレストさんのお使いですね。奥から持ってきますから、ちょっと待っててください」
リネットと、花を受け取ってムーンクレストに届ける。それが、今回ソニアから任された任務だった。今夜ムーンクレストを貸し切って開催されるパーティーの、装飾に使うものだそうだ。店はパーティーの準備で人手が足りないらしく、ソニアの要請を受けて手の空いていた二人で行くことになった。
年齢が近いこともあって、リネットとは何かと一緒に行動することも多いが、大抵そこにはエステアや、イータとシータの姉弟といった同年代の仲間がいた。こうして二人で何かをする、というのはあまり経験がない。
だからだろうか、リネットという人間についての知識はそう多くない。エステアが加わるよりも前から、アルフたちと旅をしているらしいこと。いつも二挺の銃を肌身離さず持っていること。戦闘の時は、その銃で寸分の狂いもなく敵を次々と撃ち抜いていくこと。歌声が綺麗なこと。それくらいだった。
そのリネットは今、隣で売り物の花を眺めている。白くて小さな、鈴のような形をした花だ。そういう花が好き、なのだろうか。だが表情を観察してみても、今ひとつ判断がつかない。
「なに?」
リネットがいきなりこちらを向いて問うてきた。少し、観察しすぎたかもしれない。相変わらず眉一つ動かさない──いや、少し眉間にシワが寄っているようにすら見える。
「……その花が、好きなのか?」
「別に。ただ目の前にあったから見ていただけ」
「そう、か」
リネットは呟くように答えて、再び花に視線を戻した。これ以上彼女の顔を見ていると、気分を害するかもしれない。そう判断し、代わりに反対側へと目を向けてみると、ふと店の一角に目が留まった。
近づいて見てみると、同じ種類の花を集めたコーナーのようだった。長めに切られた茎の先に、小指の爪ほどの花弁の集まった小さな花が上向きについている。白やオレンジもあったが、赤いものが一番多い。一本ずつ包装さて売られているかと思えば、同じ花を数十本も活けた籠もある。
「カーネーションね。もうすぐ母の日だから」
いつの間にか、リネットが背後に来ていた。
「母の、日」
「〈母の日に、日頃の感謝の気持ちを込めて、お母さんにカーネーションを贈りませんか?〉……だそうよ」
壁に貼られたポスターをリネットは読み上げた。
知っている。母、とは女の親。親、とは子を産み育てる者。生物は、みな母から生まれる、らしい。
「リネットは、母親にカーネーションを贈るのか?」
「私はしないわ。親なんていないもの」
「……すまない」
「別に。あなただって同じでしょう」
同じ? 確かに、フェクタにも親はいない。その点ではリネットと共通している。だがリネットの「親がいない」とフェクタの「親がいない」は、違う。決定的に、違うところがある。
再び沈黙が落ちる。何か会話を続けた方がいいのかと思いながらも、何を話題にすればいいのか見当がつかない。
周りの人間たちが当たり前のように行っている会話という行為が、時々自分にはひどく難しいもののように感じられる。こういう時、エステアだったらどうするのだろう、とつい考えてしまう。
意味もなくもう一度ポスターを見る。さっきリネットが読んだ文字の下に絵が描かれていた。赤い花──カーネーション、を持つ女性と、彼女の子どもらしき男の子と女の子が一人ずつ。三人とも、顔には同じような笑顔を浮かべている。なぜ、笑っている? 子どもは、母親に感謝しているから。母親は、感謝されたから。それは理解できる。
「普通の人間は、親に感謝するものなのだろうか」
「さあ」
「なぜ、子どもは親に感謝するのだろう」
「どうしてかしらね」
「リネットは、親に感謝している?」
「言ったでしょ。私に親はいないわ」
「だが、リネットは普通の人間、だから……たとえ面識がなくても、リネットを産んだ人間はいるのだろう?」
「それを言うなら、あのなんとかって博士が親ってことになるわね。あなたの場合」
「普通の人間は、研究所では生まれない」
「……あなた普通普通って言うけど。『普通』って、何? まさか、自分は普通の人間じゃないだなんて言うつもり?」
リネットの声が、少しだけ高くなったように聞こえた。こちらを見つめる赤紫の瞳が光っている。じわりと頭が熱くなるような感覚がした。
「普通、とは、多くの人間にとって当てはまる、ということだろう。フェクタは、フェクタとあの戦闘員たち以外に、研究所で生まれた人間を見たことがない。そういう人間が他にいると聞いたこともない」
