happy trail あーさりくーん、というきいろい声が練習場に響き渡った。
なんだと見やるそのさき、フェンス越しに大学生らしい少女たちが手をふっている。きゃっきゃと笑いさざめくさまはなかなかに愛らしい。さてではなまえを呼ばれた当人はと見れば苦虫を噛み潰したような顔をしているから、福田はつい苦笑してしまう。青少年だよなあ、と心のうちでつぶやいて、一年生の集団に歩み寄った。
練習を終えたばかりで、子どもたちはまだ汗も拭いていない。上級生たちがぞろぞろと帰っていくのに遠慮しているのか、練習場の片隅でかたまって立ち話をしている。注目の的となっている朝利はむっとした顔を隠そうともせず、そのかたわらで青井が減るもんやなし手ェくらいふってやれやと言い、大友がなにやら呪詛の言葉を吐いている。
「アシトの言うとおりだ」
声をかければ一年生たちは弾かれたようにふりかえり、そろって目をまるくする。練習後に監督に話しかけられるのがそんなに珍しいかと、福田はちいさく肩をすくめた。
ほらこのとおり、と少女たちに手をふってやれば、きゃーと甲高い悲鳴とともに笑顔が返ってくる。オレもまだまだ捨てたもんじゃないなあとこっそり悦に入っていると、朝利が渋面を崩すこともなくぼそりと言った。
「僕は、媚を売るのはいやです」
ぎゅっと拳を握りしめて朝利はそう言う。いかにもきまじめなその口ぶりに、福田としてはやはり苦笑するよりほかない。媚びってなあ、とちいさくごちれば、橘が気遣うようなそぶりを見せた。
騒ぎを聞きつけたか、弁禅と伊達もなんだなんだと近寄ってくる。フェンスの向こう、少女たちはファンサービスに満足したらしい、きゃっきゃとはしゃぎながら団子になって駆けていった。
「媚びじゃない。もちろん技術も大事だが、プロってのは人気稼業でもあるからな。ファンサービスのひとつくらいできるべきだ」
そう諭しても朝利はやはり納得できないらしい、拳を握りしめたままうつむいてしまう。なまじ容姿が整っているだけに、サッカーへの矜持はひと一倍強いのかもしれなかった。イケメンもたいへんだなと心中ぼやきつつ福田は首筋を掻く。
状況をいちはやく察したらしい弁禅が、ふうむと唸って腕組みする。
「まあ、媚びを売れとは言わんがサポーターからの応援には感謝せんとな。ピッチに立つと、自分のユニフォームを着て応援してくれるサポーターがひときわありがたく思えるもんじゃ。特にGKユニは色が違うから目立つしの。数字で考えるのは性に合わんが、シーズン前にはどの選手のユニフォームやタオルマフラーがいちばん売れたかのランキングも出るし、グッズの売り上げも無視はできんしのう。サポーターミーティングやらファン感謝祭やら、実際にサポーターと触れ合う機会も結構多いんじゃぞ」
「そうそう、オレらも入団一年目にはファン感でさ、リリーフカーってあるじゃん、野球とかで使うやつ、あれにさ、抽選で当たったサポとマンツーマンでピッチをぐるっと一周するってコーナーがあってさー。オレは小学生のサッカー小僧とだったんだけど望は年上のお姉さんだったから緊張して何も喋れなかったんだよな、そしたらその無言でハンドルをさばくところがかっこいいって評判になって、次の年は「伊達望といく1時間フェラーリデート」って企画が出て、すごかったぞ、まっかなフェラーリにタキシードでビシッと決めた望が薔薇の花束持って出迎えんの。オレ応募したら広報に怒られたわ」
「なにをしているんだおまえは」
伊達が呆れたようにため息をつくのに、福田はにっと口の端をあげる。
「いやだってそんなの絶対乗りたいじゃん、実際反響すごかったしな」
「おまえらはええのう華やかで、ワシはなあ、ドリルじゃったな」
弁禅の言葉に、一年生たちが目をぱちくりとさせる。みなの疑問を代表するように、青井がはいと手を挙げた。
「ドリルってなんじゃ、弁禅さん」
こどもたちの素直な問いに、弁禅はそうじゃのと腕組みしたまま顎を撫でる。
「ワシのなまえが弁禅じゃろ。ベンゼンといえば理科の教科書に出てくる、ってことで小学六年生の理科のドリルになったんじゃ。『教えて弁禅先生!』とかいってな、白衣を着ていろんなポーズをとったものよ。それでその写真がドリルの1ページごとに出てくるわけじゃ。いやあ、そのあと何年か、道を歩いてると中学生たちに弁禅先生のおかげで理科が得意になりましたとか喜ばれたな」
おかげでこっちもちょっと理科が好きになったわ、と弁禅は快活に笑う。