「なら、私も普通じゃないわね。親がいなくて、銃を持って旅をしている子どもなんて私以外に見たことがないもの」
その時店の奥から、お客さん、と声が聞こえた。見ると、さっきの店員が大きな花束を二つ抱えてカウンターに立っている。
「……もうやめましょう、この話は。考えたって仕方のないことだわ」
リネットはそう言うと、背を向けて早足で奥へと向かっていってしまった。
***
昨日からずっと、気がつくと頭の中でリネットとの会話を繰り返してしまっている。
あの後、受け取った花束をリネットと一つずつ持って、ムーンクレストへと向かった。任務自体は滞りなく遂行できたが、花屋をを出てから拠点へ帰るまで、お互い一言も喋らなかった。そのまま何となく別れて、顔を合わせることなく夕食をとり、就寝した。
今朝起きてから一度すれ違ったので、一瞬迷ったがいつものように挨拶をした。帰ってきた声は普段より低く、短かったように聞こえた。しかし改めて考えてみると、リネットは前からそんな風だったような気もする。よく、思い出せない。
フェクタは、失敗したのだろうか。リネットは、怒っている、のだろうか。
人と会話をするときは、相手が嫌な気持ちにならないように注意すべき。それは、分かっている。しかし、相手が嫌な気持ちになっているのかどうか判別する方法や、嫌な気持ちにならないようにするためにはどうすればいいのかは、分からない。やはり、会話は難しい。捉えどころのない要素が多すぎる。
エステアに相談しようかとも考えたが、そのためには昨日の会話の内容を伝えなければならない。あれをエステアに知られると思うと、あまり気は進まなかった。
朝食のときもそのことばかり考えて、度々手が止まってしまった。おかげで、部屋に戻るのが随分遅くなった。
同室のメンバーはもう皆出かけてしまっただろうか、と思いながらドアを開ける。
「あっ、フェクタ! 遅かったね」
予想に反して、部屋にはまだ一人残っていた。
「リッカ、いたのか」
リッカは、部屋の中心のテーブルで何か作業をしていたようだった。何をしているのかとのぞき込んでみると、テーブルに何か円状のものが載っていることに気がついた。拳を二つ合わせたほどの大きさで、葉や小さな木の実、そしてたくさんの花が飾り付けられている。見覚えがある、この花は確か──
「カーネーション」
「そう! おかあさんに送るの。お手紙も書いたんだよ」
ほら、とリッカは淡いピンク色の封筒を誇らしげに見せてきた。隅に添えられた雪だるまの絵は、おそらくリッカが描き足したのだろう。
「ほんとは、ほんとのお花が送りたかったんだけど……お花屋さんにね、オルテアに着くまでにしおれちゃうかもって言われちゃったの。だから、リースにしたんだ」
円状のものはリースと言うものらしい。だが今はそれよりも、注目すべき情報があった。
「リッカはオルテアの出身なのか」
「うん。冬になると、雪がたーっくさん降るところなんだ」
出会ってからしばらく経つのに、自分と同じ出身なのだということに初めて気がついた。言われてみると、リッカについても知らないことが多いのかもしれない。リネットほどではないにしても。
「オルテアにも、エルフの村があるとは知らなかった」
「違うよ? リッカの村はエルフの村じゃなくって、人間の村」
「え? ……だが、リッカは」
「リッカのおとうさんとおかあさんは、人間なの」
どういう、ことなのか。リッカの発言に思考が追いつかない。リッカの親は人間らしい。ということは、実はリッカはエルフではなく、人間なのか? しかし帽子から飛び出ている耳は、どう見てもエルフのものだ。
「人間から、エルフが生まれる……?」
「んー? リッカも詳しいことはよく分かんないけど、たぶん違うよ。リッカのほんとの……ううん、リッカを産んだおかあさんがエルフで、リッカを育ててくれたおかあさんは人間、ってこと」
そう説明されて、ようやく腑に落ちた。そういうこともあるのか。親子というものは、もしかすると自分が思っているよりも色々な形がある、のかもしれない。
だがそうだとしてもリッカの事情は、多くの人間にとって当てはまる、というものではないだろう。それなのにリッカの口調はあっけらかんとしていて、まるで何でもないことであるかのように語っている。昨日の会話を、また思い出してしまう。
「リッカ、嫌だったら答えなくていいのだが……リッカは、自分の生まれを、普通ではないと思ったことはないのか」
リッカは一瞬きょとんと目を丸くした後、うーん、と天井を見上げた。