何だかわからないけどプロってすごいらしい、と額をつきあわせてひそひそ話し合う子どもたちを、福田は微笑ましい気持ちで眺める。オレらにもあんな初々しいころがあったかねえ、とかたわらを見やれば、おまえは結構はねっかえりだったぞと過去を知るふたりから釘を刺された。
と、そこに器具の片付けを済ませた月島が戻ってくる。
「どうしたんだい、みんな集まって」
小首を傾げるのに、ちょうどいいところに来たと福田は指名のポーズをとった。
「月島、現役時代ファン感とか広報関係のファンサでいちばんインパクトあったのって何だ?」
「ファンサービス? ええと」
そうだねえと月島は拳を口元にあてる。
「『ツッキーサンタと過ごす女子サポ200人限定クリスマスパーティー』かな」
にひゃく、と大友が絶句する。それまで我関せずを決め込んでいた冨樫も、さすがに驚いたのか目をむいた。
十代男子の驚愕と戸惑いと羨望のまなざしを一身に浴びながら、当の本人ばかりがにこにことのんきに昔を懐かしんでいる。
「厳密には僕だけじゃなくて若手選手五人くらいでサンタクロースの格好して、サポーターと握手したりお話したりプレゼント抽選会したりしたんだよね。あの時期は広報のひとが女子サポに夢を見せたいって方針だったから、わりとそういう企画が多かったな」
情報量が多すぎたのか、一年生たちは揃ってぐったりとした顔をしている。青井など練習中でもないのに耳から煙を出している始末、おもしろいもんだと福田はてのひらでこっそり笑みを隠す。
「まあ、弁禅じゃないがプロになったあかつきには名前を駄洒落にされるくらいのことは覚悟しておけ」
「そうじゃな、まあ絶対あるのはあれじゃろ、『朝利選手のアサリスープ』」
「あーそれ絶対出されるな。広報がそうとう堅物じゃないかぎり絶対出されるわ」
うむうむと頷き合うおとなたちをまえにして朝利はもはや無我の境地となっている。石となったその姿に、伊達がそっと声をかけた。
「魚介類にアレルギー等があるなら早めに申告しておくように」
「望、それフォローになってないからな。ああ、あとあれだな、黒田は確実に武将のコスプレをさせられると思っておけ。万が一お膝元の地域のクラブに在籍することになったら年中大喜利でコラボグッズとか山ほど出されるからな」
まさか自分に飛び火するとは思っていなかったらしい黒田が、珍しくも目を見ひらいて硬直する。その姿を気の毒そうに見やりつつ、弁禅がそうじゃなととどめを刺す。
「イケメン枠かネタ枠か、だれもが一度は通る道じゃ。心しておけよ」
「どっちの枠になるかは日々のファンサにかかってくるところもあるぞー。いやだなんて強情を張ってるとよけいにおもしろがられてタキシードと薔薇の花束のセットでフェラーリに乗せられることになるからな」
「なお『福田達也のワクワク福笑い』はうちの親戚間でいまも現役であることをつけ加えておく」
「ああそれな、うちでも正月になったら花が押入れから引っ張りだしてくるわ。もう十年以上遊んでるからオレの顔のパーツがどれだけバラバラになっても復元可能だぞ!って言われる」
「医者志望が言うと真に迫ってるね」
「広報はその場のノリで変なグッズつくってくるけど本人たちにとっては結構一生尾を引く問題にならんこともないからな、ときにはノーと言える勇気も必要だぞ」
頑張れよーとほがらかにガッツポーズを向けてやれば、こどもたちはもはや青息吐息といった塩梅、ちょっとおもしろがりすぎたなと反省しつつ福田はその背をぽんぽんと叩く。
「まあ、プロになるための道はいろいろと険しいってことだな」
ぐったりしながらも、ありがとございマースと礼儀正しい挨拶をして子どもたちは去っていく。
僕たちも帰ろうか、と月島と弁禅がクラブハウスに向かって歩きだす。
どこかで遠くチャイムが響く。腕時計の針は六時をさしていた。
夕暮れの空にカラスが鳴いて、帰るかーと福田も踵を返す。
と、ふいに耳に低い声がした。
「初耳だぞ」
ふりかえれば伊達の目はまっすぐこちらを向いていたから、律儀なものだと福田はすこしおかしくなる。
「言ってないからな。望には内緒にしてくれって広報にも口止めしたし」
そう言い、福田は口の端をあげる。
「若かりし頃の嫉妬と羨望と、まあちょっとした絶望ってやつだ」
言葉を見つけられないのか、伊達はひっそりと口をつぐむ。その誠実さがなあ、とこっそりのろけ混じりにぼやきつつ、福田はふたたびクラブハウスへと足を向けた。
「一回きりの豪華なフェラーリデートより、毎日歩いて仕事帰りに町中華のほうがよっぽどいいよ」
「毎日町中華は栄養が偏る」
「まじめか」
掛け合いをしつつ、伊達と並んでぶらぶらと歩く。夕暮れに染まる練習場、ふたつの影がつかず離れずのびていた。