「そんなこと、考えたこともなかったなあ……だって、なにが違うのか分かんないもん。おとうさんとおかあさんが人間なのが、リッカにとってのふつうだから」
そう言うとリッカは顔を戻し、こちらに向きなおってきた。
「それにリッカ、おかあさんとおとうさんのこと、大好きなんだー!」
歯を見せて、リッカは顔を思い切りほころばせた。
こんな満面の笑みで、「大好き」と迷いもなく言い切れるものなのか。親というものはそれほど偉大なものなのだろうか。それとも、リッカとリッカの親が特別なのか。
少なくとも、エルフのリッカは人間の親に育てられて、彼らを「大好き」だと思っている。それは確かなことなのだと、この笑顔の前には納得せざるを得ない。
「すまない、不躾なことを聞いた」
「んーん、だいじょうぶ」
首を振ったリッカは、机の上のリースを手に取った。赤い花は、白い手に包まれて一層鮮やかに見えた。
「おかあさん、喜んでくれるかなあ」
「……ああ、きっと喜ぶと思う」
「えへへ……そうだといいなあ」
***
「フェクタ、行きたいところがあるの。一緒に来てもらってもいい?」
昼下がり、エステアからそう声をかけられた。いつもと違う少し改まった言い方で、単なる外出の誘いではないようだ、と分かった。
幸い、この後に任務の予定はない。第一、エステアからの頼みならば、断る理由もない。
「了解した」
王都の門を出て、西の方角にしばらく歩いた先の林の中に、エステアの目的地はあった。
大きな、石造りの建物。見上げると、尖った屋根の先端に十字架が立てられている。
「……教会、か」
教会所属の仲間──ルロイやレオノーラたちから話には聞いていたが、実際に来るのは初めてだった。ただ、窓にはめ込まれた色とりどりのガラスところどころ破けてしまっていたし、入り口の看板は腐食していて何が書いてあるのか分からなくなっている。長い間、人の手は入っていないのだろうと見えた。
エステアは慣れた手つきで、扉の閂を引いた。錆の屑がぱらぱらと落ちる。錆び付いて動かないのではないかと心配したが、予想に反してあっさりと閂は外れた。
きしんだ音を立てるドアを押して中に入ると、黴の匂いの混じった、ひんやりとした空気に包まれた。
「毎年ね、この日はここに来たくなるんだ」
半歩前を進むエステアが言う。今日は何か特別な日だったろうか、と考えて、すぐに思い当たるものがあった。
「母の、日?」
「うん」
歩くたびに靴音が響き、天井へと吸い込まれていく。
どうして母の日だと教会へ行くのか、と聞こうとしたとき、何かの前でエステアは足を止めた。つられて立ち止まる。
エステアの目の前にあるものは、石像だった。ベールを被った女性が、俯いて胸の前で手を組んで祈っている姿を模ったものだ。人ふたり分くらいの大きさだろうか。
失礼します、とエステアは石像に声をかけ、足元に張られていた蜘蛛の巣を払った。
「これが見たかったの?」
「そうだね……聖母さまに、会いたくなるのかも」
「せいぼ、さま?」
エステアは振り返って、近くの石段に座るよう促した。並んで腰をかけて見上げると、俯いている石像の顔がよく見える。
エステアは、石像が聖母と呼ばれる女性の姿を表したものなのだということ、聖母とは、生きとし生けるもの全ての母親なのだと、以前暮らしていた孤児院で聞いたこと、そしてその頃から、エステアは聖母の像を見ることが好きだったのだと教えてくれた。
「聖母、とは……人を産んだり、育てたりする母親とは違うのか」
「うん……聖母さまは、みんなのお母さんなんだって。わたしのお母さんでもあるし、このお話をしてくれた孤児院の先生のお母さんでもあるし、フェクタのお母さんでもあるの」
最後の言葉に、頭がすっと冷えたのを感じた。エステアは、何気なくそれを付け加えたのだろう。でも、そこにある「普通」と「普通でない」の壁を、嫌でも意識してしまう。リネットの時と同じだ。
「フェクタを産んだ親はいないのに?」
だから、ついそうこぼしてしまった。
「そんなの関係ないよ。だって、フェクタも生きてるでしょ? 聖母さまは、生きものみんなのお母さんだもん」
聖母だとか、神だとか、エステアはそういうものの実在を信じている。そのことも、自分にはよくわからない。何故なら。
「……聖母が、母親なら……どうして、何もしてくれないんだ。どうして、エステアが辛い目に遭っているとき、何もしなかったんだ」
「……!」
エステアは一瞬目を開いて、うつむいてしまった。
「……すま、ない。フェクタは、余計なことを」
「謝らないで」
短く、きっぱりと、エステアは言った。
また、会話に失敗してしまった。不適切だと、エステアを傷つけると、分かっているのに。言葉を止められなかった。胃の辺りが冷たく締め付けられる。会話が下手なせいで、一番大切な人すら傷つけてしまう自分が、嫌だ。
けれども、その後に続いたエステアの声は、想像していたよりもずっと柔らかかった。
「ありがとう。フェクタは、わたしのことを思って言ってくれたんだよね。……でもね、わたしはあの時、聖母さまのことを思い出したから、わたしを取り戻せたの。聖母さまがいなかったら、今のわたしはいない」
石段に置いた右手に、エステアの左手が重ねられた。二人とも手袋をしているはずなのに、なぜか、暖かい。
「確かに聖母さまは、普通のお母さんみたいに、ご飯を食べさせてくれたり、抱きしめたりはしてくれないけど……わたし、あの聖母さまを見てるとなんだか安心するの。ここにいていいんだよって、言ってもらってるような気がして。わたしは、それだけでじゅうぶんなんだ」
とエステアは言って、もう一度石像の方へ目をやった。
聖母さま、と呼ばれる俯いた女性は、静かな笑みを浮かべてフェクタたちを見下ろしている。
「いつもは一人なんだけど……今年は、フェクタがいてくれてよかった」
「エステア、相談したいことがあるのだが」
「どうしたの?」
「フェクタは、リネットを怒らせてしまったかもしれない」
聖母像の前に座ってから半時ほど。話をしたり、お互いに黙って像を眺めたりして過ごした後、意を決してムーンクレストの任務であったことをエステアに説明した。
「そっか。そんなことがあったんだ……でも、二人が喧嘩するなんてなんだか意外」
喧嘩、だったのだろうか、あれは。喧嘩というものも、イータとシータの姉弟が言い争っているのを前に一度見たことがあるだけで、自分はしたことがないからよく分からない。
「でも、リネットさんも本当は怒ってないと思うな。ちょっと気まずくはなっちゃってるかもしれないけど」
「そうなのか? リネットは表情があまり変わらないから、なにを考えているのかよく分からない」
「……無表情なのは、フェクタもじゃない?」
「エステアは、分かりやすいのに」
「そう、かなあ……」
そんなに分かりやすいかなあ、とエステアは苦笑した。やはり、リネットよりは分かりやすい。それは、フェクタとエステアが同じ構成要素を持っている人間だから、なのだろうか?
「……そう言われてみると、フェクタとリネットさんって似てるかも」
「どこが?」
「ちょっと不器用だけど、本当はすっごく優しいところ」
エステアはにこりと笑うと、思い出すように天井を見上げた。
「わたしとフェクタが初めて会ったあと……フェクタを探してたとき、リネットさんが言ってくれたの。『紹介してよね、あなたの妹』って。わたし、すごく嬉しかったんだ。フェクタのことを、妹だって言ってくれて。胸を張って、そう言っていいんだって、教えてくれたから」
「……そんなことが」
知らなかった。自分の目から見たリネットは、無口で、素っ気なくて──本当に、そうだっただろうか。
リネットは、「自分が普通の人間じゃないだなんて言うつもり?」と言っていた。つまり、フェクタは普通の人間なのだと、言っている? いや、違う。
フェクタが思っていたような「普通」なんてものは、どこにもないのだ。皆、それぞれに「普通」がある。リネットは、銃を持って旅をしているのが普通。リッカは、親が人間なのが普通。フェクタとエステアの関係も、普通。
どこかにあると思っていた「普通」を手放すのは、とてつもなく怖い。ただでさえ手探りなことばかりで、何でもない会話すらうまくできないのに、これ以上曖昧になってしまったら、また迷ってしまう。
でも今は不安よりも、体が軽くなったような感覚がする。今なら、何でもできるのではないか。そんな根拠のない自信が、頬を熱くする。
そして、これからフェクタのしたいことは。
「エステア。フェクタは、リネットと仲直りがしたい。でも、方法が分からないから……一緒に、考えてくれないか?」
「……うん。もちろんだよ、フェクタ」
***
ついていこうか、というエステアの申し出を断り、王都の町中でリネットを探し始めて数時間後。そもそも教会から帰る途中に寄り道をしたこともあって、ようやくその姿を発見した頃には、日も大分落ちかけていた。
リネットは、町外れの空き地にひっそりと置かれていたベンチで、愛用の銃を磨いているところだった。他に人影はなく、同じ王都なのかと思ってしまうくらい静まり返っている。
「リネット、見つけた」
見つかったらなんと声をかけようかと考えていたけれど、いざその時になってみると、やっと会えたという安堵が先に口をついて出てしまった。
「……何か、用?」
急に声をかけたというのに、リネットは相変わらずの無表情でこちらを見上げてきた。けれども銃を磨く手は止めてくれている。隣に座ってもいいかとと聞くと、一瞬間があったのちに無言で頷いてくれた。
自分もベンチに腰掛け、王都を探している間ずっと手に握っていたものを、目の前に差し出した。
「リネット。これを、受け取ってくれないか?」
それは、二輪のカーネーションだった。ムーンクレストの任務で行った花屋で買ったものだ。花束と呼ぶには少なすぎるが、ちゃんと薄紙で包装してリボンを結んである。ただし色は一番目立っていた赤ではなく、ピンクと黄色である。
「……私、あなたの母親じゃないわよ」
「そういう意味じゃない」
じゃあどういう意味なのか、と言わんばかりの怪訝な顔に、二輪のうちのピンクの方を差し向けた。
「こっちは、エステアから。ピンクのカーネーションの花言葉は、『感謝』だそうだ」
先ほど立ち寄った花屋の店員は、そう言ってこの花を勧めてくれた。「だから、お母さんに対してじゃなくても贈り物にはぴったりの花なんですよ」とも。
「感謝? ……私、あの子に感謝されるようなことしたかしら」
「たくさんしてもらった、とエステアは言っていた」
花を見ながらリネットは、ふうん、と喉だけを鳴らした。眉間のシワが少しだけ浅くなったように見える。
「それで、こっちがフェクタから」
「……これにも、花言葉が?」
「ああ。黄色のカーネーションの花言葉は、『友情』、だそうだ」
両手で持った花とともに、もう一歩前に出る。
「フェクタは、リネットの、友人になりたい」
言葉に気持ちを込める、という感覚はまだよく理解できない。だからせめて、それが嘘ではないのだと、ちゃんと伝わるように。その赤紫の瞳に映る自分と、確かめるように。
「……近すぎ」
「すまない。だがエステアが、気持ちを伝えるときはしっかり相手の目を見るべきだと」
「限度ってものがあるでしょ」
気がついてみると、確かに自分はだいぶ前のめりな姿勢になっていて、その分リネットの背はベンチから上半身が落ちそうなくらいのけぞっていた。姿勢を戻そうとする──が、それよりも早く、花束を包む紙がかさりと音を立てた。
手元を見る。黒いグローブに包まれた自分の手の前に、リネットの白い手のひらがあった。
「どうしたの。くれるんでしょう」
そう言われるまで、受け取ってくれる気なのだと気付かなかった。慌てて手を話すと、花はふわりとリネットの胸元で受けとめられた。
「……仲間と友人って、どう違うのかしら」
「え?」
「なんでもないわ。それより、そろそろ退いてくれる」
そう言われて、ようやく元通りに座り直した。改めてリネットの手に渡った花を眺めてみる。無意識に強く握りしめてしまっていたらしく、持っていた辺りの紙が少し崩れてしまっていたが、花はきちんと上を向いている。
「あなたたち、そういう律儀なところ本当によく似てるわよね」
「あなた、たち?」
「あなたとエステアよ」
エステアからは、リネットと似ていると言われたのに。そのことを言うかどうか少し迷って、けれどもどこか胸の辺りがうずうずするような気がしてやめた。
返事がないのをどう解釈したのか、リネットは一つ息をついて、あ、と思い出したように付け加えた。
「言い忘れるところだったわ。これ、ありがとう」
そう言ったリネットの顔は、よく知っている無表情と殆ど変わらないのに、けれどもわずかに違っていて。これは、そう──
「リネット。今、笑った?」
「……笑ってない」
「だが、口角が数ミリほど上がったように見えた」
「笑ってないったら」
すぐにいつもの顔に戻って、リネットはぷいとそっぽを向いた。そろそろ戻るわ、と跳ねるように立ち上がり、フェクタに背を向けて歩き出す。
待って、まだ答えを聞いていない──と言いかけて、はたと気がついた。自分は「友人になりたい」と宣言はしたが、リネットに「友人になってほしい」とは言っていない。これでは答えも何もないだろう。
急いで後を追おうとして腰を浮かせたとき、くるりとリネットが振り返った。
「何してるの。ほら、行きましょ」
花を持っていない方の手が、目の前に差し出された。
この行為の意味は、分かる。これに対して、自分がどうすればいいのかも。心拍数が少し上がったような気がする。でもそれは決して不快な感覚ではない。むしろ今は、心地よいとすら感じる。
「……ああ」
そしてフェクタは、差し出された手に、自分の手を重ねた。